中朝事実 / 武德章・景行帝の東夷征伐と日本武尊
景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午。遣武內宿禰。令察北陸及東方諸國之地形。且百姓之消息也。二十七年春二月辛丑朔壬子。武內宿禰自東國還之奏言。東夷之中有日高見國。其國人男女並推結文身。爲人勇悍。是惣曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之。擊可取也。四十年夏六月。東夷多叛。邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌。天皇持斧鉞以授日本武尊曰。朕聞。其東夷也。識性暴强。凌犯爲宗。村之無長。邑之勿首。各貪封堺。並相盜略。亦山有邪神。郊有姦鬼。遮衢塞徑。多令苦人。其東夷之中。蝦夷是尤强焉。男女交居。父子無別。冬則宿穴。夏則住樔。衣毛飮血。昆弟相疑。登山如飛禽。行草如走獸。承恩則忘。見怨必報。是以箭藏頭髻。刀佩衣中。或聚黨類而犯邊界。或伺農桑以略人民。擊則隱草。追則入山。故往古以來未染王化。今朕察汝爲人也。身體長大。容姿端正。力能扛鼎。猛如雷電。所向無前。所攻必勝。卽知之。形則我子。實則神人。是寔天愍朕不叡。且國不平。令經綸天業不絕宗廟乎。亦是天下則汝天下也。是位則汝位也。願深謀遠慮。探姦伺變。示之以威。懷之以德。不煩兵甲。自令臣隷。卽巧言調暴神。振武以攘姦鬼。於是日本武尊乃受斧鉞。以再拜奏之曰。嘗西征之年。賴皇靈之威。提三尺劒。擊熊襲國。未經決辰。賊首伏罪。今亦賴神祇之靈。借天皇之威。往臨其境。示以德敎。猶有不服。卽擧兵擊。仍重再拜之。冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。爰日本武尊則從上總轉入陸奧國。時大鏡懸於王船。從海路廻於葦浦。橫渡玉浦。至蝦夷境。蝦夷賊首島津神國津神等。屯於竹水門而欲距。然遙視王船。豫怖其威勢。而心裏知之不可勝。悉捨弓矢。望拜之曰。仰視君容。秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。王對之曰。吾是現人神之子也。於是蝦夷等悉慄。則寒裳披波。自扶王船而著岸。仍面縛服罪。故免其罪。因以俘其首帥。而令從身也。蝦夷旣平。 謹按。是東夷征伐之始也。自是蝦夷朝貢不怠。敎化大行于東方。綿綿以至今日。武內宿禰之知機也。日本武尊之雄武也。神劔之發威也。靈鏡之明光也。殆武德之盛矣。故帝終至錄其功名。以定武部。示諸後世也。凡少碓王之用兵也。于西于東。所向無寇。勤王而無息。此時邊鄙之反人悉平。夷賊從服。四海大寧。皆是王之功也。惜哉。癘之害而夭其命乎。〔以上征東夷〕
新字:景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午。遣武内宿祢。令察北陸及東方諸国之地形。且百姓之消息也。二十七年春二月辛丑朔壬子。武内宿祢自東国還之奏言。東夷之中有日高見国。其国人男女並推結文身。為人勇悍。是惣曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之。撃可取也。四十年夏六月。東夷多叛。辺境騷動。秋七月癸未朔戊戌。天皇持斧鉞以授日本武尊曰。朕聞。其東夷也。識性暴強。凌犯為宗。村之無長。邑之勿首。各貪封堺。並相盗略。亦山有邪神。郊有姦鬼。遮衢塞径。多令苦人。其東夷之中。蝦夷是尤強焉。男女交居。父子無別。