中朝事実 / 禮儀章・官を立てる礼と文武の二職
神武帝二年春二月甲辰朔乙巳。天皇定功行賞。賜道臣命宅地居于築坂邑。以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地。今號來目邑。此其緣也。以珍彥爲倭國造。〔珍彥。此云于磐毗故。〕又給弟猾猛田邑。因爲猛田縣主。是菟田主水部遠祖也。弟磯城名黑速。爲磯城縣主。復以劒根者爲葛城國造。 一書曰。此時天兒屋根命孫天種子命。專主祭祀事。是乃執朝政之儀也。 謹按。是封功臣立官職之初也。 崇神帝十年秋九月。命四道將軍。 謹按。是立武官之初也。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子。命武內宿禰爲棟梁之臣。 謹按。是以大臣爲棟梁之臣也。成務帝朝初號大臣。仲哀帝朝有大連之號。大臣・大連相並知天下之政。 成務帝五年秋九月。令諸國以國郡立造長。縣邑置稻置。 謹按。是立國郡守司之始也。初有國造縣主之號。未致其職掌。及此撰其器以授其官也。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申。始行冠位十二階。孝德帝大化五年春正月。始置八省百官。 謹按。是立百官之始也。先是雖有群臣百寮諸卿有司之名。未致其職掌。至此置八省百官。始群臣之職分定。天下知其禮。及文武帝。撰律令。大定官位職員。其後損益相續。而萬世襲之。以爲準據也。蓋立官者治平之道。而有其事則不無其職。有其職則不無其官。有其官則不無其位。是有物必有則也。旣立官設位。則其道其禮未嘗不正之也。竊按。官惟百。而所其統在文武之二職。文以守禮。武以糾違。故草業乃以武臣立其功。守成乃以文臣正其禮。文武互根。先後以時。而輔佐於一人。是乃往古神聖。所以道經津主神・建雷神平諸不順者。命二神侍天孫。且先天忍日命也。故神武帝封賞道臣命・饒速日命。令天種子命・天富命以爲左右。歷代因循以重此二職也。夫有土地則立其司。有人民則建其長帥。有物則設其司。有事則令其職。而置師以敎其道。立監省其務。以糾其禮。記其事。垂法於萬世。期治平於天下。是乃立官之禮也。官立位定。則百寮有司及四民之制。其禮自正。因官位從尊卑。以制家宅衣服。設飮食器用。定交際言語之法。正冠婚喪祭之禮。擧三綱而明明德。立官之義。其用大哉。否乃官空設位虛名。非其人而貪其職。無其功而居其高。於玆百官大紊。職掌日違。猶桃梗土偶附金蟬貂。故天下之禮混于上。而四民僭紊于下。豈往古神聖之心乎。〔以上謂立官之禮。〕
新字:神武帝二年春二月甲辰朔乙巳。天皇定功行賞。賜道臣命宅地居于築坂邑。以寵異之。亦使大来目居于畝傍山以西川辺之地。今号来目邑。此其縁也。以珍彦為倭国造。〔珍彦。此云于磐毗故。〕又給弟猾猛田邑。因為猛田県主。是菟田主水部遠祖也。弟磯城名黒速。為磯城県主。復以劒根者為葛城国造。 一書曰。此時天児屋根命孫天種子命。専主祭祀事。是乃執朝政之儀也。 謹按。是封功臣立官職之初也。 崇神帝十年秋九月。命四道将軍。 謹按。是立武官之初也。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子。命武内宿祢為棟梁之臣。 謹按。是以大臣為棟梁之臣也。成務帝朝初号大臣。仲哀帝朝有大連之号。大臣・大連相並知天下之政。 成務帝五年秋九月。令諸国以国郡立造長。県邑置稲置。 謹按。是立国郡守司之始也。初有国造県主之号。未致其職掌。及此撰其器以授其官也。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申。始行冠位十二階。孝徳帝大化五年春正月。始置八省百官。 謹按。是立百官之始也。先是雖有群臣百寮諸卿有司之名。未致其職掌。至此置八省百官。始群臣之職分定。天下知其礼。及文武帝。撰律令。大定官位職員。其後損益相続。而万世襲之。以為準拠也。蓋立官者治平之道。而有其事則不無其職。有其職則不無其官。有其官則不無其位。