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中朝事実 / 神知章・四道将軍と大臣・守令の選任

崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午。以大彥命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彥遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受敎者。乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。 謹按。是武官之始也。神代既有將帥之任。神武帝時。有軍帥之將。然未及名號。今始以將軍授印綬。號四道將軍。其任尤重哉。〔以上。撰軍帥之任。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而宴數日。時皇子稚足彥尊武內宿禰不參赴于宴庭。天皇召之問其故。因以奏之曰。其宴樂之日。群卿百寮。必情在戲遊。不存國家。若有狂生而伺墻閣之隙乎。故侍門下備非常。時天皇謂之曰。灼然。〔灼然此云以耶知擧〕則異寵焉。秋八月己酉朔壬子。立稚足彥尊爲皇太子。是日命武內宿禰爲棟梁之臣。 謹按。是撰其人任其大職之義也。棟梁臣距成務帝號大臣。武內任之。此後連綿有大臣之號。終有三公稱也。蓋大臣者師範一人。儀形四海。無其人則闕。古來所其重如此。是以經邦論道。燮理陰陽也。其爲乎上也。必陳善閉邪。以爲乎君之德。其爲乎下也。必發政施仁。以爲乎人之俗。如此之人而後任此職。俾其上輔人君之道。下濟四海之政也。帝因武內之篤行。授以大任。武內終輔導六世。風采凝峻。武儀巍焉。是此壽者老成人歟。後世任大臣之道。踏襲于往古。以精一其撰。又無大過乎。〔以上。重大臣之撰。〕 成務帝四年春二月丙寅朔。詔曰。自今以後。國郡立長。縣邑置首。卽取當國之幹了者。任其國郡之首長。是爲中區之藩屏也。 先人曰。國司者是當一方之重寄。察百姓之寒苦。非庸才之所可企望。故昔時固設格制。以勘治否。合格者蒙賞。違格者被黜。是所以擇良吏也。又曰。歷七箇國受領。合格之吏勘公文畢。拜參議也。白河院仰。但可依其才。 謹案。是撰國郡之司也。蓋人君者民之父母也。以分言之。如天壤。以情考之。如心體之相資。故雖居深宮之內。坐九重之上。恒存誠求之實。則守令之撰。豈可忽乎。其撰一背。則億兆之民悉蒙其殃。人君可敢忍哉。故其精撰。往古既然。後世因之。正年限。愼考課。明賞罰。相續其制嚴矣。外朝先儒曰。郡守縣令。民之師帥。所使承流而宣化也。故師帥不賢。則主德不宣。恩澤不流。愚謂。守令唯事租稅調賦。不以禮敎。則非政化之實。故督財賦。理詞訟之間。禮敎自敷。風化興行。而俗自移。民自敦。而後可稱守令之賢也。〔以上。正守令之任。〕

新字:崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。 謹按。是武官之始也。神代既有将帥之任。神武帝時。有軍帥之将。然未及名号。今始以将軍授印綬。号四道将軍。其任尤重哉。〔以上。撰軍帥之任。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而宴数日。時皇子稚足彦尊武内宿祢不参赴于宴庭。天皇召之問其故。因以奏之曰。其宴楽之日。群卿百寮。必情在戯遊。不存国家。若有狂生而伺墻閣之隙乎。故侍門下備非常。時天皇謂之曰。灼然。〔灼然此云以耶知挙〕則異寵焉。秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊為皇太子。是日命武内宿祢為棟梁之臣。 謹按。是撰其人任其大職之義也。棟梁臣距成務帝号大臣。武内任之。此後連綿有大臣之号。終有三公称也。蓋大臣者師範一人。儀形四海。無其人則闕。古来所其重如此。是以経邦論道。燮理陰陽也。其為乎上也。必陳善閉邪。以為乎君之徳。其為乎下也。必発政施仁。以為乎人之俗。如此之人而後任此職。俾其上輔人君之道。下済四海之政也。帝因武内之篤行。授以大任。武内終輔導六世。風采凝峻。武儀巍焉。是此寿者老成人歟。後世任大臣之道。踏襲于往古。以精一其撰。又無大過乎。〔以上。重大臣之撰。〕 成務帝四年春二月丙寅朔。詔曰。自今以後。国郡立長。県邑置首。即取当国之幹了者。任其国郡之首長。是為中区之藩屏也。 先人曰。国司者是当一方之重寄。察百姓之寒苦。非庸才之所可企望。故昔時固設格制。以勘治否。合格者蒙賞。違格者被黜。是所以択良吏也。又曰。歴七箇国受領。合格之吏勘公文畢。拝参議也。白河院仰。但可依其才。 謹案。是撰国郡之司也。蓋人君者民之父母也。以分言之。如天壤。以情考之。如心体之相資。故雖居深宮之内。坐九重之上。恒存誠求之実。則守令之撰。豈可忽乎。其撰一背。則億兆之民悉蒙其殃。人君可敢忍哉。故其精撰。往古既然。後世因之。正年限。慎考課。明賞罰。相続其制厳矣。外朝先儒曰。郡守県令。民之師帥。所使承流而宣化也。故師帥不賢。則主徳不宣。恩沢不流。愚謂。守令唯事租税調賦。不以礼教。則非政化之実。故督財賦。理詞訟之間。礼教自敷。風化興行。而俗自移。民自敦。而後可称守令之賢也。〔以上。正守令之任。〕