冬則宿穴。夏則住樔。衣毛飲血。昆弟相疑。登山如飛禽。行草如走獣。承恩則忘。見怨必報。是以箭蔵頭髻。刀佩衣中。或聚党類而犯辺界。或伺農桑以略人民。撃則隠草。追則入山。故往古以来未染王化。今朕察汝為人也。身体長大。容姿端正。力能扛鼎。猛如雷電。所向無前。所攻必勝。即知之。形則我子。実則神人。是寔天愍朕不叡。且国不平。令経綸天業不絶宗廟乎。亦是天下則汝天下也。是位則汝位也。願深謀遠慮。探姦伺変。示之以威。懐之以徳。不煩兵甲。自令臣隷。即巧言調暴神。振武以攘姦鬼。於是日本武尊乃受斧鉞。以再拝奏之曰。嘗西征之年。頼皇霊之威。提三尺劒。撃熊襲国。未経決辰。賊首伏罪。今亦頼神祇之霊。借天皇之威。往臨其境。示以徳教。猶有不服。即挙兵撃。仍重再拝之。冬十月壬子朔癸丑。日本武尊発路之。爰日本武尊則従上総転入陸奥国。時大鏡懸於王船。従海路廻於葦浦。横渡玉浦。至蝦夷境。蝦夷賊首島津神国津神等。屯於竹水門而欲距。然遥視王船。予怖其威勢。而心裏知之不可勝。悉捨弓矢。望拝之曰。仰視君容。秀於人倫。若神之乎。欲知姓名。王対之曰。吾是現人神之子也。於是蝦夷等悉慄。則寒裳披波。自扶王船而著岸。仍面縛服罪。故免其罪。因以俘其首帥。而令従身也。蝦夷既平。 謹按。是東夷征伐之始也。自是蝦夷朝貢不怠。教化大行于東方。綿綿以至今日。武内宿祢之知機也。日本武尊之雄武也。神剣之発威也。霊鏡之明光也。殆武徳之盛矣。故帝終至録其功名。以定武部。示諸後世也。凡少碓王之用兵也。于西于東。所向無寇。勤王而無息。此時辺鄙之反人悉平。夷賊従服。四海大寧。皆是王之功也。惜哉。癘之害而夭其命乎。〔以上征東夷〕
書き下し
景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武內宿禰を遣はして、北陸及び東方諸國の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、東國より還りて奏言す、東夷の中に日高見國有り。其の國人は男女並びに推結文身し、人と爲り勇悍なり。是れ惣べて蝦夷と曰ふ。亦た土地沃壤にして曠し。擊ちて取るべし、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、邊境騷動す。秋七月癸未朔戊戌、天皇、斧鉞を持ちて以て日本武尊に授けて曰く、朕聞く、其の東夷や、識性暴强、凌犯を宗と爲す。村に長無く、邑に首無く、各々封堺を貪り、並びに相盜略す。亦た山に邪神有り、郊に姦鬼有り、衢を遮り徑を塞ぎ、多く人をして苦しましむ。其の東夷の中に、蝦夷は是れ尤も强し。男女交居し、父子別無し。冬は則ち穴に宿り、夏は則ち樔に住む。毛を衣て血を飮み、昆弟相疑ふ。山に登ること飛禽の如く、草を行くこと走獸の如し。恩を承くれば則ち忘れ、怨みを見れば必ず報ゆ。是を以て箭を頭髻に藏し、刀を衣の中に佩ぶ。或いは黨類を聚めて邊界を犯し、或いは農桑を伺ひて人民を略む。擊てば則ち草に隱れ、追へば則ち山に入る。故に往古以來、未だ王化に染まらず。今、朕、汝の人と爲りを察するに、身體長大、容姿端正、力は能く鼎を扛げ、猛きこと雷電の如し。向かふ所前無く、攻むる所必ず勝つ。卽ち之を知るに、形は則ち我が子、實は則ち神人なり。是れ寔に天、朕が不叡を愍み、且つ國の平らかならざるを、天業を經綸して宗廟を絕えざらしむるなり。亦た是れ天下は則ち汝の天下なり、是の位は則ち汝の位なり。願はくは深謀遠慮し、姦を探り變を伺ひ、之に示すに威を以てし、之を懷くるに德を以てし、兵甲を煩はさず、自ら臣隷たらしめよ。