中朝事実 / 神知章・四道将軍と大臣・守令の選任
崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午。以大彥命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彥遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受敎者。乃擧兵伐之。既而共授印綬爲將軍。 謹按。是武官之始也。神代既有將帥之任。神武帝時。有軍帥之將。然未及名號。今始以將軍授印綬。號四道將軍。其任尤重哉。〔以上。撰軍帥之任。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而宴數日。時皇子稚足彥尊武內宿禰不參赴于宴庭。天皇召之問其故。因以奏之曰。其宴樂之日。群卿百寮。必情在戲遊。不存國家。若有狂生而伺墻閣之隙乎。故侍門下備非常。時天皇謂之曰。灼然。〔灼然此云以耶知擧〕則異寵焉。秋八月己酉朔壬子。立稚足彥尊爲皇太子。是日命武內宿禰爲棟梁之臣。 謹按。是撰其人任其大職之義也。棟梁臣距成務帝號大臣。武內任之。此後連綿有大臣之號。終有三公稱也。蓋大臣者師範一人。儀形四海。無其人則闕。古來所其重如此。是以經邦論道。燮理陰陽也。其爲乎上也。必陳善閉邪。以爲乎君之德。其爲乎下也。必發政施仁。以爲乎人之俗。如此之人而後任此職。俾其上輔人君之道。下濟四海之政也。帝因武內之篤行。授以大任。武內終輔導六世。風采凝峻。武儀巍焉。是此壽者老成人歟。後世任大臣之道。踏襲于往古。以精一其撰。又無大過乎。〔以上。重大臣之撰。〕 成務帝四年春二月丙寅朔。詔曰。自今以後。國郡立長。縣邑置首。卽取當國之幹了者。任其國郡之首長。是爲中區之藩屏也。 先人曰。國司者是當一方之重寄。察百姓之寒苦。非庸才之所可企望。故昔時固設格制。以勘治否。合格者蒙賞。違格者被黜。是所以擇良吏也。又曰。歷七箇國受領。合格之吏勘公文畢。拜參議也。白河院仰。但可依其才。 謹案。是撰國郡之司也。蓋人君者民之父母也。以分言之。如天壤。以情考之。如心體之相資。故雖居深宮之內。坐九重之上。恒存誠求之實。則守令之撰。豈可忽乎。其撰一背。則億兆之民悉蒙其殃。人君可敢忍哉。故其精撰。往古既然。後世因之。正年限。愼考課。明賞罰。相續其制嚴矣。外朝先儒曰。郡守縣令。民之師帥。所使承流而宣化也。故師帥不賢。則主德不宣。恩澤不流。愚謂。守令唯事租稅調賦。不以禮敎。則非政化之實。故督財賦。理詞訟之間。禮敎自敷。風化興行。而俗自移。民自敦。而後可稱守令之賢也。〔以上。正守令之任。〕
新字:崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。 謹按。是武官之始也。神代既有将帥之任。神武帝時。有軍帥之将。然未及名号。今始以将軍授印綬。号四道将軍。其任尤重哉。〔以上。撰軍帥之任。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子。招群卿而宴数日。時皇子稚足彦尊武内宿祢不参赴于宴庭。天皇召之問其故。因以奏之曰。其宴楽之日。群卿百寮。必情在戯遊。不存国家。若有狂生而伺墻閣之隙乎。故侍門下備非常。時天皇謂之曰。灼然。〔灼然此云以耶知挙〕則異寵焉。秋八月己酉朔壬子。立稚足彦尊為皇太子。是日命武内宿祢為棟梁之臣。 謹按。是撰其人任其大職之義也。棟梁臣距成務帝号大臣。武内任之。此後連綿有大臣之号。