中朝事実 / 神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず
成務帝四年春二月丙寅朔。詔之曰。我先皇大足彥天皇。聰明神武。膺籙受圖。治天順人。撥賊反正。德伴覆燾。道協造化。是以普天率土莫不王臣。禀氣懷靈。何非得處。今朕嗣踐寳祚。夙夜競惕。然黎元蠢爾。不悛野心。是國郡無君長。縣邑無首渠者焉。自今以後。國郡立長。縣邑置首。卽取當國之幹了者。任其國郡之首長。是爲中區之藩屏也。 五年秋九月。令諸國。以國郡立造長。縣邑置稻置。並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣。隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱。南北爲日橫。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 先人曰。國造乃國司名。後改云守也。聖武天皇天平寳字二年。勅諸國司。以四箇年爲任限。寳龜十一年。勅太宰府。任限爲五箇年。 謹按。是郡縣於天下之始也。至帝始定封境。制國郡。立造長。置稻置。是乃郡縣之制也。自是歷代因循。國有守·介·掾·目·及郡司·大領·少領·主帳等。邊要之地有帥·大少貳·監·典·將軍·軍監·軍曹·按察等。以任限考課。勘公文黜陟。終王室無封建之義。夫封建者。封侯王於天下。以爲王家之藩屏。行巡狩述職之禮。爲朝覲會同之儀也。郡縣者不封侯公於邦國。立國郡之司。以任限交替。以租稅收公廨。分賜諸子功臣也。竊按。欲平天下者。先治其國欲治其國者。先齊其家。家聚爲邑縣。邑縣聚爲郡。郡聚爲國。天下者郡之大集也。故封建郡縣者。天下之治法也。聖人治天下也。量其勢立其制。隨其義詳其禮。封建亦得之。郡縣亦得之。暗主於天下也反之。故封建亦失之。郡縣亦失之。然其法未嘗無可不可。愚謂。封建者。如公天下而私天下。如世王侯而害王侯。如利百姓而毒百姓。如護王室而敵王室。上雖有政令之正。下必存跋扈之志。是悉不可得其人。一封之則天子速不得變之。執政直不得規之矣。如郡縣異是。有任限。有交替。有黜陟。有輔佐。有監察。易移其任。易規其過。上雖無政敎之化。下無尾大不掉之失。故撰人以任。是公天下也。王公坐食其祿。自無據險之暴。是世王公也。恐罪不逞欲。志遷勵吏務。是利百姓也。土地辟人民庶。是護王室也。二者可不可如此。而行之在天下之勢。中國草昧之時。民各聚結凌轢。或恐其勇悍。或服其姦計。或懷其惠施。以屬之立其黨。自定封境。相屯既久。天孫降臨。亦不易民而治。故封建八十萬神。是不得已之勢也。其後子孫漸微。而帝得行郡縣之制。是乃天下之勢也。凡封建一行。則難爲郡縣。當時郡縣大行。王統連綿。公室不絕。可幷按。蓋考外朝之制。自上古至三王。皆以封建。郡縣者暴秦之所定。李斯之所奏也。魏曹元首。晉陸士衡。是於封建。唐李百藥·柳宗元是於郡縣。二說之可否。諸儒不一決。然以封建爲公天下。以郡縣爲私天下。且以暴主定之二世而滅爲凶例。今按。如郡縣非秦之暴强。不可得挫一時之侯王。所其制雖非古法。尤得治道之要。李斯所奏。始皇所行。其實私天下也。故其制不明。其法不正。遂爲亂賊之基。是宗元所謂失在於政不在於制也。〔以上。論郡縣之制。〕
新字:成務帝四年春二月丙寅朔。詔之曰。我先皇大足彦天皇。聰明神武。膺籙受図。治天順人。撥賊反正。徳伴覆燾。道協造化。是以普天率土莫不王臣。禀気懐霊。何非得処。今朕嗣践宝祚。夙夜競惕。然黎元蠢爾。不悛野心。是国郡無君長。県邑無首渠者焉。自今以後。国郡立長。県邑置首。即取当国之幹了者。任其国郡之首長。是為中区之藩屏也。 五年秋九月。令諸国。以国郡立造長。県邑置稲置。並賜楯矛以為表。則隔山河而分国県。随阡陌以定邑里。因以東西為日縦。南北為日横。山陽曰影面。山陰曰背面。是以百姓安居。天下無事焉。 先人曰。国造乃国司名。後改云守也。聖武天皇天平宝字二年。勅諸国司。以四箇年為任限。宝亀十一年。勅太宰府。任限為五箇年。 謹按。是郡県於天下之始也。至帝始定封境。制国郡。立造長。