卽ち巧言して暴神を調へ、武を振ひて姦鬼を攘へ、と。是に日本武尊、乃ち斧鉞を受け、再拜して奏して曰く、嘗て西征の年、皇靈の威に賴り、三尺の劒を提げて、熊襲國を擊つ。未だ旬日を經ずして、賊首罪に伏す。今亦た神祇の靈に賴り、天皇の威を借り、往きて其の境に臨み、示すに德敎を以てす。猶ほ服せざる有らば、卽ち兵を擧げて擊たん、と。仍りて重ねて再拜す。冬十月壬子朔癸丑、日本武尊、路に發つ。爰に日本武尊、則ち上總より轉じて陸奧國に入る。時に大鏡を王船に懸け、海路より葦浦に廻り、玉浦を橫渡して、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首、島津神・國津神等、竹水門に屯して距がんと欲す。然れども遙かに王船を視て、豫め其の威勢に怖ぢ、心裏に勝つべからざるを知る。悉く弓矢を捨て、望み拜して曰く、君の容を仰ぎ視るに、人倫より秀でたり。神か、と。姓名を知らんと欲す。王、之に對へて曰く、吾は是れ現人神の子なり、と。是に蝦夷等悉く慄れ、則ち裳を寒げ波を披き、自ら王船を扶けて岸に著く。仍りて面縛して罪に服す。故に其の罪を免し、因りて其の首帥を俘とし、身に從はしむ。蝦夷旣に平らぐ。 謹んで按ずるに、是れ東夷征伐の始めなり。是れより蝦夷の朝貢怠らず、敎化大いに東方に行はれ、綿綿として以て今日に至る。武內宿禰の機を知れる、日本武尊の雄武、神劒の威を發し、靈鏡の明光、殆ど武德の盛なるかな。故に帝、終に其の功名を錄し、以て武部を定め、諸を後世に示すに至る。凡そ少碓王の兵を用ゐるや、西に東に、向かふ所寇無し。王に勤めて息まず。此の時、邊鄙の反人悉く平らぎ、夷賊從服し、四海大いに寧らかなり。皆是れ王の功なり。惜しいかな、癘の害にして其の命を夭せしこと。〔以上、東夷を征す。〕
現代語訳
景行天皇二十五年秋七月三日、武内宿禰を遣わして、北陸および東方の諸国の地形、ならびに民の様子を視察させた。二十七年春二月十二日、武内宿禰は東国から戻って奏上した。東夷の中に日高見国があります。その国の人は男女ともに髪を結い、入れ墨をしており、人柄は勇ましく荒々しい。これらを総じて蝦夷といいます。土地も肥えて広い。攻めれば取れます、と。四十年夏六月、東夷が多く背き、辺境が騒がしくなった。秋七月十六日、天皇は斧鉞を持って日本武尊に授けて言った。朕は聞いている。その東夷は、性質が荒々しく、侵し犯すことを第一とする。村に長がなく、邑に首がなく、各々が境を貪り、互いに盗み奪い合う。また山には邪神がおり、野には姦鬼がいて、道を遮り小径を塞ぎ、多くの人を苦しめている。その東夷の中でも、蝦夷が特に強い。男女が入り交じって暮らし、父子の区別がない。冬は穴に寝て、夏は樹上の巣に住む。毛皮を着て血を飲み、兄弟も互いに疑う。山に登ることは飛ぶ鳥のようで、草を行くことは走る獣のようである。恩を受けても忘れ、恨みを見れば必ず報いる。そのため矢を髻に隠し、刀を衣の中に帯びている。あるいは仲間を集めて辺境を犯し、あるいは農事・養蚕の時をうかがって民を略奪する。攻めれば草に隠れ、追えば山に入る。だから昔から王化に染まったことがない。今、朕はお前の人柄を見るに、身体は大きく、容姿は端正で、力は鼎を持ち上げ、猛きことは雷電のようである。向かうところ敵はなく、攻めれば必ず勝つ。思うに、形は我が子だが、実は神人である。これはまことに天が朕の不明を憐れみ、国の平らかでないことを、天の業を治めて宗廟を絶やさぬようにさせるものである。