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中朝事実 / 禮儀章・雄略帝の顧命と諒闇の礼

雄略帝二十三年秋八月庚午朔丙子。天皇疾彌甚。與百寮辭訣。握手歔欷。崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰。方今區宇一家。烟火萬里。百姓艾安。四夷賓服。此又天意欲寧區夏。所以小心勵己。日愼一日。蓋爲百姓故也。臣連伴造。每日朝參。國司・郡司隨時朝集。何不罄竭心府。誠勅慇懃。義乃君臣。情兼父子。庶藉臣連智力。內外歡心。欲令普天之下永保安樂。不謂遘疾彌留。至於大漸。此乃人生常分。何足言及。但朝野衣冠。未得鮮麗。敎化政刑猶未盡善。興言念此。唯以留恨。今年踰若干。不復稱天。筋力精神一時勞竭。如此之事本非爲。止欲安養百姓。所以致此。生子孫誰不屬念。旣爲天下。事須割情。今星川王。心懷悖惡。行闕支干。古人有言。知臣莫若君。知子莫若父。縱使星川得志。共治家國。必當戮辱遍於臣連。酷毒流於民庶。夫惡子孫已爲百姓所憚。好子孫足堪負荷大業。此雖朕家事。理不容隱。大連等民部廣大充盈於國。皇太子地居上嗣。仁孝著聞。以其行業堪成朕志。以此共治天下。朕瞑目何所復恨。 謹按。是顧命之禮也。凡人君崩于正殿者。禮之正也。況切切顧命。專以天下爲任。以百姓爲心。以死生爲常。歸功於大臣。爲億兆發其子之惡。以垂戒於後嗣。其義深哉。蓋死生之際者。人倫之所甚重也。故天神臨訣。以有拳拳之神勅。今帝垂絕之言。經遠保世之謀及此。以不崩於婦人女子之手。讀此章以至此。則未嘗不措卷歎之。吁。帝所以爲雄略。宜哉。〔以上謂顧命之禮。〕 神武帝七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時皇太子孝性純深。悲慕無已。特留心於哀葬之事焉。其庶兄手研耳命。行年已長。久歷朝機。故亦委事而親之。然其王立操曆懷。本乖仁義。遂以諒闇之際。盛福自由。苞藏禍心。圖害二弟。 謹按。是諒闇之禮也。夫父子者天性也。臨終者永訣也。以天性之親至永訣之期。是哀葬之情所以不得已也。以不得已之誠從其情。則無不至。故聖人立其制。中其過不及。是禮所以由行之也。此時未有喪哀之制。然神聖旣建其極。則此禮亦可類推之。故史官以諒闇書之也。手研耳命爲其貪。忘父子之親。失兄弟之友。竟至亡其身。不孝不義之至。父旣措之。天旣顚之。可不鑒乎。此後至孝德帝。葬哀之禮始定。及文武帝大定。天下皆因焉。蓋喪服之禮者。愼終之道。子弟所可盡其實。悉在此。可盡而不盡之者。孰不可忍也。然俗不正。敎不詳。則皆事於苟且。貴於異敎。各任其意。遂不得其中。故往古神聖所建之法。亦混淆以不明。豈不歎乎。〔以上謂大喪之禮。〕