置稲置。是乃郡県之制也。自是歴代因循。国有守·介·掾·目·及郡司·大領·少領·主帳等。辺要之地有帥·大少貳·監·典·将軍·軍監·軍曹·按察等。以任限考課。勘公文黜陟。終王室無封建之義。夫封建者。封侯王於天下。以為王家之藩屏。行巡狩述職之礼。為朝覲会同之儀也。郡県者不封侯公於邦国。立国郡之司。以任限交替。以租税収公廨。分賜諸子功臣也。窃按。欲平天下者。先治其国欲治其国者。先斉其家。家聚為邑県。邑県聚為郡。郡聚為国。天下者郡之大集也。故封建郡県者。天下之治法也。聖人治天下也。量其勢立其制。随其義詳其礼。封建亦得之。郡県亦得之。暗主於天下也反之。故封建亦失之。郡県亦失之。然其法未嘗無可不可。愚謂。封建者。如公天下而私天下。如世王侯而害王侯。如利百姓而毒百姓。如護王室而敵王室。上雖有政令之正。下必存跋扈之志。是悉不可得其人。一封之則天子速不得変之。執政直不得規之矣。如郡県異是。有任限。有交替。有黜陟。有輔佐。有監察。易移其任。易規其過。上雖無政教之化。下無尾大不掉之失。故撰人以任。是公天下也。王公坐食其禄。自無拠険之暴。是世王公也。恐罪不逞欲。志遷励吏務。是利百姓也。土地辟人民庶。是護王室也。二者可不可如此。而行之在天下之勢。中国草昧之時。民各聚結凌轢。或恐其勇悍。或服其姦計。或懐其恵施。以属之立其党。自定封境。相屯既久。天孫降臨。亦不易民而治。故封建八十万神。是不得已之勢也。其後子孫漸微。而帝得行郡県之制。是乃天下之勢也。凡封建一行。則難為郡県。当時郡県大行。王統連綿。公室不絶。可幷按。蓋考外朝之制。自上古至三王。皆以封建。郡県者暴秦之所定。李斯之所奏也。魏曹元首。晋陸士衡。是於封建。唐李百薬·柳宗元是於郡県。二説之可否。諸儒不一決。然以封建為公天下。以郡県為私天下。且以暴主定之二世而滅為凶例。今按。如郡県非秦之暴強。不可得挫一時之侯王。所其制雖非古法。尤得治道之要。李斯所奏。始皇所行。其実私天下也。故其制不明。其法不正。遂為乱賊之基。是宗元所謂失在於政不在於制也。〔以上。論郡県之制。〕
書き下し
成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕
現代語訳
成務天皇の四年春二月一日、詔して言った。「わが先の皇(景行天皇)は、聡明で神のように武勇にあふれ、天命を受けて、天を治め人に順い、賊を払い正しさに返し、徳は天地が万物を覆い育てるのに等しく、道は造化に合っていた。そのため天のもとあまねく、地のはてまで、王の臣でないものはなく、気を受け霊を懐くもので、所を得ないものがあろうか。いま私は皇位を継いで、朝夕に恐れ慎んでいる。しかし民は愚かに騒いで野心を改めない。これは国や郡に君長がなく、県や邑に首(おびと)がいないためである。今から後、国や郡に長を立て、県や邑に首を置け。その国で有能な者を選び、その国や郡の首長に任命せよ。これを国の藩屏としよう」。 五年秋九月、諸国に命じて、国や郡に造長を立て、県や邑に稲置を置かせた。いずれも楯と矛を賜って印とした。山や川を隔てて国や県を分け、田の畦道に従って邑や里を定めた。そして東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南を影面といい、山の北を背面といった。こうして百姓は安らかに住み、天下は無事であった。 先人(北畠親房)は言う。国造は国司の名である。後に改めて守という。聖武天皇の天平宝字二年、諸国司に勅して、任期を四年とした。宝亀十一年、太宰府に勅して、任期を五年とした、と。 素行はこう考える。これが天下に郡県を行った始まりである。成務天皇に至って初めて境界を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置いた。これが郡県の制である。それ以来、歴代がこれを踏襲し、国には守・介・掾・目、そして郡司の大領・少領・主帳などがいる。辺境の要地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察などがいる。