中朝事実 / 聖政章・殉死の禁止と風俗を正す施策
垂仁帝二十八年詔曰。夫以生所愛令殉亡者。甚傷矣。其雖古風之。非良何從。自今以後議之止殉。 謹按。殉者以人殉亡者也。夫人君者民之父母也。未有父母而不愛其子。殉亡者哀之過而愛之溢也。聖人之政豈用之乎。此時去古未遠。人民從情習俗。上下以行。帝建制改法。有止殉之詔。三十二年。野見宿禰作明器土梗易之。帝大稱其德。以賜土師姓。是所以擴充爲民之父母之誠也。自此朝廷殉亡之制不亦行。帝之德大哉。竊按。外朝始有俑以至殉。其弊以及亂國。中國始有殉。以至作土物。竟止殉。其風俗之渾厚可以見之也。〔以上禁殉。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉。幸筑紫。 謹按。是巡狩之始也。此時熊襲反之。不朝貢。故有此幸。而大覲西方之諸侯。以正風俗。明制度也。後又巡守東方。以定政事。此時天下大定。封域以建。迄成務帝國郡縣邑之制。造長首渠之法竟定。天下猶一家。敎化同俗。巡守之道大哉。〔以上巡狩。〕 仁德帝十一年。武藏人强頸。河內人茨田連衫子。二人以禱于河神。 謹按。妖神殺人爲牲者。夷狄之習俗也。是天孫未降之前。惡鬼妖怪之餘政也。蓋爲堤設溝洫。愛人之道也。神之爲神。享非禮之祭乎。帝信夢寐之妖。以用人祭河伯。噫何是惑乎。夫帝之聰明儉德。天下之太平無事。後世非所企望。猶信鬼神。不如衫子之淺謀以知神之妖僞。此失爰處在乎。唯思辨之道不盡其誠而已。人君政敎之要。豈不愼乎。今擧此一事。以爲帝之政弊。未嘗不懼隱惡之戒。然帝之爲仁德。天下無不知之。猶有習俗以漬德。後世執政之道。最可以鑑焉矣。〔以上改弊。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史記言事。達四方志。 謹按。是置國史之始也。史者記事之官也。言於諸國立此官。上以記天子之敎令。下以記國郡之事。是正國俗達人情之政也。凡五方各有其俗。民又異其習。故人君不知其事物。則政令必乖。今置國史記言事。正其制度。知國俗之化。以致其政也。後世國守之外。有目史等官。皆記國之事。以正其政。是也。〔以上國史。〕 淸寧帝三年秋九月壬子朔癸丑。遣臣連巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉詔。犬馬器翫。不得獻上。 謹按。使臣之巡察者。政之恒。而以巡省風俗。是敎化所繫其俗之大也。且不得獻翫器犬馬。是乃正其風俗也。人君翫物則喪志。物者至微。而志者至大也。不愼至微。則至大不可制。人君所好天下歸焉。豈可忽乎。帝欲正其俗。故有此詔。而又欲寬人情。賜宴於群臣。大酺五日。是儉而寬也。宜哉。海表諸蕃進調。海內安康矣。〔以上正風俗。〕
新字:垂仁帝二十八年詔曰。夫以生所愛令殉亡者。甚傷矣。其雖古風之。非良何従。自今以後議之止殉。 謹按。殉者以人殉亡者也。夫人君者民之父母也。未有父母而不愛其子。殉亡者哀之過而愛之溢也。聖人之政豈用之乎。此時去古未遠。人民従情習俗。上下以行。帝建制改法。有止殉之詔。三十二年。野見宿祢作明器土梗易之。帝大称其徳。以賜土師姓。是所以擴充為民之父母之誠也。自此朝廷殉亡之制不亦行。帝之徳大哉。窃按。外朝始有俑以至殉。其弊以及乱国。中国始有殉。以至作土物。竟止殉。其風俗之渾厚可以見之也。〔以上禁殉。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉。幸筑紫。 謹按。是巡狩之始也。此時熊襲反之。不朝貢。故有此幸。而大覲西方之諸侯。以正風俗。明制度也。後又巡守東方。以定政事。此時天下大定。封域以建。迄成務帝国郡県邑之制。造長首渠之法竟定。天下猶一家。教化同俗。巡守之道大哉。〔以上巡狩。〕 仁徳帝十一年。武蔵人強頸。河内人茨田連衫子。二人以祷于河神。 