新字:雄略帝二十三年秋八月庚午朔丙子。天皇疾弥甚。与百寮辞訣。握手歔欷。崩于大殿。遺詔於大伴室屋大連与東漢掬直曰。方今区宇一家。烟火万里。百姓艾安。四夷賓服。此又天意欲寧区夏。所以小心励己。日慎一日。蓋為百姓故也。臣連伴造。毎日朝参。国司・郡司随時朝集。何不罄竭心府。誠勅慇懃。義乃君臣。情兼父子。庶藉臣連智力。内外歓心。欲令普天之下永保安楽。不謂遘疾弥留。至於大漸。此乃人生常分。何足言及。但朝野衣冠。未得鮮麗。教化政刑猶未尽善。興言念此。唯以留恨。今年踰若干。不復称天。筋力精神一時労竭。如此之事本非為。止欲安養百姓。所以致此。生子孫誰不属念。既為天下。事須割情。今星川王。心懐悖悪。行闕支干。古人有言。知臣莫若君。知子莫若父。縦使星川得志。共治家国。必当戮辱遍於臣連。酷毒流於民庶。夫悪子孫已為百姓所憚。好子孫足堪負荷大業。此雖朕家事。理不容隠。大連等民部広大充盈於国。皇太子地居上嗣。仁孝著聞。以其行業堪成朕志。以此共治天下。朕瞑目何所復恨。 謹按。是顧命之礼也。凡人君崩于正殿者。礼之正也。況切切顧命。専以天下為任。以百姓為心。以死生為常。帰功於大臣。為億兆発其子之悪。以垂戒於後嗣。其義深哉。蓋死生之際者。人倫之所甚重也。故天神臨訣。以有拳拳之神勅。今帝垂絶之言。経遠保世之謀及此。以不崩於婦人女子之手。読此章以至此。則未嘗不措巻嘆之。吁。帝所以為雄略。宜哉。〔以上謂顧命之礼。〕 神武帝七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時皇太子孝性純深。悲慕無已。特留心於哀葬之事焉。其庶兄手研耳命。行年已長。久歴朝機。故亦委事而親之。然其王立操暦懐。本乖仁義。遂以諒闇之際。盛福自由。苞蔵禍心。図害二弟。 謹按。是諒闇之礼也。夫父子者天性也。臨終者永訣也。以天性之親至永訣之期。是哀葬之情所以不得已也。以不得已之誠従其情。則無不至。故聖人立其制。中其過不及。是礼所以由行之也。此時未有喪哀之制。然神聖既建其極。則此礼亦可類推之。故史官以諒闇書之也。手研耳命為其貪。忘父子之親。失兄弟之友。竟至亡其身。不孝不義之至。父既措之。天既顛之。可不鑒乎。此後至孝徳帝。葬哀之礼始定。及文武帝大定。天下皆因焉。蓋喪服之礼者。慎終之道。子弟所可尽其実。悉在此。可尽而不尽之者。孰不可忍也。然俗不正。教不詳。則皆事於苟且。貴於異教。各任其意。遂不得其中。故往古神聖所建之法。亦混淆以不明。豈不嘆乎。〔以上謂大喪之礼。〕

