中朝事実 / 中國章・辺境の守りと四道将軍・蝦夷への備え
崇神帝十年冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。幾內無事。唯海外荒倍。騷動未止。其四道將軍等今忽發之。丙子將軍等共發路。十一年夏四月壬子朔己卯。四道將軍以平戎夷之狀奏焉。是歲異俗多歸。國內安寧。 謹按。二神定可守之境之後。鴻蒙草昧。而封疆未分。神武帝經綸天業。制中州之後。又未弘恢化德。帝識性聰敏。尤有雄謀。故大開四方。以規邊要。下無逸民。敎化流行。終正蒼生之課役。利船舶之運轉。天下大平也。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午。遣武內宿禰。令察北陸及東方諸國之地形且百姓之消息也。二十七年春二月辛酉朔壬子。武內宿禰自東國還之奏言。東夷之中有日高見國。其國人男女並椎結文身。爲人勇悍。是總曰蝦夷。四十年夏六月東夷多叛。邊境騷動。冬十月。命日本武尊征之。蝦夷服罪。五十三年巡狩于東海。 謹按。帝自征西州。巡狩東方。封建七十餘子。各令如其國。是乃定四方之邊境。爲王室之藩屏也。 成務帝四年春二月丙寅。國郡立長。縣邑置首。取當國之幹了者。任其國郡之首長。是爲中區之藩屏也。五年秋九月。隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日橫。山陽曰影面。山陰曰背面。 謹按。天下之邊要。逮帝其制相成。蓋邊要者天下之藩屏也。四邊唯以陸奧・出羽・佐渡・對島・多禰爲邊要國。以太宰府・鎭守府爲藩鎭所。鎭西府者。備異域之襲來。鎭守府者。征蝦夷之跋扈。異域竟不得侵邊境。蝦夷數寇東藩。故有國守。有將軍。有兩國按察使府・秋田城介。以信夫郡以南租稅。充國府之公廨。以苅田以北稻穀。充鎭府之兵粮。常置五千人兵。運送許多兵器。是愼邊要也。凡承平之治。王化之澤。無下浴。而邊境之廣。遠人之信。必異敎殊風。故其弊。或盜賊劫竊。入山據險。或因吏務之奸謀。邊民含恨之事。未嘗無之。故擇吏幹之才。詳巡察之使。以安邊疆。是上古之聖戒也。豈可忽乎。〔以上。守邊要之備。〕 以上論水土之規制。謹按。地在天之中中又不無四邊。而得其中曰中國。言得天地之中也。天地之中何。四時行。寒暑順。水土人物甚美。而無過不及之差是也。萬邦之衆。唯中州及外朝得天地之中。故人物事義大不異。其建極以致聖敎。殆如合節也。〔外朝鮮亦同水土。然朝鮮者與外朝同封域。唯在其東藩也。〕蓋有土地。則有國郡。有國郡則有都鄙之分。而設王畿。建都宮。制道路。四方以通之。四藩以屏之。故其規也。其制也。未嘗不盡其道。凡上法天象。下詳地勢。校人物之計會。察治亂之機。以致其禮用。以盡其至誠。則遠近・都鄙・內外・無不同其俗。通其利也。天下之大。國郡之區。雖不可一擧。自朝廷及邦畿。自王畿及四方。自四方至四疆。猶一元氣之周流營衞四支百骸。而以統諸於一胸臆。然乃朝廷王畿者。天下之規範。而兆民所具瞻也。豈縱一人之私。伐當時之治。而不致其規制乎。
