弘道館記述義 / 蠻夷戎狄以之率服・海外への威徳と遠征をめぐる論
蠻夷戎狄以之率服。臣彪謹案。素戔嗚尊之獲罪於天祖也。與其子五十猛命。降臨於海外。(書紀云。到於新羅國。又一云韓地。蓋追稱之辭。)少名彦命。亦適於常世國。(案古稱常世。其義不一。而其云常世國者。多指海外絶遠之地。)則鴻荒之時。明神威靈。蓋既被於異邦。然載籍簡古其詳不可得言也。(近時古學者流爲之說曰。外國諸蕃蓋皆少名彦神之所經營。又有廣其說者。曰西土草昧之世有大乙少昊。大乙即大巳貴神。而少昊即少名彦神。其意蓋皆欲尊大皇朝。而不自知其言涉怪誕也。好古之士可不鑒哉。)崇神帝。崇重神祇經綸天業。於是任那國。遣蘇那喝叱知朝貢。外夷向化見於史者。蓋是爲始。垂仁景行二帝相踵撻伐不服。奮其威武。仲哀帝親征熊襲。中道而崩。神功皇后因神祇之敎奉帝之遺意。(案書紀仲哀帝西征條。有神憑皇后曰。征新羅則熊襲亦自服矣。帝疑爲便登嶽遙望曰。有海無國神何誘我。據此則帝不曾不欲遠征。併不信海外有國也。然先是外夷朝貢及投化者不一而足。帝豈有不知海外有國之理耶。況以眼界論有無者眞兒童之見。以帝之明。豈合有斯語耶。且丁卯歲百濟遣使與新羅使朝貢。皇太后太子曰。先帝所欲國人今來朝。痛哉不及見也。群臣皆爲掩涕。據此則征韓之役。出於帝之遺志也明矣。蓋書紀所載前後矛眉。前說頗渉惶誕。後說著實近情。而後世皆據前說不知徵諸後說。可乎哉。此實大義所關係。故敢辯焉。)決意遠征。
新字:蠻夷戎狄以之率服。臣彪謹案。素戔嗚尊之獲罪於天祖也。与其子五十猛命。降臨於海外。(書紀云。到於新羅国。又一云韓地。蓋追称之辞。)少名彦命。亦適於常世国。(案古称常世。其義不一。而其云常世国者。多指海外絶遠之地。)則鴻荒之時。明神威霊。蓋既被於異邦。然載籍簡古其詳不可得言也。(近時古学者流為之説曰。外国諸蕃蓋皆少名彦神之所経営。又有広其説者。曰西土草昧之世有大乙少昊。大乙即大巳貴神。而少昊即少名彦神。其意蓋皆欲尊大皇朝。而不自知其言渉怪誕也。好古之士可不鑒哉。)崇神帝。崇重神祇経綸天業。於是任那国。遣蘇那喝叱知朝貢。外夷向化見於史者。蓋是為始。垂仁景行二帝相踵撻伐不服。奮其威武。仲哀帝親征熊襲。中道而崩。神功皇后因神祇之教奉帝之遺意。(案書紀仲哀帝西征条。有神憑皇后曰。征新羅則熊襲亦自服矣。帝疑為便登嶽遥望曰。有海無国神何誘我。拠此則帝不曽不欲遠征。併不信海外有国也。然先是外夷朝貢及投化者不一而足。帝豈有不知海外有国之理耶。況以眼界論有無者真児童之見。以帝之明。豈合有斯語耶。且丁卯歳百済遣使与新羅使朝貢。皇太后太子曰。先帝所欲国人今来朝。痛哉不及見也。群臣皆為掩涕。拠此則征韓之役。出於帝之遺志也明矣。蓋書紀所載前後矛眉。前説頗渉惶誕。後説著実近情。而後世皆拠前説不知徴諸後説。可乎哉。此実大義所関係。故敢弁焉。)決意遠征。
書き下し
蛮夷戎狄、之を以て率服す。臣彪謹んで案ずるに、素戔嗚尊の罪を天祖に獲るや、其の子五十猛命と海外に降臨す。(書紀に云ふ、新羅国に到る、と。又た一に云ふ、韓地、と。蓋し追称の辞なり。)少名彦命も亦た常世国に適く。(案ずるに古に常世と称するは、其の義一ならず。而して常世国と云ふは、多く海外絶遠の地を指す。)則ち鴻荒の時、明神の威霊、蓋し既に異邦に被る。然れども載籍簡古にして、其の詳らかなること言ふを得ず。(近時古学者の流、之が説を為して曰く、外国諸蕃は蓋し皆少名彦神の経営する所なり、と。又た其の説を広むる者有り、曰く、西土草昧の世に大乙・少昊有り。大乙は即ち大巳貴神にして、少昊は即ち少名彦神なり、と。其の意蓋し皆皇朝を尊大にせんと欲して、自ら其の言の怪誕に渉るを知らざるなり。好古の士、鑒みざるべけんや。)崇神帝、神祇を崇重し天業を経綸す。是に於て任那国、蘇那喝叱知を遣はして朝貢す。外夷の化に向かふこと史に見ゆる者、蓋し是れを始めと為す。垂仁・景行二帝相踵ぎて不服を撻伐し、其の威武を奮ふ。仲哀帝は親ら熊襲を征し、中道にして崩ず。神功皇后は神祇の教へに因り帝の遺意を奉じ、(案ずるに書紀の仲哀帝西征の条に、神、皇后に憑りて曰く、新羅を征すれば則ち熊襲も亦た自ら服せん、と有り。