是有物必有則也。既立官設位。則其道其礼未嘗不正之也。窃按。官惟百。而所其統在文武之二職。文以守礼。武以糾違。故草業乃以武臣立其功。守成乃以文臣正其礼。文武互根。先後以時。而輔佐於一人。是乃往古神聖。所以道経津主神・建雷神平諸不順者。命二神侍天孫。且先天忍日命也。故神武帝封賞道臣命・饒速日命。令天種子命・天富命以為左右。歴代因循以重此二職也。夫有土地則立其司。有人民則建其長帥。有物則設其司。有事則令其職。而置師以教其道。立監省其務。以糾其礼。記其事。垂法於万世。期治平於天下。是乃立官之礼也。官立位定。則百寮有司及四民之制。其礼自正。因官位従尊卑。以制家宅衣服。設飲食器用。定交際言語之法。正冠婚喪祭之礼。挙三綱而明明徳。立官之義。其用大哉。否乃官空設位虚名。非其人而貪其職。無其功而居其高。於玆百官大紊。職掌日違。猶桃梗土偶附金蝉貂。故天下之礼混于上。而四民僭紊于下。豈往古神聖之心乎。〔以上謂立官之礼。〕
書き下し
神武帝二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦大來目をして畝傍山以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號す。此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す〔珍彥、此に于磐毗故と云ふ。〕。又弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主と爲す。是れ菟田主水部の遠祖なり。弟磯城黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根といふ者を以て葛城國造と爲す。 一書に曰く、此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、是れ功臣を封じ官職を立つるの初めなり。 崇神帝十年秋九月、四道將軍に命ず。 謹んで按ずるに、是れ武官を立つるの初めなり。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ大臣を以て棟梁の臣と爲すなり。成務帝の朝に初めて大臣と號す。仲哀帝の朝に大連の號有り。大臣・大連相並びて天下の政を知る。 成務帝五年秋九月、諸國をして國郡を以て造長を立て、縣邑に稻置を置かしむ。 謹んで按ずるに、是れ國郡守司を立つるの始めなり。初め國造・縣主の號有りて、未だ其の職掌を致さず。此に及び其の器を撰びて以て其の官を授く。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申、始めて冠位十二階を行ふ。孝德帝大化五年春正月、始めて八省百官を置く。 謹んで按ずるに、是れ百官を立つるの始めなり。先に是れ群臣・百寮・諸卿・有司の名有りと雖も、未だ其の職掌を致さず。此に至りて八省百官を置き、始めて群臣の職分定まり、天下其の禮を知る。文武帝に及び、律令を撰び、大いに官位職員を定め、其の後損益相續ぎて、萬世之を襲ひ、以て準據と爲す。蓋し官を立つるは治平の道にして、其の事有れば則ち其の職無くんばあらず、其の職有れば則ち其の官無くんばあらず、其の官有れば則ち其の位無くんばあらず。是れ物有れば必ず則有るなり。既に官を立て位を設くれば、則ち其の道其の禮未だ嘗て之を正さずんばあらず。竊かに按ずるに、官は惟れ百なれども、其の統ぶる所は文武の二職に在り。文は以て禮を守り、武は以て違ひを糺す。故に草業には乃ち武臣を以て其の功を立て、守成には乃ち文臣を以て其の禮を正す。文武互ひに根とし、先後は時を以てし、而して一人を輔佐す。是れ乃ち往古の神聖、經津主神・建雷神を以て諸の不順を平らげしめ、二神に命じて天孫に侍らしめ、且つ天忍日命を先にせし所以なり。故に神武帝、道臣命・饒速日命を封賞し、天種子命・天富命をして以て左右と爲さしめ、歷代因循して此の二職を重んず。