また、これは天下はお前の天下であり、この位はお前の位である。願わくは深く謀り遠く慮り、奸を探り変をうかがい、威を示し、徳で懐かせて、兵を煩わさずに自ら臣下となるようにせよ。巧みな言葉で暴れる神を整え、武を振るって姦鬼を払え、と。そこで日本武尊は斧鉞を受け、再拝して奏上した。かつて西征の年、皇霊の威に頼り、三尺の剣を提げて熊襲国を撃ちました。十日もたたないうちに賊の首領は罪に服しました。今もまた神祇の霊に頼り、天皇の威を借りて、その境に臨み、徳の教えを示します。それでもなお服さない者があれば、兵を挙げて撃ちます、と。そして重ねて再拝した。冬十月二日、日本武尊は路に出発した。さて日本武尊は上総から転じて陸奥国に入った。そのとき大鏡を王船に掛け、海路から葦浦を巡り、玉浦を横切って、蝦夷の境に至った。蝦夷の賊の首領の島津神・国津神らは、竹水門に屯して防ごうとした。しかし遠くから王船を見て、あらかじめその威勢を恐れ、心の中で勝てないことを知った。そこで弓矢をすべて捨て、望み拝して言った。君のお姿を仰ぎ見ると、人並み以上に秀でている。神でいらっしゃるか、と。姓名を知りたがった。王は答えて言った。私は現人神の子である、と。そこで蝦夷らはみな恐れおののき、裳をからげて波をかき分け、自ら王船を助けて岸に着けた。そして面縛して罪に服した。そこでその罪を許し、その首領を捕虜として、身に従わせた。蝦夷はすでに平らいだ。 素行はこう考える。これは東夷征伐の始めである。これ以来、蝦夷の朝貢は怠りなく、教化は大いに東方に行われ、連綿として今日に至る。武内宿禰が機を知っていたこと、日本武尊の雄武、神剣の威の発揮、霊鏡の明光は、まさに武徳の盛んなることである。だから帝はついにその功名を記録して、武部を定め、後世に示すに至った。少碓王の兵の用い方は、西に東に、向かうところ敵がなかった。王に勤めて休まなかった。このとき辺境の反逆者はことごとく平らぎ、夷賊は服し従い、四海は大いに安らかであった。みなこれは王の功である。惜しいことに、病でその命を短くしたことよ。(以上、東夷を征す。)
解説

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『弘道館記述義』・日本武尊・威公の勇武と、士を養う恩威並び施す姿夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊び武備を繕ふ。臣彪謹んで案ずるに、景行帝の時、熊襲屢々叛く。帝皇子小碓尊に命じて之を討たしむ。皇子年僅かに十六、其の智勇に憑りて直ちに渠魁を殲す。厥の後又詔を奉じて蝦夷を征す。其の発するや、伊勢神宮を拝し、其の神剣を奉じて出づ。遂に能く妖氛を駆除し辺陲を平定す。蓋し当時蝦夷の種類内地に雑処し、叛服常ならず大いに民害を為す。是に至りて遠近懾服し、東北の地始めて皇化に霑ふ。帝嘗て皇子を目して神人と為す。而して強暴冥頑なること川上梟帥の若き、恐怖畏縮して戮に臨み、日本武尊の号を献ず。千載の下、凜凜として猶ほ生気有り。我が威公夙に東陲の重寄を受く。其の地は皆皇子の餘烈の存する所にして、皇子の祠、適々水戸の南郊に在り。(吉田神社と称す。延喜式の所謂名神大なり。)古木蓊鬱として屹として府城と相峙す。則ち感懐の餘り、慨然として欽慕の情を興すは、信に以有るなり。公嘗て神道を萩原兼従に受け、尤も神祇を重んず。寛永中大猷公疾に罹る。