任期と考課によって、公文を調べて官吏を降格・昇進させる。ついに王室には封建の義はなかった。封建とは、侯王を天下に封じて王家の藩屏とし、巡狩や述職の礼を行い、朝覲や会同の儀を行うことである。郡県とは、侯や公を国に封じず、国や郡の司を立て、任期で交替させ、租税で役所の費用を賄い、諸子や功臣に分け与えることである。私がひそかに考えるに、天下を平らげようとする者は、まずその国を治める。その国を治めようとする者は、まずその家を整える。家が集まって邑や県となり、邑や県が集まって郡となり、郡が集まって国となる。天下は郡の大きな集まりである。だから封建と郡県は、天下を治める法である。聖人が天下を治める時は、その勢いを量って制度を立て、その義に従って礼を詳しくする。封建もうまくゆき、郡県もうまくゆく。暗い君主が天下を治める場合はこれと反対である。封建も失敗し、郡県も失敗する。しかしその法には、可と不可がないわけではない。私が思うに、封建は、天下を公のものにするようで天下を私物にし、王侯を世襲させるようで王侯を害し、百姓を利するようで百姓を苦しめ、王室を護るようで王室に敵対する。上に正しい政令があっても、下には必ず跋扈の志が生じる。すべてその人を得ることはできない。一度封じれば、天子はすぐには変えられず、執政もただちに正せない。郡県はこれと異なる。任期があり、交替があり、降格昇進があり、補佐があり、監察がある。その任を移しやすく、その過ちを正しやすい。上に政教の感化がなくても、下に尾が大きすぎて振れなくなる(末端が強大になり制御できなくなる)失敗がない。だから人を選んで任じるのは、天下を公にすることである。王や公は座して禄を食み、自ら険しい所に拠る暴を行わないのは、王や公を世襲させることである。罪を恐れて欲を逞しくせず、志を転じて役人の務めに励むのは、百姓を利することである。土地が開け人民が増えるのは、王室を護ることである。二つの可と不可はこのようである。そして、どちらを行うかは天下の勢いによる。中国(日本)が草創の混沌の時、民はそれぞれ集まって結び、互いに凌ぎ合った。その勇猛さを恐れ、その悪賢さに服し、その恵みを慕い、従って徒党を立てた。自ら境界を定め、互いに駐屯して久しかった。天孫が降臨しても、民を替えずに治めた。だから八十万の神を封建した。これはやむを得ない勢いであった。その後、子孫がしだいに衰え、帝は郡県の制を行えた。これが天下の勢いである。そもそも封建が一度行われると、郡県にするのは難しい。当時郡県が大いに行われて、王統が連綿と続き、公室が絶えなかったことは、併せて考えるべきである。外朝の制度を考えるに、上古から三王の時代まで、みな封建であった。郡県は暴虐な秦が定めたもので、李斯が上奏したものである。魏の曹元首、晋の陸士衡は封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は郡県を是とした。二説の可否は、諸儒の間でも定まらない。しかし封建を公天下とし、郡県を私天下とし、かつ暴君が定めて二世で滅んだことを凶例とする。今考えるに、郡県は秦の暴虐な強さでなければ、当時の侯王を一時に挫くことはできなかった。その制度は古法ではないが、治道の要をもっとも得ている。李斯の奏上、始皇の行いは、実際は天下を私物にするものだった。だからその制度は不明確で、その法は正しくなかった。ついに乱賊の基となった。これは柳宗元のいう「失は政にあって制にない」ということである。(以上、郡県の制を論ずる。)
解説