新字:崇神帝十年冬十月乙卯朔。詔群臣曰。今返者悉伏誅。幾内無事。唯海外荒倍。騷動未止。其四道将軍等今忽発之。丙子将軍等共発路。十一年夏四月壬子朔己卯。四道将軍以平戎夷之状奏焉。是歳異俗多帰。国内安寧。 謹按。二神定可守之境之後。鴻蒙草昧。而封疆未分。神武帝経綸天業。制中州之後。又未弘恢化徳。帝識性聰敏。尤有雄謀。故大開四方。以規辺要。下無逸民。教化流行。終正蒼生之課役。利船舶之運転。天下大平也。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午。遣武内宿祢。令察北陸及東方諸国之地形且百姓之消息也。二十七年春二月辛酉朔壬子。武内宿祢自東国還之奏言。東夷之中有日高見国。其国人男女並椎結文身。為人勇悍。是総曰蝦夷。四十年夏六月東夷多叛。辺境騷動。冬十月。命日本武尊征之。蝦夷服罪。五十三年巡狩于東海。 謹按。帝自征西州。巡狩東方。封建七十余子。各令如其国。是乃定四方之辺境。為王室之藩屏也。 成務帝四年春二月丙寅。国郡立長。県邑置首。取当国之幹了者。任其国郡之首長。是為中区之藩屏也。五年秋九月。隔山河而分国県。随阡陌以定邑里。因以東西為日縦。南北為日横。山陽曰影面。山陰曰背面。 謹按。天下之辺要。逮帝其制相成。蓋辺要者天下之藩屏也。四辺唯以陸奥・出羽・佐渡・対島・多祢為辺要国。以太宰府・鎮守府為藩鎮所。鎮西府者。備異域之襲来。鎮守府者。征蝦夷之跋扈。異域竟不得侵辺境。蝦夷数寇東藩。故有国守。有将軍。有両国按察使府・秋田城介。以信夫郡以南租税。充国府之公廨。以苅田以北稲穀。充鎮府之兵粮。常置五千人兵。運送許多兵器。是慎辺要也。凡承平之治。王化之沢。無下浴。而辺境之広。遠人之信。必異教殊風。故其弊。或盗賊劫窃。入山拠険。或因吏務之奸謀。辺民含恨之事。未嘗無之。故択吏幹之才。詳巡察之使。以安辺疆。是上古之聖戒也。豈可忽乎。〔以上。守辺要之備。〕 以上論水土之規制。謹按。地在天之中中又不無四辺。而得其中曰中国。言得天地之中也。天地之中何。四時行。寒暑順。水土人物甚美。而無過不及之差是也。万邦之衆。唯中州及外朝得天地之中。故人物事義大不異。其建極以致聖教。殆如合節也。〔外朝鮮亦同水土。然朝鮮者与外朝同封域。唯在其東藩也。〕蓋有土地。則有国郡。有国郡則有都鄙之分。而設王畿。建都宮。制道路。四方以通之。四藩以屏之。故其規也。其制也。未嘗不尽其道。凡上法天象。下詳地勢。校人物之計会。察治乱之機。以致其礼用。以尽其至誠。則遠近・都鄙・内外・無不同其俗。通其利也。天下之大。国郡之区。雖不可一挙。自朝廷及邦畿。自王畿及四方。自四方至四疆。猶一元気之周流営衛四支百骸。而以統諸於一胸臆。然乃朝廷王畿者。天下之規範。而兆民所具瞻也。豈縦一人之私。伐当時之治。而不致其規制乎。
書き下し
崇神帝十年冬十月乙卯朔、群臣に詔して曰く、今返る者、悉く伏誅す。幾内事無し。唯だ海外荒倍し、騒動未だ止まず。其の四道将軍等、今忽ちに発て、と。丙子、将軍等共に路に発つ。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、戎夷を平らぐるの状を以て奏す。是の歳、異俗多く帰す。国内安寧なり。 謹んで按ずるに、二神、守るべきの境を定めて後、鴻蒙草昧にして封疆未だ分かたず。神武帝、天業を経綸し、中州を制して後も、又た未だ化徳を弘恢せず。帝は識性聡敏にして、尤も雄謀有り。故に大いに四方を開き、以て辺要を規る。下に逸民無く、教化流行す。終に蒼生の課役を正し、船舶の運転を利して、天下大平なり。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武内宿禰を遣わし、北陸及び東方の諸国の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛酉朔壬子、武内宿禰、東国より還りて奏して言う、東夷の中に日高見国有り。其の国人は男女並びに椎結文身し、人と為り勇悍なり。