終有三公称也。蓋大臣者師範一人。儀形四海。無其人則闕。古来所其重如此。是以経邦論道。燮理陰陽也。其為乎上也。必陳善閉邪。以為乎君之徳。其為乎下也。必発政施仁。以為乎人之俗。如此之人而後任此職。俾其上輔人君之道。下済四海之政也。帝因武内之篤行。授以大任。武内終輔導六世。風采凝峻。武儀巍焉。是此寿者老成人歟。後世任大臣之道。踏襲于往古。以精一其撰。又無大過乎。〔以上。重大臣之撰。〕 成務帝四年春二月丙寅朔。詔曰。自今以後。国郡立長。県邑置首。即取当国之幹了者。任其国郡之首長。是為中区之藩屏也。 先人曰。国司者是当一方之重寄。察百姓之寒苦。非庸才之所可企望。故昔時固設格制。以勘治否。合格者蒙賞。違格者被黜。是所以択良吏也。又曰。歴七箇国受領。合格之吏勘公文畢。拝参議也。白河院仰。但可依其才。 謹案。是撰国郡之司也。蓋人君者民之父母也。以分言之。如天壤。以情考之。如心体之相資。故雖居深宮之内。坐九重之上。恒存誠求之実。則守令之撰。豈可忽乎。其撰一背。則億兆之民悉蒙其殃。人君可敢忍哉。故其精撰。往古既然。後世因之。正年限。慎考課。明賞罰。相続其制厳矣。外朝先儒曰。郡守県令。民之師帥。所使承流而宣化也。故師帥不賢。則主徳不宣。恩沢不流。愚謂。守令唯事租税調賦。不以礼教。則非政化之実。故督財賦。理詞訟之間。礼教自敷。風化興行。而俗自移。民自敦。而後可称守令之賢也。〔以上。正守令之任。〕
書き下し
崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
現代語訳
崇神帝十年の秋九月丙戌朔甲午、大彦命を北陸に遣わし、武渟川別を東海に遣わし、吉備津彦を西道に遣わし、丹波道主命を丹波に遣わした。そこで彼らに詔していわれた。「もし教えを受けない者があれば、兵を挙げて討て。」そしてともに印綬を授けて将軍とした。 素行はこう考える。これは武官の始めである。神代にすでに将帥の任があり、神武帝の時にも軍を率いる将がいた。しかしまだ名称には及んでいなかった。今はじめて将軍に印綬を授け、四道将軍と号した。その任はことに重い。〔以上、軍帥の任を選ぶ。〕 景行帝五十一年の春正月壬午朔戊子、群卿を招いて数日にわたり宴を催した。このとき皇子の稚足彦尊と武内宿禰は宴の庭に参らなかった。天皇は召してその理由を問われた。そこで奏上していった。「宴楽の日は、群卿百官の心はきっと遊びごとに向き、国家のことを思わないでしょう。もし狂った者が垣根や門の隙をうかがうことがあってはなりません。それで門下に侍して非常に備えておりました。」天皇はこれに「まことにそのとおりだ」〔灼然、これを以耶知擧という〕といわれ、特別に寵愛された。秋八月己酉朔壬子、稚足彦尊を立てて皇太子とした。この日、武内宿禰に命じて棟梁の臣とした。 素行はこう考える。これは適任の人を選び、大きな職に任ずる義である。棟梁の臣は成務帝の時から大臣と呼ばれ、武内宿禰がこれに任じた。これ以後連綿として大臣の称があり、ついに三公の称もできた。思うに大臣は一人の師範であり、天下の手本である。その人がなければ空席にした。昔からその重んじる様はこのようであった。だから国を治め道を論じ、陰陽をととのえるのである。上においては、必ず善を述べ邪を防ぎ、君の徳を成す。下においては、必ず政を行い仁を施し、人の風俗を成す。このような人であって初めてこの職に任じ、上は君の道を助け、下は天下の政を成り立たせるのである。帝は武内宿禰の篤い行いによって大任を授けた。