夫れ土地有れば則ち其の司を立て、人民有れば則ち其の長帥を建て、物有れば則ち其の司を設け、事有れば則ち其の職を令し、而して師を置きて以て其の道を敎へ、監を立てて以て其の務を省み、以て其の禮を糺し、其の事を記し、法を萬世に垂れ、治平を天下に期す。是れ乃ち官を立つるの禮なり。官立ち位定まれば、則ち百寮有司及び四民の制、其の禮自ら正し。官位の尊卑に因り、以て家宅衣服を制し、飮食器用を設け、交際言語の法を定め、冠婚喪祭の禮を正し、三綱を擧げて明德を明らかにす。立官の義、其の用大なるかな。否らざれば乃ち官は空しく設け位は虛名にして、其の人に非ずして其の職を貪り、其の功無くして其の高きに居る。玆に於て百官大いに紊れ、職掌日に違ふこと、猶ほ桃梗土偶の金蟬貂に附くが如し。故に天下の禮上に混じ、四民下に僭紊す。豈に往古神聖の心ならんや。〔以上、立官の禮を謂ふ。〕
現代語訳
神武帝二年の春二月甲辰朔乙巳、天皇は功を定めて賞を行い、道臣命に宅地を賜って築坂邑に住まわせ、特別に寵愛した。また大来目を畝傍山の西の川辺の地に住まわせた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁による。珍彦を倭国造とした〔珍彦は、これを「うずひこ」という。〕。また弟猾に猛田邑を与えた。これによって猛田県主となった。これは菟田主水部の遠祖である。弟磯城黒速を磯城県主とした。また剣根という者を葛城国造とした。 ある書にいう。この時、天児屋根命の孫の天種子命は、もっぱら祭祀を司った。これが朝政を執る形である。 素行はこう考える。これは功臣を封じ、官職を立てた最初である。 崇神帝十年の秋九月、四道将軍に命じた。 素行はこう考える。これは武官を立てた最初である。 景行帝五十一年の秋八月己酉朔壬子、武内宿禰に命じて棟梁の臣とした。 素行はこう考える。これは大臣を棟梁の臣とすることである。成務帝の朝に初めて大臣と称した。仲哀帝の朝に大連の称があった。大臣・大連がともに並んで天下の政を司った。 成務帝五年の秋九月、諸国に国郡ごとに造長を立てさせ、県邑に稲置を置かせた。 素行はこう考える。これは国郡の守司を立てた始めである。最初は国造・県主という称号があったが、まだ職掌を果たす段階ではなかった。ここに至って、その器の人を選んで官を授けた。 推古帝十一年の冬十二月戊辰朔壬申、はじめて冠位十二階を行った。孝徳帝の大化五年の春正月、はじめて八省百官を置いた。 素行はこう考える。これは百官を立てた始めである。それ以前にも群臣・百官・諸卿・有司という名はあったが、まだ職掌が定まっていなかった。ここに至って八省百官を置き、はじめて群臣の職分が定まり、天下がその礼を知った。文武帝に及んで律令を撰び、官位や職員が大いに定まり、その後損益が続いて、万世にわたりこれを受け継いで準拠とした。思うに官を立てるのは治平の道であり、事があれば職がなくてはならず、職があれば官がなくてはならず、官があれば位がなくてはならない。これは「物があれば必ず則(法則)がある」ということである。すでに官を立て位を設ければ、その道とその礼を正さないことはない。ひそかに考えるに、官は百といわれるが、統べるところは文と武の二つの職にある。文は礼を守り、武は違いを糺す。だから草創には武臣が功を立て、守成には文臣が礼を正す。文武は互いに根となり、先後は時によって、一人の君主を輔佐する。これが昔の神聖が経津主神・建雷神に命じてもろもろの従わない者を平らげさせ、二神に命じて天孫に侍らせ、また天忍日命を先に立てた理由である。だから神武帝は道臣命・饒速日命を封じ賞し、天種子命・天富命を左右の臣とし、歴代はそれにならってこの二職を重んじた。土地があればその司を立て、人民があればその長を建て、物があればその司を設け、事があればその職を命じ、師を置いてその道を教え、監を立ててその務めを省み、礼を糺し、事を記し、法を万世に残し、治平を天下に期した。