是れを総じて蝦夷と曰う、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、辺境騒動す。冬十月、日本武尊に命じて之を征せしむ。蝦夷罪に服す。五十三年、東海に巡狩す。 謹んで按ずるに、帝、自ら西州を征し、東方を巡狩し、七十余子を封建し、各おの其の国の如くせしむ。是れ乃ち四方の辺境を定め、王室の藩屏と為すなり。 成務帝四年春二月丙寅、国郡に長を立て、県邑に首を置く。当国の幹了なる者を取りて、其の国郡の首長に任ず。是れ中区の藩屏と為すなり。五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。 謹んで按ずるに、天下の辺要は、帝に逮びて其の制相成る。蓋し辺要とは天下の藩屏なり。四辺は唯だ陸奥・出羽・佐渡・対島・多禰を以て辺要国と為し、太宰府・鎮守府を以て藩鎮の所と為す。鎮西府とは、異域の襲来に備うるなり。鎮守府とは、蝦夷の跋扈を征するなり。異域は竟に辺境を侵すを得ず。蝦夷は数しば東藩を寇す。故に国守有り、将軍有り、両国按察使府・秋田城介有り。信夫郡以南の租税を以て国府の公廨に充て、苅田以北の稲穀を以て鎮府の兵粮に充つ。常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ辺要を慎むなり。凡そ承平の治、王化の沢、下に浴さざる無し。而して辺境の広く、遠人の信は、必ず教えを異にし風を殊にす。故に其の弊、或いは盗賊劫窃し、山に入りて険に拠り、或いは吏務の奸謀に因りて、辺民恨みを含むの事、未だ嘗て無くんばあらず。故に吏幹の才を択び、巡察の使を詳らかにして、以て辺疆を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈に忽せにすべけんや。〔以上、辺要を守るの備え。〕 以上、水土の規制を論ず。謹んで按ずるに、地は天の中に在り、中に又た四辺無くんばあらず。而して其の中を得るを中国と曰う。天地の中を得るを言うなり。天地の中とは何ぞ。四時行われ、寒暑順い、水土人物甚だ美にして、過不及の差無き、是れなり。万邦の衆、唯だ中州及び外朝のみ天地の中を得たり。故に人物事義、大いに異ならず。其の極を建て、以て聖教を致すこと、殆ど節を合わすが如し。〔外朝鮮も亦た水土を同じくす。然れども朝鮮とは外朝と封域を同じくす。唯だ其の東藩に在るのみ。〕蓋し土地有れば、則ち国郡有り。国郡有れば則ち都鄙の分有り。而して王畿を設け、都宮を建て、道路を制し、四方以て之に通じ、四藩以て之を屏る。故に其の規や、其の制や、未だ嘗て其の道を尽くさずんばあらず。凡そ上は天象に法り、下は地勢を詳らかにし、人物の計会を校べ、治乱の機を察して、以て其の礼用を致し、以て其の至誠を尽くせば、則ち遠近・都鄙・内外、同じく其の俗を同じくし、其の利を通ずるなり。天下の大、国郡の区、一々挙ぐべからずと雖も、朝廷より邦畿に及び、王畿より四方に及び、四方より四疆に至ること、猶お一元気の周流し、四支百骸を営衛して、以て諸を一胸臆に統ぶるがごとし。然れば乃ち朝廷・王畿は、天下の規範にして、兆民の具に瞻る所なり。豈に一人の私を縦にし、当時の治を伐ちて、其の規制を致さざるべけんや。
現代語訳