武内宿禰はついに六代の天皇を輔導し、風采は重々しく、武の威儀は高くそびえていた。これこそ長寿の老成人であろう。後世の大臣任用の道が昔を踏襲し、その選びを精一にすれば、大きな過ちもないであろう。〔以上、大臣の選びを重んずる。〕 成務帝四年の春二月丙寅朔、詔していわれた。「今より後、国や郡に長を立て、県や邑に首を置け。その国の有能な者を取って、国郡の首長に任ぜよ。これは中国(日本)の国土の守りとなる。」 先人(国司を論じた人)はいった。国司は一方の重い任を預かる。民の寒さや苦しみを察することは、凡庸な才の望めるところではない。それゆえ昔から格制を設け、治めの良し悪しを調べた。格に合う者は賞を受け、違う者は退けられた。これは良い官吏を選ぶ方法である。またいった。七か国の受領を歴任し、格に合う官吏で公文の勘査を終えた者は、参議に任ぜられる。白河院が仰せられた。ただしその才によるべきである、と。 素行は考える。これは国郡の司を選ぶことである。思うに君主は民の父母である。身分で言えば天と地ほど離れているが、情で考えれば心と体が助け合うようなものである。だから深い宮の内、九重の上に座していても、常に誠をもって人を求めるなら、守令の選びをどうしておろそかにできようか。その選びが一度でも誤れば、億兆の民が皆その災いを受ける。君主はそれを平気で見過ごせようか。だからその精選は昔からそうであり、後世もこれにならい、任期を正し、考課を慎み、賞罰を明らかにし、代々その制度は厳しかった。外朝(中国)の先儒はいった。郡守や県令は民の師帥であり、上の徳化を受けて宣べ伝える者である。だから師帥が賢明でなければ、君主の徳は広まらず、恩沢も流れない、と。私が思うに、守令がただ租税の徴収だけを事として礼教を用いなければ、政治と教化の実ではない。だから財賦を督し訴えを裁く間にも、礼教がおのずと敷かれ、風化が興り、風俗がおのずと移り、民がおのずと厚くなって、はじめて守令が賢いと称せられるのである。〔以上、守令の任を正す。〕
解説

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『中朝事実』神知章・五神配侍と文武の大臣一書に曰く、天照太神、手に寶鏡を持ち、天忍穗耳尊に授けて、祝ひて曰く、「吾が兒、此の寶鏡を視ること、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし殿を共にして、以て齋鏡と爲せ」と。復た天兒屋命・太玉命に勅したまはく、「惟れ爾二神、亦た同じく殿内に侍ひて、善く防護を爲せ」と。 一書に曰く、高皇產靈尊、眞床覆衾を以て、天津彥國光彥火瓊瓊杵尊を裹み、則ち天磐戶を引き開き、天八重雲を排し分けて、以て奉り降す。時に大伴連の遠祖天忍日命、來目部の遠祖天穗津大來目を帥ゐ、背に天磐靱を負ひ、臂に稜威の高鞆を著け、手に天梔弓・天羽羽矢を捉り、及び八目鳴鏑を副へ持ち、又頭槌の劒を帶びて、天孫の前に立ち、遊行して降り來たる。日向の襲の高千穗の槵日の二上の峯の天浮橋に到る。 一書に曰く、天孫降りたまふ時、天兒屋根命〔津速產靈神の孫、中臣氏の祖なり。〕天太玉命〔高皇產靈神の子、齋部氏の祖なり。〕天照太神の勅を奉り、左右の扶翼と爲る。今の世の左右の相のごときか。〔親房記。〕 謹んで按ずるに、是れ臣の才を撰ぶの始めなり。治を爲すの道は、人を用ゐるに在り。況んや草味屯難の時をや。凡そ此の五神、既に中國に功有り、今又防護し配侍す。