謹按。妖神殺人為牲者。夷狄之習俗也。是天孫未降之前。悪鬼妖怪之余政也。蓋為堤設溝洫。愛人之道也。神之為神。享非礼之祭乎。帝信夢寐之妖。以用人祭河伯。噫何是惑乎。夫帝之聰明倹徳。天下之太平無事。後世非所企望。猶信鬼神。不如衫子之浅謀以知神之妖偽。此失爰処在乎。唯思弁之道不尽其誠而已。人君政教之要。豈不慎乎。今挙此一事。以為帝之政弊。未嘗不懼隠悪之戒。然帝之為仁徳。天下無不知之。猶有習俗以漬徳。後世執政之道。最可以鑑焉矣。〔以上改弊。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸国置国史記言事。達四方志。 謹按。是置国史之始也。史者記事之官也。言於諸国立此官。上以記天子之教令。下以記国郡之事。是正国俗達人情之政也。凡五方各有其俗。民又異其習。故人君不知其事物。則政令必乖。今置国史記言事。正其制度。知国俗之化。以致其政也。後世国守之外。有目史等官。皆記国之事。以正其政。是也。〔以上国史。〕 清寧帝三年秋九月壬子朔癸丑。遣臣連巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉詔。犬馬器翫。不得献上。 謹按。使臣之巡察者。政之恒。而以巡省風俗。是教化所繋其俗之大也。且不得献翫器犬馬。是乃正其風俗也。人君翫物則喪志。物者至微。而志者至大也。不慎至微。則至大不可制。人君所好天下帰焉。豈可忽乎。帝欲正其俗。故有此詔。而又欲寛人情。賜宴於群臣。大酺五日。是倹而寛也。宜哉。海表諸蕃進調。海内安康矣。〔以上正風俗。〕
書き下し
垂仁帝二十八年、詔して曰く、「夫れ生くる所の愛する者を以て亡き者に殉はしむるは、甚だ傷なり。其れ古の風と雖も、良からずんば何ぞ從はん。今より以後、議りて殉を止めよ」と。 謹んで按ずるに、殉とは人を以て亡き者に殉ふなり。夫れ人君は民の父母なり。未だ父母にして其の子を愛せざる有らず。亡き者に殉はしむるは、哀しみの過ぎて愛の溢るるなり。聖人の政、豈に之を用ゐんや。此の時、古を去ること未だ遠からず、人民情に從ひ俗に習ひ、上下以て行ふ。帝、制を建て法を改め、殉を止むるの詔有り。三十二年、野見宿禰、明器の土梗を作りて之に易ふ。帝大いに其の德を稱し、以て土師の姓を賜ふ。是れ民の父母たるの誠を擴充する所以なり。此れより朝廷の殉亡の制、亦行はれず。帝の德、大なるかな。竊かに按ずるに、外朝は始め俑有り、以て殉に至る。其の弊、國を亂すに及ぶ。中國は始め殉有り、以て土物を作るに至り、竟に殉を止む。其の風俗の渾厚、以て之を見るべきなり。〔以上、殉を禁ず。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉、筑紫に幸す。 謹んで按ずるに、是れ巡狩の始めなり。此の時熊襲反きて朝貢せず。故に此の幸有り。而して大いに西方の諸侯に覲え、以て風俗を正し、制度を明らかにするなり。後又東方を巡守し、以て政事を定む。此の時天下大いに定まり、封域以て建つ。成務帝に迄び、國郡縣邑の制、長・首・渠を造るの法、竟に定まる。天下猶ほ一家のごとく、敎化俗を同じくす。巡守の道、大なるかな。〔以上、巡狩。〕 仁德帝十一年、武藏の人强頸、河内の人茨田連衫子の二人、以て河神に禱る。 謹んで按ずるに、妖神、人を殺して牲と爲すは、夷狄の習俗なり。是れ天孫未降の前、惡鬼妖怪の餘政なり。蓋し堤を爲り溝洫を設くるは、人を愛するの道なり。神の神たる、豈に非禮の祭を享けんや。帝、夢寐の妖を信じ、以て人を用ゐて河伯を祭る。噫、何ぞ是れ惑へるや。夫れ帝の聰明儉德、天下の太平無事なること、後世の企望する所に非ず。猶ほ鬼神を信じ、衫子の淺謀もて神の妖僞を知るに如かず。此の失、爰に處るは、唯だ思辨の道、其の誠を盡くさざるのみ。