公之を憂へ、健御雷神に祷る。既にして大猷公癒ゆ。公乃ち鹿島の祠を脩めて以て賽す。又嘗て親しく其の祠を拝し、威儀甚だ謹めり。公は勇武天性に根ざし、傍ら伎芸に長ず。嘗て大猷公に従ひて板橋に猟し、野猪数頭を射殪す。大猷公恒に称して曰く、水戸殿は今の能州なりと。能州は蓋し平教経を謂ふなり。其の士を養ふや恩威並び施す。嘗て国に就くに、岩本越中なる者有り、銃を放ちて鷺を城上の樹に獲たり。公召して之を詰る。対へて曰く、臣は善く病む。聞く、鷺を食へば癒ゆべしと。当時唯だ鷺を是れ視る。然れども臣の鷺と孰れか重きと。公笑ひて曰く、汝と法と孰れか重きと。越中屈服す。公竟に舎きて問はず。明暦中江戸に大火あり、延びて我が邸に及ぶ。近臣向坂弥九郎、焰を侵して公の愛する所の書を持して出づ。有司賞せんことを請ふ。公曰く、寡人も亦深く之を嘉す。然れども之を賞すれば則ち他日士を水火に傷つけんことを恐ると。果して賞せず。島原の賊の伏誅するや、鍋島氏律を犯して先登す。法は国除に当たる。幕府其の罪を議す。公曰く、厳法もて後を懲らすは戦国の事なり。今天下の人安んじて復た反乱有るを容れず。而して重罰軽賞せば、諸侯何をか頼まん。偉勲彼の若くして国除かるるは、某命を奉ずるを肯んぜずと。大猷公深く之を納る。議遂に寝む。戦国以来殉死盛んに行はれ、諸侯或いは其の多きを以て誇る。公遺命して之を禁ず。亡幾くもなく幕府大いに其の禁を天下に布く。公実に之が倡を為せり。公嘗て辺寇を慮り、堠を沿海各処に設けて以て緩急を報ず。当時東海の針路未だ通ぜず、外夷の患は常に西陲に在り。後百数十年、北虜蝦夷を擾し、文政年間に至りて、夷船の東海に出没する者、歳として無きはなし。各処の堠台始めて其の用を為す。嗚呼公の慮る所遠きかな。東照宮、台徳公に遺命するに、公を以て腰刀に比す。蓋し其の愛護して身を防ぐべきに取るなり。是に於て台徳公特に親信を加へ、大猷公の時に及びて亦屢々公を延きて謀議に与らしむ。人其の故を知る莫きなり。義公恒に諸侍臣に語りて云ふ。
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『中朝事実』武德章・将帥を撰ぶ・節度を授ける高皇產靈尊、更に諸神を會し、當に葦原中國に遣はすべき者を選ぶ。僉曰く、磐裂根裂神の子、磐筒男・磐筒女の生む所の子、經津主神、是れ將に佳からんとす、と。時に天石窟に住む所の神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神有り。此の神進みて曰く、豈に唯だ經津主神のみ獨り丈夫爲りて、吾は丈夫に非ざる者ならんや、と。其の辭氣慷慨たり。故に卽ち經津主神に配して、葦原中國を平らげしむ、云云。故に大巳貴神、乃ち平國の時に杖つく所の廣矛を以て二神に授けて曰く、吾、此の矛を以て卒に治功有り。天孫若し此の矛を用ゐて國を治めば、必ず當に平安なるべし、と。 謹んで按ずるに、是れ天神の將を撰ぶの義なり。蓋し兵を用ゐるの要は、一に軍將に在り。將は軍の司命、勝敗の源なり。天神三たび群臣を會して、以て此の二將を得、終に其の功を遂ぐ。撰ぶ所任ずる所、共に其の道を得たり。二神平順して、天孫臨降し、以て萬億世の皇系を開く。其の武威、吁、愁かなるかな、懿なるかな。大巳貴の奉る所の廣矛も亦た靈器なり。凡そ兵は律を以て興り、策を以て立ち、器械を以て用を爲す。兵武の字、皆其の器を以てす。況んや中國の初めに瓊矛有り、以て此の洲を成す。天神、以て劒を賚ひ神器に備ふるをや。