中朝事実 / 祭祀章・外宮と八幡・鎮座の始め
雄略帝二十一年丁巳冬十月。伊勢皇太神敎大倭姬命。令迎豐受大神於丹波國與佐眞井原。大倭姬命奏之。明年戊午秋九月。差勅使奉迎之。九月鎭坐于度會郡山田原新宮。 一書曰。外宮者。傳言。天祖天御中主神也。皇太神託宣。先祭此神。先拜此神。且皇孫瓊瓊杵尊。在此宮相殿。故天兒屋根命太玉命亦同在焉。因號曰二所大神宮。 謹按。是外宮遷坐之始也。〔以上外宮遷坐〕 欽明天皇三十一年冬。肥後國菱形池邊民家兒市三歲。神託曰。我是人皇第十六代譽田八幡麻呂也。諸州垂跡于神明。今又顯于此。其後差勅使。移而鎭坐於豐前國宇佐宮。〔譽田本名。而八幡爲後自所稱者也。〕 謹按。是八幡鎭坐之始也。蓋外宮八幡共後世所崇敬也。朝廷立神宮。以致旦暮之敬。唯在內侍所。是因往古之神勅也。蓋天祖乃宗廟也。天地也。聖主內嚴內侍所之設。外仰內宮之鎭坐。以崇尊社稷宗廟。其餘者在群祀之列。〔以上八幡鎭坐〕 以上論祭祀之誠。 謹按。延喜式所載。中朝大小神社。三千一百三十二座。其外石清水吉田祇園北野號式外之神。後朱雀帝長曆三年秋八月。定二十二社之式。每歲勅神祇官。以奉幣帛。祈年穀。伊勢太神宮八幡宮。謂之宗廟。賀茂松尾平野春日吉田大和龍田等。謂之社稷。又祖神之祠。謂之苗裔。蓋祭祀之禮。有郊祀天地。有宗廟饗祀。有國家常祀。有內外群祀。而祭祀之道。有祭告。有祈禱。有齋戒之敬。有奉幣之物。有神官。有神地。有神戶。夫禮莫大於祭。祭祀之道。非至誠。則不可致之。至誠之格。不以其道。則不可得。凡自天子以至庶人。祭祀必有分。人君爲天下求福報功。天下之鬼神悉御之。故大祭祀天地。親饗宗廟。小徧告群神。疎及群靈。
新字:雄略帝二十一年丁巳冬十月。伊勢皇太神教大倭姫命。令迎豊受大神於丹波国与佐真井原。大倭姫命奏之。明年戊午秋九月。差勅使奉迎之。九月鎮坐于度会郡山田原新宮。 一書曰。外宮者。伝言。天祖天御中主神也。皇太神託宣。先祭此神。先拝此神。且皇孫瓊瓊杵尊。在此宮相殿。故天児屋根命太玉命亦同在焉。因号曰二所大神宮。 謹按。是外宮遷坐之始也。〔以上外宮遷坐〕 欽明天皇三十一年冬。肥後国菱形池辺民家児市三歳。神託曰。我是人皇第十六代誉田八幡麻呂也。諸州垂跡于神明。今又顕于此。其後差勅使。移而鎮坐於豊前国宇佐宮。〔誉田本名。而八幡為後自所称者也。〕 謹按。是八幡鎮坐之始也。蓋外宮八幡共後世所崇敬也。朝廷立神宮。以致旦暮之敬。唯在内侍所。是因往古之神勅也。蓋天祖乃宗廟也。天地也。聖主内厳内侍所之設。外仰内宮之鎮坐。以崇尊社稷宗廟。其余者在群祀之列。〔以上八幡鎮坐〕 以上論祭祀之誠。 謹按。延喜式所載。中朝大小神社。三千一百三十二座。其外石清水吉田祇園北野号式外之神。後朱雀帝長暦三年秋八月。定二十二社之式。毎歳勅神祇官。以奉幣帛。祈年穀。伊勢太神宮八幡宮。謂之宗廟。賀茂松尾平野春日吉田大和竜田等。謂之社稷。又祖神之祠。謂之苗裔。蓋祭祀之礼。有郊祀天地。有宗廟饗祀。有国家常祀。有内外群祀。而祭祀之道。有祭告。有祈祷。有斎戒之敬。有奉幣之物。有神官。有神地。有神戸。夫礼莫大於祭。祭祀之道。非至誠。則不可致之。至誠之格。不以其道。則不可得。凡自天子以至庶人。祭祀必有分。人君為天下求福報功。天下之鬼神悉御之。故大祭祀天地。親饗宗廟。小遍告群神。疎及群霊。
書き下し
雄略帝二十一年丁巳冬十月、伊勢皇太神、大倭姫に教へて、豊受大神を丹波国与佐の真井原より迎へしむ。大倭姫、之を奏す。明年戊午秋九月、勅使を差して奉迎す。九月、度会郡山田原の新宮に鎮坐す。 一書に曰はく、外宮とは、伝へ言ふ、天祖天御中主神なり。皇太神託宣したまはく、先づ此の神を祭れ、先づ此の神を拝せよと。且つ皇孫瓊瓊杵尊、此の宮に在りて相殿す。故に天児屋根命・太玉命も亦同に在す。因りて号けて二所大神宮と曰ふ。 謹按。是れ外宮遷坐の始めなり。〔以上、外宮遷坐〕 欽明天皇三十一年冬、肥後国菱形池の辺の民家の児、市三歳。神託して曰はく、「我は是れ人皇第十六代、誉田八幡麻呂なり。諸州に神明に垂跡す。今又此に顕る」と。其の後、勅使を差して、移して豊前国の宇佐宮に鎮坐せしむ。〔誉田は本名なり。