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『中朝事実』神治章・民の長を撰ぶ重みと治道の要天照太神、因りて天邑君を定む。即ち其の稲種を以て始めて天狭田及び長田に殖う。其の秋、垂穎八握にして、莫莫然として甚だ快し。 成務帝五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。百姓安居し、天下無事なり。 謹んで按ずるに、是れ天人、民の長を建つるの始めなり。凡そ物相聚まれば、未だ嘗て長有りて以て統べざるはあらざるなり。鳥獣の群にも必ず其の先有り。況んや其の人をや。民に其の業有るをや。業には必ず教有り。人には必ず欲有り。其の教を知らざれば、則ち百穀時に違ひ、稼穡節を失ひて、民恒産を得ず。其の欲を制せざれば、則ち闘諍相起こり、獄訟日々に盛んにして、民は以て死亡に至る。故に神の霊、既に邑君有り、以て百穀を播時す。後世豈に忽せにすべけんや。成務帝、始めて国郡を分ち、封域を定む。造長は国郡を主り、稲置は県邑を司る。宜なるかな、百姓安居し、天下無事なること。夫れ天、烝民を生めども、自ら治むる能はず。遂に君有り。君万民を統ぶれども、独り理むる能はず。之を百官に付す。百官の理むる所は、其の揆惟れ万にして、其の繋る所は悉く民に在り。然れば乃ち百官の設けは、民の為に非ずや。人君の重きは、民の為に非ずや。既に天の民の為に己を立つるを知れば、則ち民を重んずるを以て先務と為さざる莫し。民を重んずるは、必ず民の長を撰ぶを重んずるに在り。人其の人に非ざれば、則ち官明らかならず。官明らかならざれば、則ち民情致すべからず。民情塞がれば、則ち民の長に非ざるなり。後世、民安く国豊かなるを得し者は、其の人を得しなり。民苦しみ国衰ふる有る者は、其の人を得ざるなり。故に郡主県令を軽んずるは、是れ民を軽んずるなり。民を軽んずるは、是れ天下国家を軽んずるなり。天下国家を軽んずるは、乾霊の国を授けたまふ徳に背き、天孫の統を垂れたまふ基を廃するに非ずや。四方嘉靖の休、万国咸寧の化は、其の機、端に此に在るなり。〔以上、民の長を建つ。〕 以上、治道の要を論ず。愚謂ふ、天下の治道、古今の論多岐なり。人君之に臨むに、未だ嘗て亡羊の失無くんばあらず。夫れ天下の本は国家に在り、国家の本は民に在り、民の本は君に在り。君明らかなれば則ち民安く、民安ければ則ち国治まり家斉ふ。国家治まり斉へば、則ち天下平らかなり。国家を治むるの道は、封建と郡県とに在り。侯王に封建すれば、則ち親を親しみ賢を賢とし、其の邦に因り、其の卿に命じ、方伯を建て、三監を立つ。天子巡狩して、礼を規し俗を観、黜陟の政を明らかにす。諸侯朝聘して、王室に勤め正朔を受け、退きては顔を違へざること咫尺の敬を存す。故に宗子は惟れ城、侯王は惟れ藩なり。郡県を以て守令に命ずれば、則ち任限を定め、吏務を察し、考課を明らかにし、賞罰を正し、按巡の察使を以て、其の土地人民の実を監す。然れば乃ち共に国家を維持し、大宝の祚、竟に傾くべからず。是れ国家治まりて後に天下平らかなるなり。凡そ人君の尊、下民の賤、九重の遠、市井の卑、若し軽んじて之を遠ざくれば、則ち其の阻つること猶ほ天壌の杳かなるがごとし。心誠に之を求むれば、猶ほ天の地を覆ひ、日月の万物を照らすがごとく、甚だ近くして掩ふべからざるなり。之を求むるの道は、養ふを以て先と為す。物は必ず養有り。草木鳥獣に水土羽毛枝葉有り、皆然り。況んや民をや。衣食給らざれば、則ち恒心無し。恒心無ければ、則ち刑罰に陥る。是れ人君の忍ぶべき道に非ず。養ふの道は、経界を定め、産業を考へ、農家を具へ、而る後に賦斂を正すに在り。既に庶く既に富めば、則ち教を以て本とす。衣食足りて教へざれば、則ち民又恒心を失ふ。教ふるの道は、人倫を秩し、風俗を正し、其の機を抑揚し、其の志を勧懲し、利を利とし楽を楽しむを以てするに在り。専ら愛すれば則ち情を縦にし欲を逞しくして、業を廃するを知らず。専ら戒むれば則ち民免れて恥無し。養教相持して民安し。然れども又天地常無く、民必ず幸否有り。故に其の備へを無事に設け、以て其の害を除き、窮民を救ひ、賑恤に周くす。否ざれば乃ち百姓必ず溝壑に転ぜん。人君荒政の設け、年穀の祈りは、是れ其の誠を尽くす所以なり。之を養ひ之を教ふるに、人君は一人の眇なるを以て、豈に天下の衆に及ばんや。故に其の長を建つ。長を建つるの道は、民間に保伍を立て、以て親しく之を察す。