蓋し世臣の舊德、功業已に時に見はれ、聞望已に世に孚あり、高山巨海の如く、其の風采以て具瞻するに足る。初めより運動の勞無くして、功の人に及ぶや厚し。天神此の才を得て、皇孫に依賴の任を付し、以て皇統を正し、以て其の正を養ふ。衣を垂れ手を拱きて、以て其の成るを仰ぐ。何の强暴の服せざらん、雅俗の敦からざらんや。凡そ臣に文武有り、大小有り、親疏有り、一も闕けて全からず。文武の大臣は經綸康濟し、近親の侍臣は董陶涵養す。職の重き者は安危の寄有り、職の親しき者は習染の移り有りと雖も、其の天下の本に繫ること一なり。此の章に五神配侍の事有り、別に二神同殿の勅有り。是れ大臣を敬ふなり。又天忍日命天孫の前に立ち、天鈿目命以て近衞す。是れ雲路を披き山を駈りて蹕ふ時、右に武左に文ありて、威武の義を鳴らすなり。吁、其の人を得、其の禮を正し、其の道の至りを致すこと、後世企望すべきに非ざるなり。此の時既に輔弼大臣近衞の職有り、天工人其れ之に代はる。後に官を立て人を任ずること、忽にすべけんや。 神武帝甲寅の年東征し、莵狹津媛を以て侍臣天種子命に賜ひて妻とす。天種子命は是れ中臣氏の遠祖なり。戊午の年夏六月、大伴氏の遠祖日臣命、大來目を帥ゐて將を督し元戎し、山を踏み行を啓き、乃ち島の向ふ所を尋ぬ。時に勅して日臣命を譽めて曰く、「汝は忠にして且つ勇あり、加へて能く導の功有り。是を以て汝が名を改めて道臣と爲す」と。辛酉の年春正月、天皇位に卽く。道臣命大來目部を帥ゐ、密策を奉承し、能く諷歌を以てす。二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、以て寵異す。 謹んで按ずるに、一書に天種子命・天富命を以て左右の臣と爲す。又曰く、宇麻志麻治命・櫛日方命を食國の政申す大夫と爲す、と。是れ皆大臣執政の儀なり。此の時文武の臣を以て相並ぶなり。凡そ文と武とは猶ほ左右の手のごとく、陰陽相對し、偏廢すべからず。唯だ時宜を以て先後と爲すのみ。天孫臨降、及び神武帝の時は、皆草味屯蒙の難にして、武臣に非ざれば其の創業を得べからず。故に之を先にし之を賞する所、幷せ見るべきなり。後世に至りて文臣を重んじ武臣を輕んずるは、是れ殆ど上古の神制に異なれり。外朝の聖人政を立つるや、虎賁を以て三事に並べ論じ、樞密を以て中書に並べ稱す。況んや中州は往古より威武を以て皇統を建つるをや。〔以上。文武の大臣を重んず。〕
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『中朝事実』神知章・武内宿禰の讒言と知人の道應神帝九年夏四月、武内宿禰を筑紫に遣はし、以て百姓を監察せしむ。時に武内宿禰の弟甘美内宿禰、兄を廢せんとして、卽ち天皇に讒言す、「武内宿禰、常に天下を望むの情有り。今聞く、筑紫に在りて密かに謀りて曰く、『獨り筑紫を裂き、三韓を招き己に朝せしめ、遂に天下を有たん』と」と。是に於て天皇則ち使を遣はし、以て武内宿禰を殺さしむ。時に武内宿禰歎じて曰く、「吾貳心無く、忠を以て君に事ふ。今何の禍ぞ。罪無くして死なんや」と。是に壹伎直眞根子といふ者有り。其の人と爲り、能く武内宿禰の形に似たり。獨り武内宿禰の罪無くして空しく死ぬを惜しみ、便ち武内宿禰に語りて曰く、「今大臣、忠を以て君に事ふ。既に黑心無きこと、天下共に知る。願はくは密かに之を避け、朝に參赴し、親しく罪無きを辨ぜよ。而る後に死すとも晩からず。且つ時人每に云ふ、『僕の形は大臣に似たり』と。