書き下し

崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕

現代語訳

崇神帝十年の秋九月丙戌朔甲午、大彦命を北陸に遣わし、武渟川別を東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主命を丹波に遣わした。そこで彼らに詔していわれた。「もし教えを受けない者があれば、兵を挙げて討て。」そしてともに印綬を授けて将軍とした。 素行はこう考える。これは武官の始めである。神代にすでに将帥の任があり、神武帝の時にも軍を率いる将がいた。しかしまだ名称には及んでいなかった。今はじめて将軍に印綬を授け、四道将軍と号した。その任はことに重い。〔以上、軍帥の任を選ぶ。〕 景行帝五十一年の春正月壬午朔戊子、群卿を招いて数日にわたり宴を催した。このとき皇子の稚足彦尊と武内宿禰は宴の庭に参らなかった。天皇は召してその理由を問われた。そこで奏上していった。「宴楽の日は、群卿百官の心はきっと遊びごとに向き、国家のことを思わないでしょう。もし狂った者が垣根や門の隙をうかがうことがあってはなりません。それで門下に侍して非常に備えておりました。」天皇はこれに「まことにそのとおりだ」〔灼然、これを以耶知擧という〕といわれ、特別に寵愛された。秋八月己酉朔壬子、稚足彦尊を立てて皇太子とした。この日、武内宿禰に命じて棟梁の臣とした。 素行はこう考える。これは適任の人を選び、大きな職に任ずる義である。棟梁の臣は成務帝の時から大臣と呼ばれ、武内宿禰がこれに任じた。これ以後連綿として大臣の称があり、ついに三公の称もできた。思うに大臣は一人の師範であり、天下の手本である。その人がなければ空席にした。昔からその重んじる様はこのようであった。だから国を治め道を論じ、陰陽をととのえるのである。上においては、必ず善を述べ邪を防ぎ、君の徳を成す。下においては、必ず政を行い仁を施し、人の風俗を成す。このような人であって初めてこの職に任じ、上は君の道を助け、下は天下の政を成り立たせるのである。帝は武内宿禰の篤い行いによって大任を授けた。武内宿禰はついに六代の天皇を輔導し、風采は重々しく、武の威儀は高くそびえていた。これこそ長寿の老成人であろう。後世の大臣任用の道が昔を踏襲し、その選びを精一にすれば、大きな過ちもないであろう。〔以上、大臣の選びを重んずる。〕 成務帝四年の春二月丙寅朔、詔していわれた。「今より後、国や郡に長を立て、県や邑に首を置け。その国の有能な者を取って、国郡の首長に任ぜよ。これは中国(日本)の国土の守りとなる。」 先人(国司を論じた人)はいった。国司は一方の重い任を預かる。民の寒さや苦しみを察することは、凡庸な才の望めるところではない。それゆえ昔から格制を設け、治めの良し悪しを調べた。格に合う者は賞を受け、違う者は退けられた。これは良い官吏を選ぶ方法である。またいった。七か国の受領を歴任し、格に合う官吏で公文の勘査を終えた者は、参議に任ぜられる。白河院が仰せられた。ただしその才によるべきである、と。 素行は考える。これは国郡の司を選ぶことである。思うに君主は民の父母である。身分で言えば天と地ほど離れているが、情で考えれば心と体が助け合うようなものである。だから深い宮の内、九重の上に座していても、常に誠をもって人を求めるなら、守令の選びをどうしておろそかにできようか。その選びが一度でも誤れば、億兆の民が皆その災いを受ける。君主はそれを平気で見過ごせようか。だからその精選は昔からそうであり、後世もこれにならい、任期を正し、考課を慎み、賞罰を明らかにし、代々その制度は厳しかった。外朝(中国)の先儒はいった。郡守や県令は民の師帥であり、上の徳化を受けて宣べ伝える者である。だから師帥が賢明でなければ、君主の徳は広まらず、恩沢も流れない、と。私が思うに、守令がただ租税の徴収だけを事として礼教を用いなければ、政治と教化の実ではない。だから財賦を督し訴えを裁く間にも、礼教がおのずと敷かれ、風化が興り、風俗がおのずと移り、民がおのずと厚くなって、はじめて守令が賢いと称せられるのである。〔以上、守令の任を正す。〕

解説

四道将軍の派遣、武内宿禰を棟梁の臣とした任命、国郡の長の選びを引き、素行は要職の人選が国の安危を分けると論じます。大臣は君主を助け民の風俗を整える者、国司は民の師帥であり、税の徴収だけでなく礼教を敷いてこそ賢いと述べます。人選の重さを説くのは素行の主張です。権限を与える役職ほど、能力に加えて任期や考課の仕組みを備え、数字の外にある現場の風土づくりまで評価する視点が、今の組織にも通じます。
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この章句が説くこと

四道将軍棟梁の臣武内宿祢守令考課礼教

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