人君政敎の要、豈に愼まざるべけんや。今此の一事を擧げて以て帝の政弊と爲すは、未だ嘗て隱惡の戒めに懼れずんばあらず。然れども帝の仁德爲る、天下知らざる無し。猶ほ習俗の以て德を漬すこと有り。後世執政の道、最も以て鑑みるべし。〔以上、弊を改む。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置き、言事を記し、四方の志を達せしむ。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの始めなり。史は事を記すの官なり。言ふこころは、諸國に此の官を立て、上は以て天子の敎令を記し、下は以て國郡の事を記す。是れ國俗を正し人情を達するの政なり。凡そ五方各々其の俗有り、民又其の習を異にす。故に人君其の事物を知らざれば、則ち政令必ず乖く。今國史を置き言事を記し、其の制度を正し、國俗の化を知り、以て其の政を致すなり。後世、國守の外、目・史等の官有り、皆國の事を記し、以て其の政を正す。是れなり。〔以上、國史。〕 清寧帝三年秋九月壬子朔癸丑、臣・連を遣はし風俗を巡省せしむ。冬十月壬午朔乙酉、詔して曰く、「犬馬器翫、獻上することを得ざれ」と。 謹んで按ずるに、使臣の巡察は、政の恒なり。而して風俗を巡省するは、是れ敎化の繫る所其の俗の大なればなり。且つ翫器・犬馬を獻ずるを得ざらしむるは、乃ち其の風俗を正すなり。人君、物を翫べば則ち志を喪ふ。物は至微にして、志は至大なり。至微を愼まざれば、則ち至大制すべからず。人君の好む所に天下歸す。豈に忽にすべけんや。帝、其の俗を正さんと欲す。故に此の詔有り。而して又人情を寬くせんと欲し、宴を群臣に賜ひ、大酺すること五日。是れ儉にして寬なり。宜なるかな。海表諸蕃、調を進め、海内安康なり。〔以上、風俗を正す。〕
現代語訳
垂仁帝二十八年、詔していわれた。「生きている愛する者を、亡き人に殉じさせることは、たいへん痛ましい。たとえ古来の風習であっても、良くなければどうして従おうか。今より後は、協議して殉死をやめよ。」 素行はこう考える。殉とは人を亡き人に従わせることである。そもそも君主は民の父母である。父母でありながらその子を愛さない者はいない。亡き人に殉じさせるのは、哀しみが過ぎて愛があふれたものである。聖人の政治がどうしてこれを用いようか。この頃は古い時代からまだ遠くなく、人々は情にまかせ俗に習い、上下ともにこれを行っていた。帝は制度を立て法を改め、殉をやめる詔を出した。三十二年、野見宿禰が副葬用の土の人形を作ってこれに代えた。帝は大いにその徳を称え、土師の姓を賜った。これは民の父母たる誠を押し広めるものである。これ以後、朝廷に殉死の制度は行われなくなった。帝の徳は大きい。ひそかに考えるに、外朝(中国)ではまず俑(人形)を作ることがあり、それが殉死にまで至った。その弊害は国を乱すに及んだ。中国(日本)ははじめ殉死があり、やがて土の物を作るに至って、ついに殉死をやめた。その風俗の厚さがここに見える。〔以上、殉を禁ずる。〕 景行帝十二年の秋八月乙未朔己酉、筑紫に行幸された。 素行はこう考える。これは巡狩の始めである。この時、熊襲が背いて朝貢しなかった。それでこの行幸があった。そして西方の諸侯に広く会い、風俗を正し、制度を明らかにしたのである。後にまた東方を巡守し、政事を定めた。この時、天下は大いに定まり、国境が建てられた。成務帝に至って、国・郡・県・邑の制、長・首・渠を置く法がついに定まった。天下はまるで一家のようになり、教化が風俗を同じくした。巡守の道は大きい。〔以上、巡狩。〕 仁徳帝十一年、武蔵の人の強頸と、河内の人の茨田連衫子の二人が、河の神に祈った。 素行はこう考える。妖しい神が人を殺して犠牲とするのは、夷狄の習俗である。