書き下し

雄略帝二十三年秋八月庚午朔丙子、天皇疾彌いよ甚し。百寮と辭訣し、手を握り歔欷す。大殿に崩ず。遺詔して大伴室屋大連と東漢掬直とに曰く、「方今、區宇一家、烟火萬里、百姓艾安、四夷賓服す。此れ又天意の區夏を寧んぜんと欲するなり。小心己を勵まし、日に愼むこと一日、蓋し百姓の爲の故なり。臣・連・伴造は、每日朝參し、國司・郡司は時に隨ひ朝集す。何ぞ心府を罄竭し、誠を勅ること慇懃ならざらん。義は乃ち君臣、情は父子を兼ぬ。庶はくは臣・連の智力に藉り、内外歡心し、普天の下をして永く安樂を保たしめんと欲す。謂はざりき、疾を遘し彌留し、大漸に至らんとは。此れ乃ち人生の常分、何ぞ言及するに足らん。但し朝野の衣冠、未だ鮮麗なるを得ず。敎化政刑、猶ほ未だ善を盡くさず。興言して此を念ふに、唯だ以て恨みを留む。今年若干を踰え、復た天を稱せず。筋力精神、一時に勞竭す。此の如きの事、本より爲にするに非ず。止だ百姓を安養せんと欲す。此を致す所以なり。子孫を生むは誰か念ひを屬せざらん。既に天下の爲なれば、事須く情を割くべし。今、星川王、心に悖惡を懷き、行ひ支干を闕く。古人言へる有り、臣を知るは君に若くは莫く、子を知るは父に若くは莫し、と。縱使ひ星川志を得て、共に家國を治めば、必ず當に戮辱は臣・連に遍く、酷毒は民庶に流れん。夫れ惡しき子孫は已に百姓の憚る所と爲る。好き子孫は以て大業を負荷するに堪ふ。此れ朕が家事と雖も、理として隱すを容れず。大連等の民部は、廣大にして國に充盈す。皇太子は地、上嗣に居り、仁孝著聞す。其の行業、以て朕が志を成すに堪ふ。此れを以て共に天下を治めよ。朕瞑目するも何ぞ復た恨む所あらん」と。 謹んで按ずるに、是れ顧命の禮なり。凡そ人君、正殿に崩ずるは、禮の正なり。況んや切切たる顧命は、專ら天下を以て任と爲し、百姓を以て心と爲し、死生を以て常と爲し、功を大臣に歸し、億兆の爲に其の子の惡を發き、以て戒めを後嗣に垂る。其の義深し。蓋し死生の際は、人倫の甚だ重んずる所なり。故に天神臨訣に、拳拳たる神勅有り。今帝垂絶の言、經遠保世の謀此に及ぶ。婦人女子の手に崩ぜざる所以なり。此の章を讀みて此に至れば、未だ嘗て卷を措きて之を歎ぜずんばあらず。吁、帝の雄略たる所以、宜なるかな。〔以上、顧命の禮を謂ふ。〕 神武帝七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇、橿原宮に崩ず。時に皇太子、孝性純深にして、悲慕已まず。特に哀葬の事に心を留む。其の庶兄手研耳命、行年已に長じ、久しく朝機を歷たり。故に亦事を委ねて之を親しむ。然れども其の王、操を立て曆を懷くこと、本より仁義に乖く。遂に諒闇の際を以て、盛福自由、禍心を苞藏し、二弟を害せんと圖る。 謹んで按ずるに、是れ諒闇の禮なり。夫れ父子は天性なり。臨終は永訣なり。天性の親を以て永訣の期に至る。是れ哀葬の情、已むを得ざる所以なり。已むを得ざるの誠を以て其の情に從へば、則ち至らざる無し。故に聖人其の制を立て、其の過不及を中す。是れ禮の由り行はるる所以なり。此の時未だ喪哀の制有らず。然れども神聖既に其の極を建つれば、則ち此の禮も亦類推すべし。故に史官、諒闇を以て之を書するなり。手研耳命、其の貪を爲し、父子の親を忘れ、兄弟の友を失ひ、竟に其の身を亡ぼすに至る。不孝不義の至りなり。父既に之を措き、天既に之を顚す。鑒みざるべけんや。此の後孝德帝に至り、葬哀の禮始めて定まり、文武帝に及び大いに定まり、天下皆焉に因る。蓋し喪服の禮は、終りを愼むの道、子弟の其の實を盡くすべき所、悉く此に在り。盡くすべくして之を盡くさざるは、孰れか忍ぶべからざらん。然れども俗正しからず、敎詳らかならざれば、則ち皆苟且を事とし、異敎を貴び、各々其の意に任せ、遂に其の中を得ず。故に往古神聖の建つる所の法も、亦混淆して明らかならず。豈に歎かざらんや。〔以上、大喪の禮を謂ふ。〕