宜なるかな。二神に血刃せざるの勳有ること。 神武帝東征に、大伴氏の遠祖日臣命、大來目を帥ゐ、將元戎を督し、山を蹈みて行を啓く。 先人曰く、神武天皇東征の日、物部氏の祖道臣命、軍帥と爲る。〔物部氏は恐らく誤りか。大伴氏なり。道臣命は、乃ち日臣命の名なり。〕 謹んで按ずるに、是れ人皇將を撰ぶの始めなり。蓋し將は才以て物を將ゐるに足るの稱、帥は智以て人を帥ゐるの名なり。危急草屯の時、其の用最も將帥に在り。滔滔たる武夫、好謀挫機の精に非ざれば、未だ其の任に中らず。故に將帥の用爲る、必ずしも攻戰を以てせず。折衝屈敵の智を要し、誠信撫敵の實に本づく。其の任重く、其の撰豈に易く得んや。道臣命、殆ど其れ斯くの如きか。上に神武の聖有り、下に賢才の應有り。其の區宇を制し、功業を弘むる所以、利あらざる所無く、成らざる所無きなり。〔以上、將帥を撰ぶ。〕 高皇產靈尊、天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜ひ、以て遣はす。 謹んで按ずるに、是れ天神、將に節刀を授くるの義なり。人皇に及び、景行帝、鉄鉞を以て日本武尊に授く。是れより連綿修飾して、將を立つるの禮有り。凡そ節度は、其の信を示す所以なり。斧鉞は、刑戮を專らにする所以なり。軍旅の制は、私を以てすべからず。人臣又た專制の義無し。故に風聲を四方に樹て、天表を愾む所に著はす。將帥一たび閫外の寄を受くれば、時中の宜しきに適ふ。是に三軍の任此に歸し、其の倚付を二三にすること無し。蓋し將相は天下の師なり。其の才・其の德並び行はれざれば、則ち其の實を得ず。天下安ければ相に注意し、天下危ふければ將に注意す。然れども安きこと常に安からず、一人の齟齬杌隉有れば卽ち轉じて危ふし。人君は無事の日、人才彙集の時に當たりて、其の器を儲け以て急難に備へ、天寵の優を隆くし、懷綏の德を布けば、則ち凡そ事成らざる無し。將に兵を將ゐるもの有り、將を將ゐるもの有り、將相兼任するもの有り。知・信・仁・勇・忠有り。禮將・嚴將有り。然れども其の本は知・仁・勇の三に在り。若し兵を擧げて不逞を討つに、其の撰將を精しくせざれば、則ち自ら傾覆を招き、以て三軍を鏖にす。古來其の任を重んずること、亦た宜ならずや。〔以上、節度を賜ふ。〕
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『退食閑話』・威公が日本武尊を慕う訳問、古來賢哲多き中に、威公は獨り日本武尊を欽慕し給ふ事は、いかなる故にて候へるや、曰、威公の欽慕し給ひし御主意書傳へしものなければ、何の故なる事を存し奉らず、然れども、愚意を以て窃に推考するに、蠻夷、夏を滑すと云は虞帝の患る所なり、古海內の戎狄民の害をなせし熊襲隼人の類もあれども、其勢の强大なること蝦夷にしくものはなし、常奧二野越羽の地に充滿して、良民一日も生を安むぜず、日本武尊は 景行天皇の皇子にして、英武絕倫なり、草薙の寶劍の神威に仗て、常奧の蝦夷を征討ありて 皇威を奮はれしよりして、世々夷狄を攘斥せられて、つゐに蝦夷の禍永く息しなり、威公も 東照宮の御子にして、英武超絕して、常陸の地を領して東地を鎭撫し給ふ、
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『神皇正統記』巻二 第十二代 景行天皇第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」