崇神帝十年冬十月乙卯朔、群臣に詔して言った。今や従わなかった者はことごとく誅に伏した。畿内は無事である。ただ海外は荒れて、騒動がまだ止まない。四道将軍らは今すぐ出発せよ、と。丙子の日、将軍らはそろって出発した。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍が異民族を平らげた状況を報告した。この年、異俗の者が多く帰順し、国内は安らかだった。 素行はこう考える。二神が守るべき境を定めた後も、混沌として国境はまだ分かれていなかった。神武帝が天業を治め、中州を制した後も、なお教化と徳が広がっていなかった。崇神帝は聡明で、とりわけ雄大な謀があった。だから大いに四方を開いて辺境の要所を定めた。下には見捨てられた民がなく、教化は行き渡った。ついに人々の課役を正し、船舶の運送を便利にして、天下は太平となった。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武内宿禰を派遣して、北陸および東方の諸国の地形と人々の様子を調べさせた。二十七年春二月辛酉朔壬子、武内宿禰は東国から帰り、報告して言った。東夷の中に日高見国がある。その国の人は男女とも髪を椎の形に結い、入れ墨をしており、勇ましく強い。これらを総称して蝦夷という、と。四十年夏六月、東夷の多くが背き、辺境が騒がしくなった。冬十月、日本武尊に命じてこれを征討させた。蝦夷は罪に服した。五十三年、東海を巡幸した。 素行はこう考える。帝は自ら西州を征し、東方を巡幸し、七十余人の子を封じ、それぞれその国を治めさせた。これは四方の辺境を定め、王室の藩屏としたのである。 成務帝四年春二月丙寅、国・郡に長を立て、県・邑に首を置いた。その土地の有能な者を選んで、その国・郡の首長に任じた。これは中区の藩屏とするためである。五年秋九月、山河を隔てて国県を分け、あぜ道に従って村里を定めた。そして東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南側を影面、山の北側を背面といった。 素行はこう考える。天下の辺境の要所は、帝の時代になって制度が整った。辺要とは天下の藩屏である。四辺では陸奥・出羽・佐渡・対馬・多禰を辺要の国とし、太宰府・鎮守府を藩鎮の所とした。鎮西府は異国の襲来に備え、鎮守府は蝦夷の横行を征する。異国はついに辺境を侵せなかった。蝦夷はしばしば東の藩を襲った。そのため国守がおり、将軍がおり、陸奥・出羽の按察使府と秋田城介がいた。信夫郡以南の租税を国府の公費にあて、苅田以北の稲穀を鎮守府の兵糧にあてた。常に五千人の兵を置き、多くの兵器を運び送った。これが辺境の要所を慎むということである。およそ平和な世の治めと、王化の恵みは、下の者にまで及ばないところはない。しかし辺境は広く、遠方の人は教えを異にし風俗も異なる。だからその弊害として、盗賊が略奪して山に入り険阻に拠ったり、役人の悪だくみで辺境の民が恨みを抱くことが、なかったわけではない。だから有能な官吏を選び、巡察使をきちんと派遣して、辺境を安んじた。これは上古の聖人の戒めである。軽んじてよいはずがない。(以上、辺境の要所を守る備え。) 以上、風土の制度を論じた。素行はこう考える。地は天の中にあり、その中にまた四辺がないわけではない。その中を得たものを中国という。天地の中を得たという意味である。天地の中とは何か。四季が巡り、寒暑が順当で、風土や人物が非常に優れ、過不足の差がないことである。万国の中で、ただ中州と外朝だけが天地の中を得た。だから人物や事柄、義はそれほど異ならない。その基準を建て、聖教を致すことは、ほとんど符節が合うようである。(外朝鮮もまた風土を同じくする。