退食閑話 / 威公が日本武尊を慕う訳
問、古來賢哲多き中に、威公は獨り日本武尊を欽慕し給ふ事は、いかなる故にて候へるや、曰、威公の欽慕し給ひし御主意書傳へしものなければ、何の故なる事を存し奉らず、然れども、愚意を以て窃に推考するに、蠻夷滑夏と云は虞帝の患る所なり、古海內の戎狄民の害をなせし熊襲隼人の類もあれども、其勢の强大なること蝦夷にしくものはなし、常奧二野越羽の地に充滿して、良民一日も生を安むぜず、日本武尊は 景行天皇の皇子にして、英武絕倫なり、草薙の寶劍の神威に仗て、常奧の蝦夷を征討ありて 皇威を奮はれしよりして、世々夷狄を攘斥せられて、つゐに蝦夷の禍永く息しなり、威公も 東照宮の御子にして、英武超絕して、常陸の地を領して東地を鎭撫し給ふ、
新字:問、古来賢哲多き中に、威公は独り日本武尊を欽慕し給ふ事は、いかなる故にて候へるや、曰、威公の欽慕し給ひし御主意書伝へしものなければ、何の故なる事を存し奉らず、然れども、愚意を以て窃に推考するに、蠻夷滑夏と云は虞帝の患る所なり、古海内の戎狄民の害をなせし熊襲隼人の類もあれども、其勢の強大なること蝦夷にしくものはなし、常奥二野越羽の地に充満して、良民一日も生を安むぜず、日本武尊は 景行天皇の皇子にして、英武絶倫なり、草薙の宝剣の神威に仗て、常奥の蝦夷を征討ありて 皇威を奮はれしよりして、世々夷狄を攘斥せられて、つゐに蝦夷の禍永く息しなり、威公も 東照宮の御子にして、英武超絶して、常陸の地を領して東地を鎮撫し給ふ、
書き下し
問、古來賢哲多き中に、威公は獨り日本武尊を欽慕し給ふ事は、いかなる故にて候へるや、曰、威公の欽慕し給ひし御主意書傳へしものなければ、何の故なる事を存し奉らず、然れども、愚意を以て窃に推考するに、蠻夷、夏を滑すと云は虞帝の患る所なり、古海內の戎狄民の害をなせし熊襲隼人の類もあれども、其勢の强大なること蝦夷にしくものはなし、常奧二野越羽の地に充滿して、良民一日も生を安むぜず、日本武尊は 景行天皇の皇子にして、英武絕倫なり、草薙の寶劍の神威に仗て、常奧の蝦夷を征討ありて 皇威を奮はれしよりして、世々夷狄を攘斥せられて、つゐに蝦夷の禍永く息しなり、威公も 東照宮の御子にして、英武超絕して、常陸の地を領して東地を鎭撫し給ふ、
現代語訳
問い。古来賢哲が多い中で、威公がひとり日本武尊を欽慕されたのは、どのような理由でしょうか。答え。威公が欽慕された御主意を書き伝えたものがないので、どのような理由かは存じません。しかし愚見でひそかに推し量るに、「蛮夷、夏を滑す」とは虞帝(舜)が憂えたところです。古代、国内の戎狄で民の害をなしたものに熊襲・隼人の類もありますが、その勢いの強大さは蝦夷に及ぶものはありません。常陸・陸奥・下野・上野・越・出羽の地に満ち、良民は一日も安んじて生きられませんでした。日本武尊は景行天皇の皇子で、英武は比類がありません。草薙の宝剣の神威に頼って、常陸・陸奥の蝦夷を征討し、皇威を奮われてから、代々夷狄を攘斥され、ついに蝦夷の禍は永く止みました。威公も東照宮の御子で、英武は抜きんでておられ、常陸の地を領して東地を鎮撫されました。
解説
この章句が説くこと
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『弘道館記述義』・日本武尊・威公の勇武と、士を養う恩威並び施す姿夙に日本武尊の人と為りを慕ひ、神道を尊び武備を繕ふ。臣彪謹んで案ずるに、景行帝の時、熊襲屢々叛く。帝皇子小碓尊に命じて之を討たしむ。皇子年僅かに十六、其の智勇に憑りて直ちに渠魁を殲す。厥の後又詔を奉じて蝦夷を征す。其の発するや、伊勢神宮を拝し、其の神剣を奉じて出づ。遂に能く妖氛を駆除し辺陲を平定す。蓋し当時蝦夷の種類内地に雑処し、叛服常ならず大いに民害を為す。