故に今我、大臣に代はりて死し、以て大臣の丹心を明らかにせん」と。則ち劔に伏して自ら死す。時に武内宿禰獨り大いに之を悲しむ。竊かに筑紫を避け、海に浮かび、南海より廻りて以て從ひ、紀の水門に泊まる。僅かに朝に逮ぶことを得て、乃ち罪無きを辨ず。天皇則ち武内宿禰と甘美内宿禰とを推問したまふ。是に二人各々堅く執りて之を爭ふ。是非決し難し。天皇勅して、神祇に請ひて探湯せしむ。是を以て武内宿禰と甘美内宿禰と、共に磯城川の濱に出でて探湯を爲す。武内宿禰勝つ。便ち橫刀を執りて、以て甘美内宿禰を毆ち仆し、遂に殺さんと欲す。天皇勅して釋さしむ。仍りて紀伊直等の祖に賜ふ。 謹んで按ずるに、良臣と奸臣は相對し、君子と小人は相敵す。故に何れの世にか姦臣無からん。蓋し奸讒の行ひ、未だ嘗て其の因る所無くんばあらず。今其の遠出を謀り、以て其の心を蠱し、以て其の耳目を塗り、陰狡の質を以て、瀾翻の辨を構ふ。況んや其の親戚をや。況んや其の兄弟をや。帝の過つこと亦宜ならずや。凡そ武内六世を弼亮し、師言嘉績當世に多し。尤も壽者の老臣なり。上は世を閲すること久しく涉歷深く、先王の政、祖宗の典、古今興衰治亂文武の迹、當時沿革廢擧の由、知り行はざる莫し。故に見聞の際に瞭然、指畫の頃に粲然たり。天下の具瞻と謂ふべきなり。一朝の讒に因りて、必死の地を望む。吁、危ふいかな。眞根子は是れ何人ぞや。其の忠に感じ其の讒に激し、速やかに死して以て充つ。天又善人を佑くるなり。帝尙ほ決せず、終に探湯の誓有りて、以て寃を明らかにす。讒口の是非に顚倒し、邪正に混淆する所以、此の如し。狹穗彥王は外親に因りて垂仁帝の社稷を危ふくせんと欲し、平群眞鳥は國政を擅にして武烈帝の寳祚を簒はんと欲し、領巾を刺して王子を殺し、眉輪王天皇を弑す。皆一朝一夕の事に非ず。僭〔譖と同じ〕の始め、既に涵せるなり。故に根使主の奸謀、十四年を歷て後に發覺し、以て赤族の誅を受く。金村臣の大忠、六世を輔けて、亦衆口を恤へて、住吉の宅に蟄す。人君此に志を錯かざれば、姦雄の國を簒ふ慚、憸邪の上を罔ふ譖、佞幸の權を擅にする私、聚斂媚諛の欲、床を剝ぎて膚に以ぶも覺らず、小人志を得、君子屈を受く。鬼と爲り蜮と爲り、營營たる靑蠅、愼まざるべけんや。〔以上。奸臣の譖を戒む。〕 以上、知人の道を論ず。愚謂へらく、天下の治道は人を得るより大なるは莫し。其の人を得ざれば則ち勞して功無く、其の人を得れば則ち垂拱して成るを仰ぐ。猶ほ耳目四支聰明健强にして、心思之を使令するがごとし。夫れ萬機の繁きを、人君臨決すれば、則ち蘭膏以て繼ぐも、亦竟に得べからず。天下の大なるを、人君兼ね巡れば、則ち皸瘃して以て求むるも、亦竟に盡くすべからざるなり。明君は天を繼ぎ極を建て、良臣は君に代はりて職を分かつ。是れ至誠の道なり。凡そ官は惟れ百、職は惟れ庶、而して總べて大臣・守司・近親の三に在り。三者の一も得ざれば、則ち治と謂ふべからず。大臣は一ならず、文臣有り、武臣有り、舊老臣有り、勳功臣有り。各々其の道を得れば、則ち政體正しく、衆備豫まり、禮樂興りて、風俗厚し。守司は一ならず、國主・郡縣の司有り、人物・事儀、各々其の司有り。其の撰其の人を得れば、則ち民人化し、土地辟け、事物其の處を得るなり。近親は一ならず、侍衞有り、給事有り、左右・親戚の分有りて、止だ一類に非ず。各々其の撰を得れば、則ち左右の涵養、朝夕の恪勤、番直の衞儀正しくして、宗子は惟れ城、親戚は惟れ屏たり。故に大明は枕を泰山に安んじ、手を北辰に拱き、四海以て朝し、一天皆共す。勞せずして功成るに非ずや。