しかし朝鮮は外朝と国境を同じくする。ただその東の藩にあるだけである。)思うに、土地があれば国・郡があり、国・郡があれば都と田舎の区別がある。そこで王畿を設け、都宮を建て、道路を整え、四方に通じさせ、四方の藩で守る。だからその規則やその制度は、その道を尽くさないことはなかった。上は天象に則り、下は地勢を詳しくし、人と物の計算を比べ、治乱の機を察して、礼の用を尽くし、至誠を尽くすならば、遠近・都鄙・内外が同じく風俗を同じくし、利を通じ合うのである。天下は大きく、国郡の区分は一つ一つ挙げられないが、朝廷から畿内に及び、王畿から四方に及び、四方から四疆に至ることは、一つの元気が全身を巡って手足や全身を養い、すべてを一つの胸にまとめるようなものである。であれば朝廷・王畿は天下の規範であり、万民が仰ぎ見る所である。どうして一人の私を縦にし、当時の治めを損ねて、その規制を尽くさないでよいだろうか。
解説

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『中朝事実』武德章・景行帝の東夷征伐と日本武尊景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武內宿禰を遣はして、北陸及び東方諸國の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、東國より還りて奏言す、東夷の中に日高見國有り。其の國人は男女並びに推結文身し、人と爲り勇悍なり。是れ惣べて蝦夷と曰ふ。亦た土地沃壤にして曠し。擊ちて取るべし、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、邊境騷動す。秋七月癸未朔戊戌、天皇、斧鉞を持ちて以て日本武尊に授けて曰く、朕聞く、其の東夷や、識性暴强、凌犯を宗と爲す。村に長無く、邑に首無く、各々封堺を貪り、並びに相盜略す。亦た山に邪神有り、郊に姦鬼有り、衢を遮り徑を塞ぎ、多く人をして苦しましむ。其の東夷の中に、蝦夷は是れ尤も强し。男女交居し、父子別無し。冬は則ち穴に宿り、夏は則ち樔に住む。毛を衣て血を飮み、昆弟相疑ふ。山に登ること飛禽の如く、草を行くこと走獸の如し。恩を承くれば則ち忘れ、怨みを見れば必ず報ゆ。是を以て箭を頭髻に藏し、刀を衣の中に佩ぶ。或いは黨類を聚めて邊界を犯し、或いは農桑を伺ひて人民を略む。擊てば則ち草に隱れ、追へば則ち山に入る。故に往古以來、未だ王化に染まらず。今、朕、汝の人と爲りを察するに、身體長大、容姿端正、力は能く鼎を扛げ、猛きこと雷電の如し。向かふ所前無く、攻むる所必ず勝つ。卽ち之を知るに、形は則ち我が子、實は則ち神人なり。是れ寔に天、朕が不叡を愍み、且つ國の平らかならざるを、天業を經綸して宗廟を絕えざらしむるなり。亦た是れ天下は則ち汝の天下なり、是の位は則ち汝の位なり。願はくは深謀遠慮し、姦を探り變を伺ひ、之に示すに威を以てし、之を懷くるに德を以てし、兵甲を煩はさず、自ら臣隷たらしめよ。卽ち巧言して暴神を調へ、武を振ひて姦鬼を攘へ、と。是に日本武尊、乃ち斧鉞を受け、再拜して奏して曰く、嘗て西征の年、皇靈の威に賴り、三尺の劒を提げて、熊襲國を擊つ。未だ旬日を經ずして、賊首罪に伏す。今亦た神祇の靈に賴り、天皇の威を借り、往きて其の境に臨み、示すに德敎を以てす。猶ほ服せざる有らば、卽ち兵を擧げて擊たん、と。仍りて重ねて再拜す。冬十月壬子朔癸丑、日本武尊、路に發つ。