是に至りて遠近懾服し、東北の地始めて皇化に霑ふ。帝嘗て皇子を目して神人と為す。而して強暴冥頑なること川上梟帥の若き、恐怖畏縮して戮に臨み、日本武尊の号を献ず。千載の下、凜凜として猶ほ生気有り。我が威公夙に東陲の重寄を受く。其の地は皆皇子の餘烈の存する所にして、皇子の祠、適々水戸の南郊に在り。(吉田神社と称す。延喜式の所謂名神大なり。)古木蓊鬱として屹として府城と相峙す。則ち感懐の餘り、慨然として欽慕の情を興すは、信に以有るなり。公嘗て神道を萩原兼従に受け、尤も神祇を重んず。寛永中大猷公疾に罹る。公之を憂へ、健御雷神に祷る。既にして大猷公癒ゆ。公乃ち鹿島の祠を脩めて以て賽す。又嘗て親しく其の祠を拝し、威儀甚だ謹めり。公は勇武天性に根ざし、傍ら伎芸に長ず。嘗て大猷公に従ひて板橋に猟し、野猪数頭を射殪す。大猷公恒に称して曰く、水戸殿は今の能州なりと。能州は蓋し平教経を謂ふなり。其の士を養ふや恩威並び施す。嘗て国に就くに、岩本越中なる者有り、銃を放ちて鷺を城上の樹に獲たり。公召して之を詰る。対へて曰く、臣は善く病む。聞く、鷺を食へば癒ゆべしと。当時唯だ鷺を是れ視る。然れども臣の鷺と孰れか重きと。公笑ひて曰く、汝と法と孰れか重きと。越中屈服す。公竟に舎きて問はず。明暦中江戸に大火あり、延びて我が邸に及ぶ。近臣向坂弥九郎、焰を侵して公の愛する所の書を持して出づ。有司賞せんことを請ふ。公曰く、寡人も亦深く之を嘉す。然れども之を賞すれば則ち他日士を水火に傷つけんことを恐ると。果して賞せず。島原の賊の伏誅するや、鍋島氏律を犯して先登す。法は国除に当たる。幕府其の罪を議す。公曰く、厳法もて後を懲らすは戦国の事なり。今天下の人安んじて復た反乱有るを容れず。而して重罰軽賞せば、諸侯何をか頼まん。偉勲彼の若くして国除かるるは、某命を奉ずるを肯んぜずと。大猷公深く之を納る。議遂に寝む。戦国以来殉死盛んに行はれ、諸侯或いは其の多きを以て誇る。公遺命して之を禁ず。亡幾くもなく幕府大いに其の禁を天下に布く。公実に之が倡を為せり。公嘗て辺寇を慮り、堠を沿海各処に設けて以て緩急を報ず。当時東海の針路未だ通ぜず、外夷の患は常に西陲に在り。後百数十年、北虜蝦夷を擾し、文政年間に至りて、夷船の東海に出没する者、歳として無きはなし。各処の堠台始めて其の用を為す。嗚呼公の慮る所遠きかな。東照宮、台徳公に遺命するに、公を以て腰刀に比す。蓋し其の愛護して身を防ぐべきに取るなり。是に於て台徳公特に親信を加へ、大猷公の時に及びて亦屢々公を延きて謀議に与らしむ。人其の故を知る莫きなり。義公恒に諸侍臣に語りて云ふ。
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『退食閑話』・吉田神社と実事の志然れば、日本武尊の功烈あるが如く、永世まで 天朝の藩屏として、夷狄を鎭撫し給んとの雄志を奮ひ給ひしより、發せられしやと、察し奉るなり、況や吉田神祉は、日本武尊を神と祭り、名神の大祉にして、大城に密邇す、遠く日本武尊の德を慕ひ給ひて、遺志を奉承し給んと追ひ思ひ給ひて、宗祉の鎭護とす、生民の大幸なるべし、されば、公の欽慕し給ふは實事において感じ給ふ所あらんか、是によりて神道を尊み、蠻夷の左道を排し、武威の衰へざるやうにし、兵備を繕めて戎狄を攘斥すべきの手當ともなれり、何れも實事に施し給ふの御志より發せらるゝ事どもなれば、學生書生の徒の、其氣象言語等のみを稱するが如きに非ざらんかと存じ奉るなり、