これが官を立てる礼である。官が立ち位が定まれば、百官有司および四民の制は、その礼がおのずと正される。官位の尊卑によって、家宅や衣服を制し、飲食器用を設け、交際言語の法を定め、冠婚喪祭の礼を正し、三綱を挙げて明徳を明らかにする。官を立てる義の働きは大きい。そうでなければ、官はむなしく設けられ位は名ばかりで、その人でない者がその職を貪り、功がない者が高い地位に居る。ここに百官は大いに乱れ、職掌は日に日に違い、桃の木の人形や土の偶人が金蝉貂の冠をつけるようなものになる。そして天下の礼は上で混じり、四民は下で僭乱する。昔の神聖の心がどうしてそうであろうか。〔以上、立官の礼を述べる。〕
解説

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『中朝事実』聖政章・民心と習俗を察する政教の始め神武帝己未の年春三月辛酉朔丁卯、令を下して曰く、「今、運此の屯蒙に屬し、民心朴素なり。巢に棲み穴に住み、習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民を利する有らば、何ぞ聖造を妨げん」と。 謹んで按ずるに、是れ政令の始めなり。民心は天下の人心なり。習俗は人皆習ひて以て俗と爲すなり。言ふこころは、天下屯蒙にして、人心詐僞に與せず、穴居野處して以て習俗と爲す。今帝天を繼ぎ極を建て、以て天下の禮を正さんと欲し、其の舊俗を新たにす。故に此の詔有るなり。人心の朴素は、善政に染まり易きが如く、而して習俗の舊汚は又變じ難し。時義、是れ革むるの時、又大なり。聖英の天縱に非ざれば、之を得べからざるなり。蓋し政の要は民心と習俗とを察するに在り。人心は必ず俗と與に化し、善惡以て成る。人君政を立て敎率を明らかにすれば、則ち民心化して風俗成る。風俗の成るは習熟の久しきに在り。習熟久しければ則ち民其の然るを識らず。故に曰く、政の要は民心と習俗とを察するに在り、と。此の章、政敎の大體を盡くすと謂ふべし。〔以上、政敎の大體。〕 四年春二月壬戌朔甲申、詔して曰く、「我が皇祖の靈や、天より降り鑒み、光りて朕が躬を助けたまふ。今諸々の虜已に平らぎ、海内事無し。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」と。乃ち靈畤を鳥見山の中に立つ。其の地を號して上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭る。 先人曰く、神武天皇、都を大和國橿原に定む。時に三種の神寶を以て大殿に安置し、床を同じくして坐したまふ。蓋し往古の神勅の如し。此れに由りて皇居と神宮と差別無し。宮中に庫藏〔此に齋藏と云ふ。〕を立て、宮物・神物分かつ無し。此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、天下の政事は郊社宗廟の祭祀より大なるは莫し。夫れ人君は天地を以て父母と爲す。況んや帝は乾靈天孫の統を承け、以て四海に臨むをや。蓋し神に交はるの道は誠に在り。至誠以て祭祀すれば、則ち鬼神の幽冥も亦格思すべし。蕞爾たる黎民も、至誠以て之を求むれば、則ち感ぜざる無し。故に往古は神祇の祭祀と朝廷の政事と、其の義を二にせず。深いかな。〔俗に政を訓みて祭事とするは是れなり。〕凡そ祭祀を主る者は、皆朝政を執る。天種子命・神八井耳命の如きは是れなり。〔神八井耳命は、神武帝の皇子、綏靖帝の兄なり。神八井耳命曰く、「吾は是れ乃の兄なり。而るに懦弱にして果を致す能はず。今汝特に神武を挺し、自ら元惡を誅す。宜なるかな。汝の天位に光臨し、以て皇祖の業を承くること。吾當に汝の爲に輔けて神祇を典り奉るべし」と。是れ卽ち多臣の始祖なり。〕帝、神勅を守り、以て靈器を敬ふ。且つ天神を郊祀し、用て大孝を申ぶ。其の兢兢業業として政敎を愼むは、萬世の規戒なり。