其の争訴論事は皆先づ焉に付し、而して之を規し之を和し、其の諍獄の機を防ぎ、背教の萌を折く。其の止むを得ざるに及びては、下吏之を計り、守令之を制す。伍には必ず長有り、村里には必ず老有り。之を郡県に総べ、諸国司に轄らしむ。是れ乃ち長を建つるの道なり。然れども其の議を致さず、其の道を尽くさざれば、則ち唯だ虚名にして実無し。古来、年限を定め、黜陟を明らかにするは、皆民の長を重んずるなり。民安ければ則ち国平らかなり。是れ民の国家に繋る所以なり。而して人君、天下を以て大宝と為し、拳拳として服膺し、恒に守るべきの道を致し、失ふべきの過ちを顧み、神聖開端の誠に因りて以て之を拡充すれば、則ち天壌と窮り無し。是れ治道の要なり。大都、人君の志に本づく所以なり。
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『中朝事実』神治章・天下を公にする詔と封建の始まり崇神帝四年冬十月庚申朔壬午、詔して曰く、惟れ我が皇祖諸天皇等の宸極に光臨したまへるは、豈に一身の為ならんや。蓋し人神を司り収め、天下を経綸する所以なり。故に能く世々玄功を闡き、時に至徳を流く。今、朕大運を奉承し、黎元を愛育す。何ぞ当に聿に皇祖の跡に遵ひ、永く無窮の祚を保つべき。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭し、並びに天下を安んぜよ、亦可ならずや、と。 謹んで按ずるに、人君大宝を私すれば、則ち天必ず与せず。故に災害並び起こる。帝の天下を公にするの詔は、無窮の祚の因りて成る所以なり。大宝を私す、故に群臣に議せず。天下を公にす、故に爾の忠貞を共にす。大なるかな帝の徳や。宜なるかな外国の朝貢するや。蓋し人君の治道は公私の間に在り。苟くも富貴を以て一身に奉ずれば、則ち佞臣進みて賢良日々に疏し。貴は天子たり、富は四海を有ち、宴安其の心を狂はせ、声色其の耳目を聾瞽にす。此に当りて祖宗黎元の重きを顧みず、群臣諤諤の諫に因らず、殆ど卓爾たること此の間に難し。故に其の謬りは公私の毫差に在りて、其の流れは四海の困窮に至る。天禄の安危、其の機微なるかな。〔以上、治道の要を謂ふ。〕 大物主神及び事代主神、乃ち八十万神を天高市に合せ、帥ゐて以て昇天し、其の誠款の至りを陳ぶ。高皇産霊尊、大物主神に勅して曰く、汝若し国神を以て妻とせば、吾猶ほ汝に疏き心有りと謂はん。故に今吾が女三穂津姫を以て汝に配して妻とす。宜しく八十万神を領ゐ、永く皇孫の為に奉り護れ、と。乃ち使して還し降らしむ。 謹んで按ずるに、是れ封建を命ずるの義なり。大物主神は、其の子凡そ百八十一神、以て天下を経営し、百姓大いに其の恩頼を蒙り、其の功甚だ大なり。天孫降臨の時、八十万神を帥ゐて以て昇天し、其の懇款を叩く。故に天神之を封建し、永く皇孫の藩屏と為し、以て皇家を奉り護らしむ。是より大神〔又曰く、大和三輪神なり。〕の孫、大いに此の国に盛んなり。〔事代主神は二男一女を生む。天日方・奇日方命、橿原朝に食国政申大夫と為る。媛蹈鞴五十鈴媛命は正后と為る。乃ち綏靖帝の母なり。〕 景行帝四年、七十余の子、皆国郡に封ず。各々其の国の如し。故に今の時、諸国の別と謂ふ者は、即ち其の別王の苗裔なり。〔天皇の男女、前後并せて八十子。然れども今七十子に封建す。〕 五十五年春二月戊子朔壬戌、彦狭島王を以て東山道十五国の都督に拝す。是れ豊城命の孫なり。然れども早世す。五十六年秋八月、御諸別王に詔して曰く、汝が父彦狭島王、任所に向かふを得ずして早く薨ず。故に汝専ら東国を領めよ、と。是を以て御諸別王、天皇の命を承け、且つ父の業を成さんと欲し、則ち行きて之を治む。早く善政を得たり。是を以て東は久しく無事なり。是に由りて其の子孫、今に東国に在り。 謹んで按ずるに、是れ人皇封建の始めなり。宗子を封建して以て王室を護るは、治道の要なり。彦狭島王の東山道都督に拝せらるるは、乃ち東方の伯なり。此の時、封建方伯の制有りて、以て藩屏として中国を持維するなり。〔以上、封建の制を謂ふ。〕