爰に日本武尊、則ち上總より轉じて陸奧國に入る。時に大鏡を王船に懸け、海路より葦浦に廻り、玉浦を橫渡して、蝦夷の境に至る。蝦夷の賊首、島津神・國津神等、竹水門に屯して距がんと欲す。然れども遙かに王船を視て、豫め其の威勢に怖ぢ、心裏に勝つべからざるを知る。悉く弓矢を捨て、望み拜して曰く、君の容を仰ぎ視るに、人倫より秀でたり。神か、と。姓名を知らんと欲す。王、之に對へて曰く、吾は是れ現人神の子なり、と。是に蝦夷等悉く慄れ、則ち裳を寒げ波を披き、自ら王船を扶けて岸に著く。仍りて面縛して罪に服す。故に其の罪を免し、因りて其の首帥を俘とし、身に從はしむ。蝦夷旣に平らぐ。 謹んで按ずるに、是れ東夷征伐の始めなり。是れより蝦夷の朝貢怠らず、敎化大いに東方に行はれ、綿綿として以て今日に至る。武內宿禰の機を知れる、日本武尊の雄武、神劒の威を發し、靈鏡の明光、殆ど武德の盛なるかな。故に帝、終に其の功名を錄し、以て武部を定め、諸を後世に示すに至る。凡そ少碓王の兵を用ゐるや、西に東に、向かふ所寇無し。王に勤めて息まず。此の時、邊鄙の反人悉く平らぎ、夷賊從服し、四海大いに寧らかなり。皆是れ王の功なり。惜しいかな、癘の害にして其の命を夭せしこと。〔以上、東夷を征す。〕
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『中朝事実』神知章・四道将軍と大臣・守令の選任崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
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『中朝事実』中國章・秋津洲の国土と外朝との比較論神武帝三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘に登りて、国の状を廻望して曰く、妍しきかな、国を獲つること。〔妍しきかな、此れを婀奈珥夜と云う。〕内木綿の真迮き国と雖も、猶お蜻蛉の臀呫の如し、と。是れに由りて始めて秋津洲の号有り。昔、伊弉諾尊、此の国を目して曰く、日本は浦安の国、細戈の千足る国、磯輪上の秀真国、と。〔秀真国、此れを袍図莽勾爾と云う。〕復た大巳貴大神目して曰く、玉牆の内つ国、と。饒速日命、天磐船に乗りて、太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうに及びて、故に因りて目して曰く、虚空見つ日本の国、と。 謹んで按ずるに、本朝の地、形は長く広く〔東西を広と曰う〕短く袤〔南北を袤と曰う〕、西上東下、皆な豊大なり。艮の位を背にして離の明に向かう。蜻蛉の臀呫に象る。洋海四方を廻り、唯だ西方少しく外域の舶を寄すべきも、襲来の畏れ無し。故に浦安国・玉牆内国と称す。是れ内木綿の真迮き国なり。其の形戈の如くにして、品物備わらざる無し。尤も秀精の地なり。故に細戈の千足る国・磯輪上の秀真国と曰う。帝曰く、妍しきかな、国を獲つること、と。噫、大なるかな。蓋し国の地に在る、枚挙すべからず。而して其の文物は古今称する所、外朝を以て宗と為し、日本・朝鮮之に次ぐ。愚竊かに考うるに、惟れ四海の間、唯だ本朝と外朝とのみ、共に天地の精秀を得て、神聖其の機を一にす。而して外朝も亦た未だ本朝の秀真なるに如かず。凡そ外朝は其の封疆太だ広く、四夷に連続し、封域の要無し。故に藩屏屯戍甚だ多く、其の約を守るを得ず。失の一なり。近く四夷に迫る。故に長城要塞の固め、世世人民を労す。