八幡は後に自ら称する所なり。〕 謹按。是れ八幡鎮座の始めなり。蓋し外宮・八幡は共に後世の崇敬する所なり。朝廷、神宮を立てて以て旦暮の敬を致すは、唯だ内侍所に在り。是れ往古の神勅に因るなり。蓋し天祖は乃ち宗廟なり、天地なり。聖主、内には内侍所の設けを厳かにし、外には内宮の鎮座を仰ぎ、以て社稷宗廟を崇尊す。其の余は群祀の列に在り。〔以上、八幡鎮座〕 以上、祭祀の誠を論ず。 謹按。延喜式に載する所、中朝の大小の神社、三千一百三十二座。其の外、石清水・吉田・祇園・北野は、式外の神と号す。後朱雀帝の長暦三年秋八月、二十二社の式を定む。毎歳、神祇官に勅して、以て幣帛を奉り、年穀を祈らしむ。伊勢太神宮・八幡宮は、之を宗廟と謂ふ。賀茂・松尾・平野・春日・吉田・大和・龍田等は、之を社稷と謂ふ。又祖神の祠は、之を苗裔と謂ふ。蓋し祭祀の礼には、郊に天地を祀る有り、宗廟に饗祀する有り、国家の常祀有り、内外の群祀有り。而して祭祀の道には、祭告有り、祈禱有り、斎戒の敬有り、奉幣の物有り、神官有り、神地有り、神戸有り。夫れ礼は祭より大なるは莫し。祭祀の道、至誠に非ざれば、則ち之を致すべからず。至誠の格るも、其の道を以てせざれば、則ち得べからず。凡そ天子より以て庶人に至るまで、祭祀必ず分有り。人君は天下の為に福を求め功に報ゆ。天下の鬼神、悉く之を御す。故に大には天地を祭祀し、親ら宗廟を饗し、小には徧く群神に告げ、疎くは群霊に及ぶ。
現代語訳
雄略帝の二十一年丁巳の冬十月、伊勢の皇太神が大倭姫に教えて、豊受大神を丹波国の与佐の真井原から迎えさせた。大倭姫はこれを奏上した。翌年戊午の秋九月、勅使を遣わしてお迎えした。九月、度会郡の山田原の新宮に鎮座した。 一書にいう。外宮は、伝え言うには、天祖の天御中主神である。皇太神が託宣して、まずこの神を祭れ、まずこの神を拝せよと言った。また皇孫の瓊瓊杵尊が、この宮に相殿として在す。そのため天児屋根命と太玉命も同じく在す。それで二所大神宮と呼ぶ。 素行はこう考える。これは外宮が遷座した始めである。(以上、外宮遷座。) 欽明天皇の三十一年冬、肥後国の菱形池のほとりの民家の子で、市三歳という者に神が託宣した。「私は人皇第十六代の誉田八幡麻呂である。諸州で神明として跡を垂れた。いままたここに現れた。」その後、勅使を遣わして、豊前国の宇佐宮に移して鎮座させた。(誉田は本名である。八幡は後に自ら名乗った名である。) 素行はこう考える。これは八幡が鎮座した始めである。外宮と八幡はともに後世に崇敬されたところである。朝廷が神宮を立てて朝夕の敬を尽くすのは、ただ内侍所にある。これは昔の神勅によるものである。思うに天祖は宗廟であり、天地である。聖なる君主は、内には内侍所の設けを厳かにし、外には内宮の鎮座を仰いで、社稷と宗廟を尊崇する。その他の神々は、諸々の祭祀の列にある。(以上、八幡鎮座。) 以上、祭祀の誠を論じた。 素行はこう考える。延喜式に載る、中朝の大小の神社は三千百三十二座である。このほか、石清水、吉田、祇園、北野は、式外の神という。後朱雀帝の長暦三年秋八月に、二十二社の式を定めた。毎年、神祇官に勅して、幣帛を奉り、年穀を祈らせた。伊勢太神宮と八幡宮は宗廟という。賀茂、松尾、平野、春日、吉田、大和、龍田などは社稷という。また祖神の祠は苗裔という。思うに祭祀の礼には、郊で天地を祭ること、宗廟で饗祀すること、国家の常の祭祀、内外の諸々の祭祀がある。祭祀の道には、祭告があり、祈禱があり、斎戒の敬があり、奉幣の物があり、神官があり、神地があり、神戸がある。そもそも礼は祭より大きいものはない。祭祀の道は、至誠でなければ尽くせない。至誠が通じても、その道によらなければ得られない。天子から庶人に至るまで、祭祀には必ず分がある。君主は天下のために福を求め、功に報いる。天下の鬼神はことごとくこれを統べる。だから大きくは天地を祭り、自ら宗廟を饗し、小さくは広く諸神に告げ、遠くは諸々の霊に及ぶ。
解説

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