蓋し人を得るの道は、人を知るに在り。人を知ること太だ難し。之を知るは、内は其の德を主として知り、外は其の言行を察し、之を試みること久しきに在り。若し純ら知を必とし、敏を言に貴べば、則ち利口喋喋として、其の俗靡弊輕薄なり。純ら德を必とし、篤を行に尙べば、則ち沈默唯唯として、其の俗墨面して遺を理む。奸佞は利に喩りて至らざる所無し。人君深居高坐して、事に於て自ら裁せず、淵默寡言にして、人に於て叩繫せず、功能の實を察せずして毀譽の偏を信じ、恒久の情を規らずして一旦の事を取れば、則ち竟に其の實を得べからず。故に往古の人君は、躬ら萬機を覽て以て其の事物を察し、日に群臣に接して以て其の人材を考ふ。大臣以下各々職を奉じ言を陳べ、勤忠隱さず。猶ほ未だ嘗て其の差無くんばあらず。乾靈の神、其の登庸する每に、必ず衆議を以てし、試任を以てす。幷せ鑒みるべきなり。抑も任使の道又易からず。親しめば則ち瀆るるの失有り、遠ざくれば則ち塞がるの過ち有り。既に大臣を得れば、則ち其の禮を盡くし、其の制を嚴にし、其の祿を豐かにし、其の位を高くし、事に任じて疑はず。是れ大臣を敬ふなり。守令の如きは、任限を制し、考課を明らかにし、監巡の察を正し、其の禮を明らかにすれば、則ち賢を賢とするの道立つ。近親の如きは、風俗を正し、佞奸を避け、世臣を重んじ、老臣を慰め、親戚の分を明らかにす。是れ親を親とし群臣を體するなり。夫れ其の人を得て用ゐざれば、則ち人才必ず屈す。其の人を用ゐて其の制を致さざれば、則ち佞奸釁を窺ひ、讒者間を得るなり。臣士の登庸、使令の難、豈に偉ならずや。外朝の聖主堯・舜は、既に人を知るを以て難しと爲す。其の登用や、必ず咨りて試みる。皐陶歌ひて舜之を拜し、益昌言を進めて禹之を拜し、周公卜を獻じて成王之を拜するは、大臣を敬ふに非ずや。唐虞の四岳・十二牧、三代の方伯・連帥は、守令を撰ぶに非ずや。文武の聰明齊聖、小大の臣、咸な忠良を懷くは、則ち漸染の補を待つこと、又切ならずや。況んや百官庶司の任、各々其の心を盡さざる無きをや。幷せ按ずべきなり。或ひと疑ふ、近臣を知るは易く、遠臣を知るは難し、と。愚謂へらく、近臣は知り難く、遠臣は知り易し。夫れ遠臣は人君の威を懼れ、大臣の命を重んず。故に其の爲す所大いには違はず。近臣は君の親しきに褻れ、己の近きに慢り、大明の間を察し、大臣の意に阿り、以て其の膚を蠱し、其の心を蠱す。其の害太だ深し。人君の暴昏、振古より近親の邪惡に繫らざる無し。是れ近臣は知り易きに非ずや。近臣は君自ら之を試む。其の及ぶ所最も狹し。遠臣の如きは、其の友とする所、其の宗とする所、其の學ぶ所、其の爲す所、人人之を毀譽して、而る後に黜陟す。其の索むる所太だ廣し。故に曰く、近臣は難く、遠臣は易しと。或ひと疑ふ、奸讒行はれず、と。愚謂へらく、人君の使令、其の禮を正し、其の制を嚴にし、以て其の道を致し、恒に敎令し、恒に省察すれば、則ち臣竟に其の私を顯すを得ず。若し一任して規らず、命を詳にして省みず、其の譽に從ひて之を試みず、其の功を重んじて之を察せざれば、則ち猶ほ新柱の久しくして朽ち、清水の塞がりて穢るるがごとし。夫れ彼の罪ならんや。
