中朝事実 / 武德章・功を定めてから賞を行う
神武帝卽位二年春甲辰朔乙巳。天皇定功行賞。賜道臣命宅地。居于築坂邑。以寵異之。亦使大來目居畝傍山以西川邊之地。今號來目邑。此其緣也。以珍彥爲倭國造。〔珍彥此云于砮毗故〕又給弟猾猛田邑。因爲猛田縣主。是蒐田主水部遠祖也。弟磯城名黑速。爲磯城縣主。復以劒根者爲葛城國造。又頭八咫烏亦入賞例。其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。 謹按。定功行賞者。軍國之盛事也。賞不當其功。則禮不明。無功而有賞。則小人進而侫奸行。故行賞必在定其功也。今大君有命。開國建業。其時最可畏。於是賞不踰其禮。而功臣保全。國家安靖矣。蓋賞罰者。人君之大柄也。更不可忽之。金帛器物祿位土地之與奪。不精其撰。則不得其實。定功行賞之一句。萬世行賞之模格也。〔以上行賞之格〕
新字:神武帝即位二年春甲辰朔乙巳。天皇定功行賞。賜道臣命宅地。居于築坂邑。以寵異之。亦使大来目居畝傍山以西川辺之地。今号来目邑。此其縁也。以珍彦為倭国造。〔珍彦此云于砮毗故〕又給弟猾猛田邑。因為猛田県主。是蒐田主水部遠祖也。弟磯城名黒速。為磯城県主。復以劒根者為葛城国造。又頭八咫烏亦入賞例。其苗裔即葛野主殿県主部是也。 謹按。定功行賞者。軍国之盛事也。賞不当其功。則礼不明。無功而有賞。則小人進而侫奸行。故行賞必在定其功也。今大君有命。開国建業。其時最可畏。於是賞不踰其礼。而功臣保全。国家安靖矣。蓋賞罰者。人君之大柄也。更不可忽之。金帛器物禄位土地之与奪。不精其撰。則不得其実。定功行賞之一句。万世行賞之模格也。〔以上行賞之格〕
書き下し
神武帝卽位二年春甲辰朔乙巳、天皇、功を定め賞を行ふ。道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦た大來目をして畝傍山の以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號するは、此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す。〔珍彥、此には于砮毗故と云ふ。〕又た弟猾に猛田邑を給ひ、因りて猛田縣主と爲す。是れ蒐田主水部の遠祖なり。弟磯城名は黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根者を以て葛城國造と爲す。又た頭八咫烏も亦た賞例に入る。其の苗裔は卽ち葛野主殿縣主部是れなり。 謹んで按ずるに、功を定め賞を行ふは、軍國の盛事なり。賞、其の功に當たらざれば、則ち禮明らかならず。功無くして賞有れば、則ち小人進みて侫奸行はる。故に賞を行ふには必ず其の功を定むるに在り。今、大君命有りて、開國建業す。其の時最も畏るべし。是に賞、其の禮を踰えず、而して功臣保全し、國家安靖なり。蓋し賞罰は、人君の大柄なり。更に忽にすべからず。金帛・器物・祿位・土地の與奪、其の撰を精しくせざれば、則ち其の實を得ず。定功行賞の一句は、萬世行賞の模格なり。〔以上、行賞の格。〕
現代語訳
神武天皇即位二年春二月二日、天皇は功を定めて賞を行った。道臣命に宅地を賜い、築坂邑に居らせ、特別に寵愛した。また大来目を畝傍山の西の川辺の地に居らせた。今、来目邑というのはこの縁による。珍彦を倭国造とした。(珍彦は「うずひこ」という。)また弟猾に猛田邑を給い、猛田県主とした。これは菟田の主水部の遠祖である。弟磯城、名は黒速を磯城県主とした。また剣根を葛城国造とした。さらに頭八咫烏も賞の例に入った。その子孫は葛野の主殿県主部である。 素行はこう考える。功を定めて賞を行うことは、軍国の盛んな事である。賞がその功に当たらなければ、礼が明らかでない。功がないのに賞があれば、小人が進み、おもねる奸人が行われる。だから賞を行うには必ずその功を定めることにある。いま大君が命を発して国を開き業を建てる。その時は最も畏れるべきである。そこで賞は礼を超えず、功臣は保たれ、国家は安らかに静まった。思うに賞罰は君主の大きな柄である。ゆるがせにしてはならない。金帛・器物・禄位・土地の与奪は、選びを精密にしなければその実を得られない。「功を定め賞を行う」という一句は、万世の行賞の模範である。(以上、行賞の格。)
解説

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