現代語訳

雄略帝二十三年の秋八月庚午朔丙子、天皇の病はますます重くなった。百官と別れを告げ、手を握ってすすり泣いた。大殿で崩御された。大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔していわれた。「今、国土は一家のようであり、煙はあまねく立ち上り、民は安らかに治まり、四方の異族も服している。これは天意が国を安んじようとするものである。小心にみずから励み、日ごとに慎みを重ねたのは、民のためであった。臣・連・伴造は毎日朝廷に参り、国司・郡司は時に応じて集まる。どうして心を尽くし、誠を込めて懇ろに戒めないことがあろうか。義は君臣、情は父子を兼ねる。願わくは臣・連の智力に頼り、内外が喜び、普天の下が永く安楽を保つようにしたい。思いもよらず病にかかり長引き、死に至ろうとは。これは人生の常で、言うに足らない。ただ朝野の衣冠はまだ立派にそろわず、教化・政刑もまだ善を尽くしていない。その思いに至ると、ただ恨みを残すばかりである。今年は若干の歳を越え、もはや天を称さない。筋力も精神も一時に疲れ果てた。このようなことは、もとより自分のためではなく、ただ民を安んじ養おうとしたため、ここに至ったのである。子孫を生めば誰が思いを寄せないことがあろう。だが天下のためである以上、情を断たねばならない。今、星川王は心に悖悪を抱き、行いは干支(人の道)を欠いている。昔の人は『臣を知るは君に若くはなく、子を知るは父に若くはない』と言った。たとえ星川が志を得て、ともに国家を治めれば、必ず殺戮と辱めは臣・連に及び、むごい毒は民に流れるだろう。悪い子孫は民に忌まれ、良い子孫は大業を担うに堪える。これは朕の家の事ではあるが、道理として隠すことはできない。大連らの民部は広大で国に満ちている。皇太子は上嗣の位置にあり、仁孝は世に聞こえている。その行いと業績は朕の志を成すに堪える。これを以てともに天下を治めよ。朕は目を閉じても何の恨みもない。」 素行はこう考える。これは顧命の礼である。君主が正殿で崩御するのは、礼の正しい形である。まして切々たる顧命は、もっぱら天下を任とし、民を心とし、死生を常とし、功を大臣に帰し、億兆のためにその子の悪を明かし、戒めを後継ぎに残した。その義は深い。思うに死生の際は人倫のきわめて重んじるところである。だから天神も訣別にあたり、丁寧な神勅を下した。いま帝の絶え入る間際の言葉にも、遠くを経営し世を保つ謀りが及んでいる。婦人女子の手の中で崩じなかった所以である。この章を読んでここに至ると、いつも巻を置いて嘆かずにいられない。ああ、帝が雄略と称されるのももっともである。〔以上、顧命の礼を述べる。〕 神武帝七十六年の春三月甲午朔甲辰、天皇は橿原宮に崩じた。そのとき皇太子は、孝心が純粋で深く、悲しみ慕うことがやまなかった。特に喪葬のことに心を留めた。庶兄の手研耳命は年齢がすでに長じ、久しく朝廷の機務を経ていた。そこで政事を委ねて親しんだ。しかしその王は、もともと仁義に背く人柄であった。ついに諒闇(喪中)のときをよいことに思うままに振る舞い、禍心を包み隠して、二人の弟を害そうとした。 素行はこう考える。これは諒闇の礼である。父子は天性である。臨終は永訣である。天性の親しみが永訣の時に至る。これが哀葬の情がやむを得ない理由である。やむを得ない誠をもって情に従えば、至らないところはない。そこで聖人は制度を立て、その過不足を中庸に合わせた。これが礼が行われる理由である。この時はまだ喪の制度はなかった。しかし神聖がすでにその極致を建てた以上、この礼も類推できる。だから史官は諒闇として書いたのである。手研耳命は貪りのために、父子の親を忘れ、兄弟の友愛を失い、ついに身を滅ぼすに至った。不孝不義の極みである。父がすでにこれを措き、天がすでにこれを倒した。鑑みずにいられようか。この後、孝徳帝に至って葬哀の礼が初めて定まり、文武帝に及んで大いに定まり、天下はみなこれに従った。喪服の礼は終わりを慎む道であり、子弟がその実を尽くすべきことのすべてがここにある。尽くせるのに尽くさないことは、誰にも耐えがたい。しかし風俗が正しくなく、教えが詳しくなければ、みな一時しのぎに流れ、異教を貴び、各自の意に任せ、ついに中庸を得ない。だから昔の神聖が建てた法も、混じって不明になる。嘆かずにいられようか。〔以上、大喪の礼を述べる。〕

解説

雄略帝の遺詔と、神武帝の崩御の際に庶兄が反逆を図った記述を引き、素行は臨終の言葉と喪の礼の意味を論じます。死に臨んで自らの子の悪を隠さず、民のために後継を託した姿を称えるのは素行の評価です。事業承継の場面でも、私情を抑えて後継を選び、その理由を明らかにして次の世代に託す姿勢や、移行期こそ不正が入りやすいという教訓は、現代の組織にも通じます。
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人生を、一行の式にしてみた。

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この章句が説くこと

顧命遺詔諒闇喪葬後継手研耳命

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