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『中朝事実』武德章・将帥を撰ぶ・節度を授ける高皇產靈尊、更に諸神を會し、當に葦原中國に遣はすべき者を選ぶ。僉曰く、磐裂根裂神の子、磐筒男・磐筒女の生む所の子、經津主神、是れ將に佳からんとす、と。時に天石窟に住む所の神、稜威雄走神の子甕速日神、甕速日神の子熯速日神、熯速日神の子武甕槌神有り。此の神進みて曰く、豈に唯だ經津主神のみ獨り丈夫爲りて、吾は丈夫に非ざる者ならんや、と。其の辭氣慷慨たり。故に卽ち經津主神に配して、葦原中國を平らげしむ、云云。故に大巳貴神、乃ち平國の時に杖つく所の廣矛を以て二神に授けて曰く、吾、此の矛を以て卒に治功有り。天孫若し此の矛を用ゐて國を治めば、必ず當に平安なるべし、と。 謹んで按ずるに、是れ天神の將を撰ぶの義なり。蓋し兵を用ゐるの要は、一に軍將に在り。將は軍の司命、勝敗の源なり。天神三たび群臣を會して、以て此の二將を得、終に其の功を遂ぐ。撰ぶ所任ずる所、共に其の道を得たり。二神平順して、天孫臨降し、以て萬億世の皇系を開く。其の武威、吁、愁かなるかな、懿なるかな。大巳貴の奉る所の廣矛も亦た靈器なり。凡そ兵は律を以て興り、策を以て立ち、器械を以て用を爲す。兵武の字、皆其の器を以てす。況んや中國の初めに瓊矛有り、以て此の洲を成す。天神、以て劒を賚ひ神器に備ふるをや。宜なるかな。二神に血刃せざるの勳有ること。 神武帝東征に、大伴氏の遠祖日臣命、大來目を帥ゐ、將元戎を督し、山を蹈みて行を啓く。 先人曰く、神武天皇東征の日、物部氏の祖道臣命、軍帥と爲る。〔物部氏は恐らく誤りか。大伴氏なり。道臣命は、乃ち日臣命の名なり。〕 謹んで按ずるに、是れ人皇將を撰ぶの始めなり。蓋し將は才以て物を將ゐるに足るの稱、帥は智以て人を帥ゐるの名なり。危急草屯の時、其の用最も將帥に在り。滔滔たる武夫、好謀挫機の精に非ざれば、未だ其の任に中らず。故に將帥の用爲る、必ずしも攻戰を以てせず。折衝屈敵の智を要し、誠信撫敵の實に本づく。其の任重く、其の撰豈に易く得んや。道臣命、殆ど其れ斯くの如きか。上に神武の聖有り、下に賢才の應有り。其の區宇を制し、功業を弘むる所以、利あらざる所無く、成らざる所無きなり。〔以上、將帥を撰ぶ。〕 高皇產靈尊、天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜ひ、以て遣はす。 謹んで按ずるに、是れ天神、將に節刀を授くるの義なり。人皇に及び、景行帝、鉄鉞を以て日本武尊に授く。是れより連綿修飾して、將を立つるの禮有り。凡そ節度は、其の信を示す所以なり。斧鉞は、刑戮を專らにする所以なり。軍旅の制は、私を以てすべからず。人臣又た專制の義無し。故に風聲を四方に樹て、天表を愾む所に著はす。將帥一たび閫外の寄を受くれば、時中の宜しきに適ふ。是に三軍の任此に歸し、其の倚付を二三にすること無し。蓋し將相は天下の師なり。其の才・其の德並び行はれざれば、則ち其の實を得ず。天下安ければ相に注意し、天下危ふければ將に注意す。然れども安きこと常に安からず、一人の齟齬杌隉有れば卽ち轉じて危ふし。人君は無事の日、人才彙集の時に當たりて、其の器を儲け以て急難に備へ、天寵の優を隆くし、懷綏の德を布けば、則ち凡そ事成らざる無し。將に兵を將ゐるもの有り、將を將ゐるもの有り、將相兼任するもの有り。知・信・仁・勇・忠有り。禮將・嚴將有り。然れども其の本は知・仁・勇の三に在り。若し兵を擧げて不逞を討つに、其の撰將を精しくせざれば、則ち自ら傾覆を招き、以て三軍を鏖にす。古來其の任を重んずること、亦た宜ならずや。〔以上、節度を賜ふ。〕