帝疑ひて、便ち嶽に登り遙かに望みて曰く、海有りて国無し、神何ぞ我を誘ふ、と。此に拠れば則ち帝は曾て遠征を欲せざるのみならず、併せて海外に国有ることを信ぜざるなり。然れども是より先、外夷の朝貢及び投化する者、一にして足らず。帝豈に海外に国有るを知らざるの理有らんや。況んや眼界を以て有無を論ずるは真に児童の見なり。帝の明を以てして、豈に斯の語有るべけんや。且つ丁卯歳、百済使を遣はし新羅の使と朝貢す。皇太后、太子に曰く、先帝の欲せし所の国人、今来朝す。痛ましきかな、見るに及ばざりしこと、と。群臣皆為に涕を掩ふ。此に拠れば則ち征韓の役は帝の遺志に出づること明らかなり。蓋し書紀の載する所、前後矛盾す。前説は頗る荒誕に渉り、後説は著実にして情に近し。而して後世皆前説に拠りて、徴を後説に求むるを知らず。可ならんや。此れ実に大義の関係する所なり。故に敢へて弁ず。)決意して遠征す。
現代語訳
「蛮夷戎狄、之を以て率服す」(周辺の異民族は、これによって従った)。臣の彪が謹んで考えますに、素戔嗚尊が天祖に罪を得たとき、その子の五十猛命とともに海外に降り立ちました。(『日本書紀』には「新羅国に到った」とあり、別の一説には「韓の地」とある。これは後から名を当てた言い方であろう。)少名彦命もまた常世国に行きました。(考えますに、古く「常世」と称するのは、その意味が一つではない。そして常世国というのは、多くは海外のはるか遠い地を指す。)そうであれば、太古の時代に、明らかな神の威霊はすでに異国に及んでいたのでしょう。しかし書物の記載は簡略で古く、その詳細は言うことができません。(近ごろの古学者の流れは、これについて説を立て「外国の諸蕃は、みな少名彦神が経営したところである」と言う。またその説を広げる者があり、「西方の国の草昧の世に大乙・少昊があった。大乙は大己貴神で、少昊は少名彦神である」と言う。その意図はみな我が朝廷を尊大にしたいというものだが、その言葉が怪しげな作り話に及んでいることに自ら気づいていない。古を好む士は、これを戒めとしないでよいだろうか。)崇神天皇は神々を崇め重んじ、天の事業を経営しました。そこで任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢しました。異民族が感化されて従ったことが史書に見えるのは、これが始めでしょう。垂仁・景行の二天皇が続いて従わない者を討ち、その武威を奮いました。仲哀天皇はみずから熊襲を征し、途中で亡くなりました。神功皇后は神々の教えによって、天皇の遺志を奉じて、(考えますに、『日本書紀』の仲哀天皇の西征の条には、神が皇后に憑いて「新羅を征すれば熊襲も自然に従うであろう」と言ったとある。天皇は疑って、山に登って遠くを眺め「海があるだけで国は見えない。神はなぜ私を誘うのか」と言った。これによれば、天皇は遠征を望まなかっただけでなく、海外に国があることも信じなかったことになる。しかしこれより前に、異民族で朝貢したり帰化したりする者は一人二人ではなかった。天皇が海外に国があることを知らないはずがない。まして視界の範囲で有無を論じるのは、まことに子供の見解である。天皇の聡明さでどうしてこのような発言があろうか。また丁卯の年、百済が使者を遣わし、新羅の使者とともに朝貢した。皇太后は太子に「先帝が望んだ国の人々が、いま来朝した。痛ましいことに、先帝は見ることができなかった」と言い、群臣はみな涙をぬぐった。これによれば、征韓の役は天皇の遺志から出たことが明らかである。書紀の記載は前後で矛盾している。前の説はかなり荒唐無稽で、後の説は実際的で人情に近い。そして後世の人はみな前の説に拠り、後の説に証拠を求めることを知らない。それでよいのか。これは大義に関わる点なので、あえて論じる。)遠征を決意しました。
解説
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