失の二なり。守戍の徒、或いは狄に通じて難を構え、或いは狄に奔りて其の情を泄らす。失の三なり。匈奴・契丹・北虜、其の釁を窺い易く、数しば以て劫奪す。其の失の四なり。終に其の国を削り、其の姓を易え、而して天下左衽す。大いなる失の五なり。況んや河海遠くして、魚蝦の美・運転の利給せず。故に人物も亦た其の俗を異にす。牛羊を啖らい、毳裘を衣、榻床に坐するが如き、以て之を見るべし。況んや朝鮮は蕞爾たるをや。独り本朝のみ、天の正道に中し、地の中国を得、南面の位を正し、北陰の険を背にし、西を上とし東を下とし、前は数洲を擁して河海を利し、後ろは絶峭に拠りて大洋を望む。州ごとに悉く運漕の用有り。故に四海の広きも猶お一家の約の如く、万国の化育は天地の正位に同じ。竟に長城の労無く、戎狄の膺つこと無し。況んや鳥獣の美、林木の材、布縷の巧、金木の工、備わらざる無し。聖神の称美の嘆、豈に虚ならんや。昔、胡元の世祖、外朝を奪い、其の勢いに乗じて本朝を撃つ。大兵悉く敗れ、彼の地に帰る者僅かに三人。其の後、元主しばしば窺えども我が藩籬を侵すを得ず。況んや高麗・新羅・百済は皆な本朝の藩臣なるをや。聖神の太虚を翔行り、是の郷を睨て降りたまうこと、最も宜なるかな。〔後漢書に曰く、太倭王は耶麻台に居る、と。唐東夷伝に曰く、日本は古の倭奴なり、と。〕〔是れ皆な商賈販人の言に因りて、其の事を記す。故に以て証とするに足らず。〕〔以上、本朝の水土を論ず。〕
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『中朝事実』禮儀章・対等の隣交と属国の別一書に曰く、群臣議して曰く、妹子懈怠して、蕃國の表を失ふ。罪、流刑に合ふ。具さに狀して聞奏す。天王、聖惠太子に問ふ。太子奏して曰く、妹子の罪は寔に寬すべからず。然れども好を修め隣を善くするは、妹子の功なり。加ふるに隋國の使共に來たる。思ふに復た如何、と。天皇大いに悅びて罪を免す。又曰く、隋帝の書に曰く、皇帝、倭王に問ふ、云云。天皇、太子に問ひて曰く、此の書如何、と。太子奏して曰く、天子の諸侯王に賜ふ書式なり。然れども皇帝の字は天下に一のみ。而るに皇の字を用ふるは、彼に其の禮有るなり、と。天皇、太子以下を召して答書の辭を議す。太子、筆を握りて之を書して曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふ、云云。帝、謹んで白す、不具、と。〔通鑑綱目集覽に曰く、隋の煬帝大業四季戊辰三月、倭國入貢す。倭王書を遣はして曰く、日出づる處の天子、書を日沒する處の天子に致す、恙無きや、と。〕 謹んで按ずるに、是れ隣好を修むるの始めなり。隣とは何ぞ。以て相對すべきなり。好を修むとは何ぞ。氣候・水土・人物・事義、以て之を好みすべく、以て之を通ずべきなり。氣を同じくすれば相求め、類を同じくすれば相應ず。金は終に山に止まり、玉は終に水に入る。各々其の類に從ふは、天の道なり。天地の博く、宇宙の渺たる、泛泛乎として此の州島あり。唯だ外國の事義を中華に一にす。故に好を修め隣を善くすること、猶ほ石水の相投じ、膠漆の相入るがごとし。千載の神聖、一日にして之に遇ふ。萬里の遠波、一葦にして之を航る。是れより隣交の道大いに啓け、互ひに聘禮す。外朝の經典、廣く世に行はれ、人人、聖賢の事迹を知り、文字言語の用乏しからず。大いに中國の治平を補ふ。是れ風は虎に從ひ、雲は龍に從ひ、雲行き雨施して、品物大いに成る所以なり。