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『退食閑話』・伯夷伝に感じた義公問、義公十八歲にして伯夷傳を讀給ひ感發せられ、是より學を好み脩史の御志も立て、讓國の義をも成し給ひし事は人々の知る所にして、是に依りて更に儒敎を學び、人倫を明にして名分を正し、國家の藩屏とならせられしは、 さもあるべき事にて候へども、威公は日本武尊を慕ひ給はせられ、義公は伯夷傳に感發せられ、孝は志を繼と申候へども、日本武尊と伯夷と氣類も同じからず存候へば、威公の御志とは異なる所あるにて候や、曰、日本武尊と伯夷とは同じからざるやうに候へども、其時にあたりて、其實事につれて感じ給ふは一徹なり、義公は御兄にこえて世子に立給へば、夷齊讓國の義に感ぜられしも、其實事によりて感發し給ひしなり、是によりて學を好み給ひしも、聖賢の道を學び得て實事に施し給はんがためなれば、此道を深く尊信し、明の義士舜水先生に師とし事へて弟子の禮を執り給ふ、脩史の事も、其本は大義を天下に明らかにして、天下後世まで人倫を明らかにせむとの大志より發し給ふ、いづれも儒生などの紙上に空論せる如きの類にはあらず、
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『退食閑話』・鹿島の神の功烈諸侯は封內を祭る、又諸侯は天子を祖とせず抔と申事も備れば、我納言公 皇室に誠敬を盡し、東土を鎭撫して敎化を施し給ふ、其本に報ずるにも禮意を酌斟せられ、封域は常陸にして、鹿島の神宮は常陸の一宮なれば、此神を祭り給ふ、この神の功烈の事は史にも見えし如く、天照太神天下を 皇孫に傳へんとせられし時、國土いまだ平がざりしに、此神大已貴神の許に使してこの地を獻ぜしめしより、國土安寧にして、 皇孫も降臨ましまし、其時に 皇孫は筑紫に降り給ひ、猿田彦神は伊勢に趣けり、鹿島の神の御事は史にも見えざれども、此時東國征討ありしと見えたり、同體の經津主の神は下總に留りたまひ、建御雷神は常陸に留りたまふ、然るに常奧の地に、鹿島香取の神また鹿島御兒の神など、多く祭らるゝを以て見る時は、鹿島香取の神よりして、其子孫に至るまで、累世力を盡して 天朝の爲に東國を綏撫し給ひしなるべし、又 神武天皇中州を平げ定められし時に、建御雷神靈の劒を熊野高倉下に授て、 天皇に獻ぜしめたりしに依て、千軍の氣振起して敵を挫て大功を成し給へり、然れば、
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『神皇正統記』巻二 第十二代 景行天皇第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏ことごとく平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでゝ、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」
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『退食閑話』・尊王攘夷の実際問、 東照宮亂を撥し正しきに反し給ふことは、兒童走卒の知る所なれば、論ずるに及ばず、尊王攘夷とは何れの事をば指し給へることぞや、曰、 東照宮恭儉の德まし〱て、富四海の內を保ち給へども勢を恃給はず、屢京師に朝して君臣の義を正しうし給ふ、兵亂の世にして、 至尊より公卿太夫に至るまで萬事匱乏に困しみ給ひしに、禁城の狹隘なりしをも、增擴ありて脩理し給ひしより、供御の田を增れて供給闕るとなく、秘籍寶器の亡失せるを御座に返し納め、伶官の職を失ひしも先職に復せしめ、 朝廷の法制を撰述せられ、伊勢皇太神宮二十年改定の期、古法をうしなひしも永制を立給ひ、又亂世には 朝廷財用とぼしく、御即位大嘗會等の禮も行はれず、僅に大內氏毛利氏などの其料を調進せし事ありしのみなり、織田氏豐臣公の時にいたりて、其料かくる事なくなりしかども、

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