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『尚武論』・上古の封建の沿革と屯倉の備え乃ち命じて国造と為す者凡そ八、県王と為す者凡そ三。是の時に当たり、王畿は独り中州の地を有つのみ。国造・県主は頗る其の中に封を受く。其の余の諸国は、唯だ之に正始を与ふるのみ。崇神の世、始めて皇子を封じ、東方を鎮撫せしむ。後、男女の調役を定む。皇子の分封、邦国の貢賦、皆此より始まる。景行丕いに其の緒を承け、以て前烈を揚ぐ。弗庭を四征し、大いに十字を拓く。而して帝の八十余子、封を受くる者七十七人。更に宗室を封じ、東山十五道の都督と為し、犬牙相臨み、天下を統制す。是に於いて国にも亦別有り(所謂別王是れなり)。成務、徳を嗣ぎ、始めて天下を分かち、国郡県邑に各々官長を置く。其の国造と為る者は凡そ九十有四。餘は則ち詳らかに考ふべからず。蓋し猶ほ周に五等の国有るがごとし。上は以て貢職を奉ずるに足り、下は以て祭祀に供するに足る。以て京師を藩輔す。初め垂仁、始めて屯田を置き、称して帝皇の田と為す。猶ほ周人の所謂天子の田のごとし。其の官を屯田司と曰ふ。屯田・屯倉、即ち此に始まる。景行乃ち諸国に田部・屯倉を与へしむ。蓋し古は耕田の業、猶ほ食に足らず、凶年荒歳、最も艱阨多し。是に於いて諸国に勅令して、其の土を制し、其の民を処き、稼穡を務め、畜積を広くし、以て災害に備へしむ。其の制は猶ほ後の義倉のごとし。安閑に延及び、屯倉を西南の諸国に制置すること凡そ十三所。乃ち有司に令して其の田租の事を掌らしむ。是より後、寛閑の野を経理し、膏腴の田を墾闢し、有司に分命して以て其の政を掌らしむること、史に絶えず書す。所謂封建郡県を兼有すとは是れなり。景行の皇子倭武薨ず。因りて式部を定む。曰く、功名を録さんと欲すればなり、と。名代入部、実に此に始まる。厥の後、仁徳、皇后・太子及び諸皇子の為に名代部を定め、皇后の湯沐邑、太子諸王の食封も、亦皆此より始まるなり。清寧、子無く、白髪部・舎人・膳部・靭負等を諸国に置く。武烈・安閑、皆其の故事に循ふ。之を子代入部と謂ふ。蓋し其の子無きを以て之を置く。因りて子代と謂ふ。皇后子無くも亦之を置く。名代・子代、号を殊にして実を同じうするのみ。之を置くの制、其の詳しきは未だ聞かず。亦猶ほ漢の時の陵邑、天下の民と田宅とを徙して陵を守らしむるがごときなり。孝徳の創制立法に至り、国郡県邑に其の君長を廃し、其の禄俸を制す。
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『中朝事実』神知章・四道将軍と大臣・守令の選任崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
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『呻吟語』外篇・治道・郡縣は無定の封建封建は五帝より已に然り。三王は明らかに勢と情とに便ならざるを知るも、用ひざるを得ざるのみ。夏は虞を繼ぐも、諸侯罪無し。安んぞ之を廢するを得ん。湯は桀を放つに、征伐を費やす者十一國、餘は皆な服從す。安んぞ之を廢するを得ん。武は紂を伐つに、期せずして會する者八百、其の會せざる者は、或いは遠く或いは聞かず、亦た三分の二有るの數に在り。安んぞ之を廢するを得ん。六國をして秦を尊びて帝と為さしめば、秦も亦た六國を廢せざらん。他の服するを肯んぜざるに緣り、勢ひ必ず六王を畢へて後に已む。武王の滅を興し絕を繼ぎ、孔子の絕を繼ぎ廢を舉ぐるも、亦た自ら其の先世曾て功德有るに、滅ぶるに及びて、其の罪を以てせざるを之れ言ふのみ。六師の移す所、及び九族の血食する者無きは、必ず其の國を復するを求むと謂ふに非ざるなり。故に封建は必ずしも是ならず、郡縣は必ずしも非ならず。郡縣なる者は、定まり無きの封建なり。封建なる者は、定まり有るの郡縣なり。