善隣の時、其の資、懿からずや。蓋し國の大小を以てすれば則ち彼は大なり。人治の遠近を以てすれば則ち彼は遼かなり。土地廣し、故に人物衆庶なり。治平遼かなり、故に事義疆り無し。當時初めて書を制するに、東の天皇、敬みて西の皇帝に問ふを以てす。唯だ太子の大手筆に非ざれば、其の志氣洪量、能く本朝を中華と爲す所以を知らんや。夫れ外朝は其の地博くして約ならず。治敎盛んなれば則ち畫する所惟れ泛く、守文明らかならざれば則ち戎狄之に據る。吳・越・荊・楚の僭して諸侯に列し、平王の東のかた洛に遷り、或いは十六州を割きて以て契丹に賂ひ、或いは臨安に退きて臣を醜虜に稱す。皆是れ戎狄に逼らるる所なり。是れ一大土中に地を畫り城を築き、以て封域を立て、境を四夷に接するなり。故に天下の勢ひ、或いは南北に袤くして東西蹙まり、或いは東西長くして南北縮む。或いは九州・十二州有り、或いは十道・二十三路を以てして、經畫一ならず。王統數々姓を易ふ。是れ博くして約ならざるの失なり。人主治世の來ること久しければ、治亂盈虛、大いに變じ、人心悉く澆訛す。春秋の時、古を去ること未だ遠からずして、亂臣賊子、君父を弑すること、猶ほ草を薙ぐがごとし。大臣・世臣、妖事を行ふこと禽獸の如し。是れ治道の變化し、微言の日に隱るるの失に非ずや。唯だ中國は之に反す。卓として巨海に立ち、封域自ら天險有り。神聖、天を繼ぎ極を立てしより爾來、四夷竟に藩籬をも窺ふを得ず。皇統連綿として天壤と窮まり無し。況んや神代の治悠久にして、人皇の祥、永算なるをや。今日の澆季も、亦た尙ほ周の末よりも優れり。〔凡そ帝堯より今に至るまで四千有餘年、神武帝より今に至るまで二千三百餘年、堯より周の末に至るまで殆ど二千餘年。〕言ふと雖も、若し果たして澆訛ならば當に鬼魅と爲るべし。上古は人少なくして氣淳し。治久しくして人多ければ、則ち氣漓して人澆なるは、天地の數なり。後世は誠に古に及ばざること遠し。然れども乃ち人物も亦た厚からざらんや。且つ往古の神化、人皇の聖治、神勅の明敎、歷世の法令、知仁の行ひ、威武の嚴、何事か外朝に乏しからん。故に彼と相對して自ら皇帝と稱し、好を修め隣を善くするを、更に恥ぢざる所以なり。或ひと疑ふ、高麗・百濟・新羅の來朝も、亦た好を修め隣を善くするに非ざるか、と。愚謂へらく、新羅の王子來朝し、任那來貢すること、旣に崇神・垂仁帝の朝に在り。其の後、住吉の大神、高麗・百濟・新羅・任那等を譽田天王、及び若櫻宮に賜ふ。壹たび戎衣して各々面縛し、櫬を輿にし圖籍を封じて降る。阿利那禮河を指して以て誓ひ、神祇に請ひて以て盟ふ。伏して飼部と爲り、船の拖を乾さず、每歲朝貢を絕えず。初め國每に官家を置き、海表の蕃屏と爲す。是より歷代子弟を以て質と爲し、常に朝貢す。否れば乃ち征伐して以て不逞を懲らす。然れば是れ海外の諸蕃は、皆中國の屬と爲る。唯だ外朝のみ以て通信すべきのみ。諸蕃は隣と稱するに足らず。中華は終に聘禮を彼の地に行はず、往くこと厚く來ること薄くして、以て遠人を柔らげ外國を懷くるのみ。或ひと疑ふ、外朝も亦た來聘するか、と。愚按ずるに、推古朝に隋の煬帝、文林郞裴世清を遣はして來聘せしむ。天智朝に唐の客郭務悰等來聘す。其の書に曰く、大唐帝、敬みて日本國天皇に問ふ、と。天武朝に郭務悰又來聘す。
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『中朝事実』神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