〔以上、祭政の實。〕 崇神帝十年秋七月丙戌朔己酉、群卿に詔して曰く、「民を導くの本は、敎化に在り。今既に神祇を禮し、災害皆耗せり。然れども遠荒の人等、猶ほ正朔を受けず。是れ未だ王化に習はざるのみ。其れ群卿を選びて四方に遣はし、朕が憲を知らしめよ」と。 謹んで按ずるに、是れ行人を發して以て敎を四方に施すの始めなり。導は啓迪なり。敎化に至らざれば、則ち民と敎と別なり。民情化適して敎成る、之を敎化と謂ふ。正朔は王曆なり。天下皆正朔を受くるは、其の天に事ふるを同じくするなり。正朔を受けざれば則ち民俗を殊にす。王化は天下皆其の敎令を守りて其の三綱を正すなり。王化未だ習はざれば則ち民意を異にするなり。憲は法なり。憲章以て人に示すなり。言ふこころは、民皆此の心有り、敎化明らかならず故に其の性を盡くさず。之を啓迪するは敎の化に在り。鬼神を敬ふと民を敎化するとは、其の本至誠に出でず、而して鬼神は幽にして信、人民は習にして駁なり。故に鬼神に事ふるは致敬に在り、人民を治むるは敎を盡くすに在り。帝既に晨に興き夕に惕れ、齊明盛服して以て鬼神を敬ふ。災害既に耗す。然れども天下未だ軌を一にせず、四方未だ俗を均しくせず。今憲章を建て、以て時月を考へ、禮樂制度を同じくし、以て民性を節し、道德を一にして以て俗を同じくす。十二年に及び敎化流行し、衆庶業を樂しみ、富庶既に滿つ。人民皆長幼の序、課役の制を知る。宜なるかな其の至德を稱せらるること。蓋し後世に迄びて巡察・按察・宣撫の法有り、以て風俗制度を正し革む。推古帝に及び、聖德太子憲法を定め、孝德帝天下の政制を詳にし、天武帝律令法式を定め、文武帝の朝、淡海公勅を奉りて律令を撰び、終に萬世政令の準標と爲る。其の本は皆此に基づく。帝の功、亦大ならずや。〔以上、憲章の敎。〕
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『尚武論』・上古の封建の沿革と屯倉の備え乃ち命じて国造と為す者凡そ八、県王と為す者凡そ三。是の時に当たり、王畿は独り中州の地を有つのみ。国造・県主は頗る其の中に封を受く。其の余の諸国は、唯だ之に正始を与ふるのみ。崇神の世、始めて皇子を封じ、東方を鎮撫せしむ。後、男女の調役を定む。皇子の分封、邦国の貢賦、皆此より始まる。景行丕いに其の緒を承け、以て前烈を揚ぐ。弗庭を四征し、大いに十字を拓く。而して帝の八十余子、封を受くる者七十七人。更に宗室を封じ、東山十五道の都督と為し、犬牙相臨み、天下を統制す。是に於いて国にも亦別有り(所謂別王是れなり)。成務、徳を嗣ぎ、始めて天下を分かち、国郡県邑に各々官長を置く。其の国造と為る者は凡そ九十有四。餘は則ち詳らかに考ふべからず。蓋し猶ほ周に五等の国有るがごとし。上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀に供するに足る。以て京師を藩輔す。初め垂仁、始めて屯田を置き、称して帝皇の田と為す。猶ほ周人の所謂天子の田のごとし。其の官を屯田司と曰ふ。屯田・屯倉、即ち此に始まる。景行乃ち諸国に田部・屯倉を与へしむ。蓋し古は耕田の業、猶ほ食に足らず、凶年荒歳、最も艱阨多し。是に於いて諸国に勅令して、其の土を制し、其の民を処き、稼穡を務め、畜積を広くし、以て災害に備へしむ。其の制は猶ほ後の義倉のごとし。安閑に延及び、屯倉を西南の諸国に制置すること凡そ十三所。乃ち有司に令して其の田租の事を掌らしむ。是より後、寛閑の野を経理し、膏腴の田を墾闢し、有司に分命して以て其の政を掌らしむること、史に絶えず書す。所謂封建郡県を兼有すとは是れなり。景行の皇子倭武薨ず。因りて式部を定む。曰く、功名を録さんと欲すればなり、と。名代入部、実に此に始まる。厥の後、仁徳、皇后・太子及び諸皇子の為に名代部を定め、皇后の湯沐邑、太子諸王の食封も、亦皆此より始まるなり。清寧、子無く、白髪部・舎人・膳部・靭負等を諸国に置く。武烈・安閑、皆其の故事に循ふ。之を子代入部と謂ふ。蓋し其の子無きを以て之を置く。因りて子代と謂ふ。皇后子無くも亦之を置く。名代・子代、号を殊にして実を同じうするのみ。之を置くの制、其の詳しきは未だ聞かず。亦猶ほ漢の時の陵邑、天下の民と田宅とを徙して陵を守らしむるがごときなり。孝徳の創制立法に至り、国郡県邑に其の君長を廃し、其の禄俸を制す。