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『中朝事実』禮儀章・官を立てる礼と文武の二職神武帝二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦大來目をして畝傍山以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號す。此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す〔珍彥、此に于磐毗故と云ふ。〕。又弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主と爲す。是れ菟田主水部の遠祖なり。弟磯城黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根といふ者を以て葛城國造と爲す。 一書に曰く、此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、是れ功臣を封じ官職を立つるの初めなり。 崇神帝十年秋九月、四道將軍に命ず。 謹んで按ずるに、是れ武官を立つるの初めなり。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ大臣を以て棟梁の臣と爲すなり。成務帝の朝に初めて大臣と號す。仲哀帝の朝に大連の號有り。大臣・大連相並びて天下の政を知る。 成務帝五年秋九月、諸國をして國郡を以て造長を立て、縣邑に稻置を置かしむ。 謹んで按ずるに、是れ國郡守司を立つるの始めなり。初め國造・縣主の號有りて、未だ其の職掌を致さず。此に及び其の器を撰びて以て其の官を授く。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申、始めて冠位十二階を行ふ。孝德帝大化五年春正月、始めて八省百官を置く。 謹んで按ずるに、是れ百官を立つるの始めなり。先に是れ群臣・百寮・諸卿・有司の名有りと雖も、未だ其の職掌を致さず。此に至りて八省百官を置き、始めて群臣の職分定まり、天下其の禮を知る。文武帝に及び、律令を撰び、大いに官位職員を定め、其の後損益相續ぎて、萬世之を襲ひ、以て準據と爲す。蓋し官を立つるは治平の道にして、其の事有れば則ち其の職無くんばあらず、其の職有れば則ち其の官無くんばあらず、其の官有れば則ち其の位無くんばあらず。是れ物有れば必ず則有るなり。既に官を立て位を設くれば、則ち其の道其の禮未だ嘗て之を正さずんばあらず。竊かに按ずるに、官は惟れ百なれども、其の統ぶる所は文武の二職に在り。文は以て禮を守り、武は以て違ひを糺す。故に草業には乃ち武臣を以て其の功を立て、守成には乃ち文臣を以て其の禮を正す。文武互ひに根とし、先後は時を以てし、而して一人を輔佐す。是れ乃ち往古の神聖、經津主神・建雷神を以て諸の不順を平らげしめ、二神に命じて天孫に侍らしめ、且つ天忍日命を先にせし所以なり。故に神武帝、道臣命・饒速日命を封賞し、天種子命・天富命をして以て左右と爲さしめ、歷代因循して此の二職を重んず。夫れ土地有れば則ち其の司を立て、人民有れば則ち其の長帥を建て、物有れば則ち其の司を設け、事有れば則ち其の職を令し、而して師を置きて以て其の道を敎へ、監を立てて以て其の務を省み、以て其の禮を糺し、其の事を記し、法を萬世に垂れ、治平を天下に期す。是れ乃ち官を立つるの禮なり。官立ち位定まれば、則ち百寮有司及び四民の制、其の禮自ら正し。官位の尊卑に因り、以て家宅衣服を制し、飮食器用を設け、交際言語の法を定め、冠婚喪祭の禮を正し、三綱を擧げて明德を明らかにす。立官の義、其の用大なるかな。否らざれば乃ち官は空しく設け位は虛名にして、其の人に非ずして其の職を貪り、其の功無くして其の高きに居る。玆に於て百官大いに紊れ、職掌日に違ふこと、猶ほ桃梗土偶の金蟬貂に附くが如し。故に天下の禮上に混じ、四民下に僭紊す。豈に往古神聖の心ならんや。〔以上、立官の禮を謂ふ。〕