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『中朝事実』神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕
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『中朝事実』神治章・天下を公にする詔と封建の始まり崇神帝四年冬十月庚申朔壬午、詔して曰く、惟れ我が皇祖諸天皇等の宸極に光臨したまへるは、豈に一身の為ならんや。蓋し人神を司り収め、天下を経綸する所以なり。故に能く世々玄功を闡き、時に至徳を流く。今、朕大運を奉承し、黎元を愛育す。何ぞ当に聿に皇祖の跡に遵ひ、永く無窮の祚を保つべき。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭し、並びに天下を安んぜよ、亦可ならずや、と。 謹んで按ずるに、人君大宝を私すれば、則ち天必ず与せず。故に災害並び起こる。帝の天下を公にするの詔は、無窮の祚の因りて成る所以なり。大宝を私す、故に群臣に議せず。天下を公にす、故に爾の忠貞を共にす。大なるかな帝の徳や。宜なるかな外国の朝貢するや。蓋し人君の治道は公私の間に在り。苟くも富貴を以て一身に奉ずれば、則ち佞臣進みて賢良日々に疏し。貴は天子たり、富は四海を有ち、宴安其の心を狂はせ、声色其の耳目を聾瞽にす。此に当りて祖宗黎元の重きを顧みず、群臣諤諤の諫に因らず、殆ど卓爾たること此の間に難し。故に其の謬りは公私の毫差に在りて、其の流れは四海の困窮に至る。天禄の安危、其の機微なるかな。〔以上、治道の要を謂ふ。〕 大物主神及び事代主神、乃ち八十万神を天高市に合せ、帥ゐて以て昇天し、其の誠款の至りを陳ぶ。高皇産霊尊、大物主神に勅して曰く、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝に疏き心有りと謂はん。故に今吾が女三穂津姫を以て汝に配して妻とす。宜しく八十万神を領ゐ、永く皇孫の為に奉り護れ、と。乃ち使して還し降らしむ。 謹んで按ずるに、是れ封建を命ずるの義なり。大物主神は、其の子凡そ百八十一神、以て天下を経営し、百姓大いに其の恩頼を蒙り、其の功甚だ大なり。天孫降臨の時、八十万神を帥ゐて以て昇天し、其の懇款を叩く。故に天神之を封建し、永く皇孫の藩屏と為し、以て皇家を奉り護らしむ。是より大神〔又曰く、大和三輪神なり。〕の孫、大いに此の国に盛んなり。〔事代主神は二男一女を生む。天日方・奇日方命、橿原朝に食国政申大夫と為る。媛蹈鞴五十鈴媛命は正后と為る。乃ち綏靖帝の母なり。〕 景行帝四年、七十余の子、皆国郡に封ず。各々其の国の如し。故に今の時、諸国の別と謂ふ者は、即ち其の別王の苗裔なり。〔天皇の男女、前後并せて八十子。然れども今七十子に封建す。〕 五十五年春二月戊子朔壬戌、彦狭島王を以て東山道十五国の都督に拝す。是れ豊城命の孫なり。然れども早世す。五十六年秋八月、御諸別王に詔して曰く、汝が父彦狭島王、任所に向かふを得ずして早く薨ず。故に汝専ら東国を領めよ、と。是を以て御諸別王、天皇の命を承け、且つ父の業を成さんと欲し、則ち行きて之を治む。早く善政を得たり。是を以て東は久しく無事なり。是に由りて其の子孫、今に東国に在り。 謹んで按ずるに、是れ人皇封建の始めなり。宗子を封建して以て王室を護るは、治道の要なり。彦狭島王の東山道都督に拝せらるるは、乃ち東方の伯なり。此の時、封建方伯の制有りて、以て藩屏として中国を持維するなり。〔以上、封建の制を謂ふ。〕