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『中朝事実』神知章・五神配侍と文武の大臣一書に曰く、天照太神、手に寶鏡を持ち、天忍穗耳尊に授けて、祝ひて曰く、「吾が兒、此の寶鏡を視ること、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし殿を共にして、以て齋鏡と爲せ」と。復た天兒屋命・太玉命に勅したまはく、「惟れ爾二神、亦た同じく殿内に侍ひて、善く防護を爲せ」と。 一書に曰く、高皇產靈尊、眞床覆衾を以て、天津彥國光彥火瓊瓊杵尊を裹み、則ち天磐戶を引き開き、天八重雲を排し分けて、以て奉り降す。時に大伴連の遠祖天忍日命、來目部の遠祖天穗津大來目を帥ゐ、背に天磐靱を負ひ、臂に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓・天羽羽矢を捉り、及び八目鳴鏑を副へ持ち、又頭槌の劒を帶びて、天孫の前に立ち、遊行して降り來たる。日向の襲の高千穗の槵日の二上の峯の天浮橋に到る。 一書に曰く、天孫降りたまふ時、天兒屋根命〔津速產靈神の孫、中臣氏の祖なり。〕天太玉命〔高皇產靈神の子、齋部氏の祖なり。〕天照太神の勅を奉り、左右の扶翼と爲る。今の世の左右の相のごときか。〔親房記。〕 謹んで按ずるに、是れ臣の才を撰ぶの始めなり。治を爲すの道は、人を用ゐるに在り。況んや草味屯難の時をや。凡そ此の五神、既に中國に功有り、今又防護し配侍す。蓋し世臣の舊德、功業已に時に見はれ、聞望已に世に孚あり、高山巨海の如く、其の風采以て具瞻するに足る。初めより運動の勞無くして、功の人に及ぶや厚し。天神此の才を得て、皇孫に依賴の任を付し、以て皇統を正し、以て其の正を養ふ。衣を垂れ手を拱きて、以て其の成るを仰ぐ。何の强暴の服せざらん、雅俗の敦からざらんや。凡そ臣に文武有り、大小有り、親疏有り、一も闕けて全からず。文武の大臣は經綸康濟し、近親の侍臣は董陶涵養す。職の重き者は安危の寄有り、職の親しき者は習染の移り有りと雖も、其の天下の本に繫ること一なり。此の章に五神配侍の事有り、別に二神同殿の勅有り。是れ大臣を敬ふなり。又天忍日命天孫の前に立ち、天鈿目命以て近衞す。是れ雲路を披き山を駈りて蹕ふ時、右に武左に文ありて、威武の義を鳴らすなり。吁、其の人を得、其の禮を正し、其の道の至りを致すこと、後世企望すべきに非ざるなり。此の時既に輔弼大臣近衞の職有り、天工人其れ之に代はる。後に官を立て人を任ずること、忽にすべけんや。 神武帝甲寅の年東征し、莵狹津媛を以て侍臣天種子命に賜ひて妻とす。天種子命は是れ中臣氏の遠祖なり。戊午の年夏六月、大伴氏の遠祖日臣命、大來目を帥ゐて將を督し元戎し、山を踏み行を啓き、乃ち島の向ふ所を尋ぬ。時に勅して日臣命を譽めて曰く、「汝は忠にして且つ勇あり、加へて能く導の功有り。是を以て汝が名を改めて道臣と爲す」と。辛酉の年春正月、天皇位に卽く。道臣命大來目部を帥ゐ、密策を奉承し、能く諷歌を以てす。二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、以て寵異す。 謹んで按ずるに、一書に天種子命・天富命を以て左右の臣と爲す。又曰く、宇麻志麻治命・櫛日方命を食國の政申す大夫と爲す、と。是れ皆大臣執政の儀なり。此の時文武の臣を以て相並ぶなり。凡そ文と武とは猶ほ左右の手のごとく、陰陽相對し、偏廢すべからず。唯だ時宜を以て先後と爲すのみ。天孫臨降、及び神武帝の時は、皆草味屯蒙の難にして、武臣に非ざれば其の創業を得べからず。故に之を先にし之を賞する所、幷せ見るべきなり。後世に至りて文臣を重んじ武臣を輕んずるは、是れ殆ど上古の神制に異なれり。外朝の聖人政を立つるや、虎賁を以て三事に並べ論じ、樞密を以て中書に並べ稱す。況んや中州は往古より威武を以て皇統を建つるをや。〔以上。文武の大臣を重んず。〕
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『中朝事実』賞罰章・資を賜う・姓を賜う・尊号天神、葦原中國の邪鬼を撥ひ平げしめんと欲し、天國玉の子天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜ひ、以て遣はす。 謹んで按ずるに、是れ其の臣に資するの始めなり。蓋し其の風聲を樹て、以て人の耳目を異にし、其の勸勤の意を鼓舞し、其の善忠の實を興動する者は、人君治平の要道なり。故に賞して以て之を厚くし、待つに深きを以てして、而る後、其の任ずる所甚だ重く、其の責むる所能く通ず。天神、此の神を賞すること此くの如し。而して此の神、忠誠ならず、忽ちに中り還る投げ矢に、命を隕す。其の責の速やかに通ずること以て見るべきなり。後世、將を立つるに鉄鉞を賜ひ、其の器服を異にするは、皆賢を賢とする所以にして、有德を崇獎し、人心を興起す。端を是に造るは、乃ち外朝の旌淑なり。 皇孫、天鈿女命に勅す、汝、宜しく顯せる所の神名を以て姓氏と爲せ、と。因りて猿女君の號を賜ふ。故に猿女君等、男女皆呼びて君と爲す。此れ其の緣なり。 謹んで按ずるに、是れ其の功に因りて姓號を賜ふの始めなり。神武帝東征の日、日臣命は忠にして且つ勇、加ふるに導の功有り、以て道臣の名を賜ふ。蓋し姓名の號は、百世に流芳し、其の善心を鼓動する所以なり。故に姓を賜ひ氏を命ずるに必ず道有り。人臣、時君に禀けざれば、則ち其の氏と爲るを得ず。其の分、嚴なるかな。凡そ物部・大伴の姓と爲るは、其の威武を以てなり。〔饒速日命は物部氏の遠祖なり。物部とは武夫の訓なり。道臣命は大伴氏の遠祖なり。日本武尊、靱部を以て武日に賜ひ、以て大伴氏と爲す。〕中臣・忌部の姓と爲るは、其の中直にして祭祀を主るに因る。況んや藤・橘・菅・江の分、源・平・紀・淸の派、未だ嘗て其の勳業を以てせずんばあらず。夫れ名は實の著なり。實無くして名有れば、則ち竟に虛名と爲る。虛名にして之を後世に傳ふるは、臭を子孫に遺すなり。其の賜ふ所、其の受くる所、愼まざるべけんや。〔以上、賜の義。〕 神武帝辛酉年春正月庚辰朔、天皇、帝位に橿原宮に卽く。是の歲を天皇元年と爲す。故に古語に之を稱へて曰く、畝傍の橿原に、底磐の根に宮柱太立て、高天の原に搏風峻りて、始めて天下を馭す天皇、號して神日本磐余彥火火出見天皇と曰ふ、と。 謹んで按ずるに、是れ人臣の尊號を奉るの始めなり。神代にも旣に尊・命の說有るなり。凡そ善惡の應は終に掩ふべからず。故に臣に善惡有れば君之を糺し、君の善惡は天必ず之を糺す。天言はずして人之に代はる。所謂尊號の善惡是れなり。後世に諡の制有るに至り、唯だ人君の其の臣を賞黜するに非ず、臣子も亦た其の君父を議す。臣子議するを非とせば、天下以て之を議す。天下の議は、天の命なり。君臣の道、愼まざるべけんや。夫れ一時の好惡を以て、百世の榮辱を蒙る。未だ其の履歷を知らずして、一たび其の號諡を聞けば則ち其の人を知る。故に人心を勸化し、善惡を興懲する所以の者は此に在り。然れば乃ち賞刑の實は人君に本づき、以て天下に流る。行ひの迹、功の表は、己より出でて、人に成る。是れ其の終に掩ふべからざるなり。〔以上、尊號の禮。〕
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『中朝事実』神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