これは天孫の降臨以前の、悪鬼妖怪の名残の政である。思うに、堤を築き溝を設けるのは、人を愛する道である。神が神であるなら、非礼の祭りを受けるだろうか。帝は夢の中の妖しい告げを信じ、人を用いて河の神を祭らせた。ああ、なんと惑ったことか。帝の聡明で倹約の徳、天下の太平無事は、後世が及ぶところではない。それでも鬼神を信じ、衫子の浅い謀り事で神の妖しい偽りを見抜いたのに及ばなかった。この失敗の原因は、ただ思慮と弁別の道に誠を尽くさなかったことだけである。君主の政教の要を、慎まずにいられようか。いまこの一事を挙げて帝の政の弊害とするのは、悪を隠さぬ戒めを恐れるからでもある。しかし帝の仁徳は天下の誰もが知っている。それでもなお習俗が徳を浸すことがあった。後世の政を執る道として、これをもっとも鑑みるべきである。〔以上、弊害を改める。〕 履中帝四年の秋八月辛卯朔戊戌、はじめて諸国に国史を置き、言事を記し、四方の志を朝廷に届けさせた。 素行はこう考える。これは国史を置いた始めである。史とは事を記す官である。つまり、諸国にこの官を立て、上は天子の教令を記し、下は国郡の事を記す。これは国の風俗を正し人情を通わせる政である。五方にはそれぞれ俗があり、民もまた習慣を異にする。だから君主がその事物を知らなければ、政令は必ずそれる。いま国史を置いて言事を記し、その制度を正し、国俗の変化を知って、政をなすのである。後世、国守のほかに目・史などの官があり、みな国の事を記して政を正した。これがそれである。〔以上、国史。〕 清寧帝三年の秋九月壬子朔癸丑、臣・連を遣わして風俗を巡り見させた。冬十月壬午朔乙酉、詔していわれた。「犬馬や珍しい器物を献上してはならない。」 素行はこう考える。使臣の巡察は政の常である。ただ風俗を巡り見るのは、教化に関わる風俗が大きいからである。また珍しい器物や犬馬の献上を禁じたのは、風俗を正すことである。君主は物を愛玩すれば志を失う。物はごく小さく、志はきわめて大きい。ごく小さなことを慎まなければ、きわめて大きなことは制御できない。君主の好むところに天下は従う。おろそかにできようか。帝はその風俗を正そうとした。それでこの詔があった。また人情を寛やかにしようとして、群臣に宴を賜い、五日間の大宴会をした。これは倹約でありながら寛大である。もっともなことである。海外の諸蕃は貢ぎ物を進め、国内は安らかであった。〔以上、風俗を正す。〕
解説

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『中朝事実』聖政章・民心と習俗を察する政教の始め神武帝己未の年春三月辛酉朔丁卯、令を下して曰く、「今、運此の屯蒙に屬し、民心朴素なり。巢に棲み穴に住み、習俗惟れ常なり。夫れ大人の制を立つるは、義必ず時に隨ふ。苟くも民を利する有らば、何ぞ聖造を妨げん」と。 謹んで按ずるに、是れ政令の始めなり。民心は天下の人心なり。習俗は人皆習ひて以て俗と爲すなり。言ふこころは、天下屯蒙にして、人心詐僞に與せず、穴居野處して以て習俗と爲す。今帝天を繼ぎ極を建て、以て天下の禮を正さんと欲し、其の舊俗を新たにす。故に此の詔有るなり。人心の朴素は、善政に染まり易きが如く、而して習俗の舊汚は又變じ難し。時義、是れ革むるの時、又大なり。聖英の天縱に非ざれば、之を得べからざるなり。蓋し政の要は民心と習俗とを察するに在り。人心は必ず俗と與に化し、善惡以て成る。人君政を立て敎率を明らかにすれば、則ち民心化して風俗成る。風俗の成るは習熟の久しきに在り。習熟久しければ則ち民其の然るを識らず。故に曰く、政の要は民心と習俗とを察するに在り、と。此の章、政敎の大體を盡くすと謂ふべし。〔以上、政敎の大體。〕 四年春二月壬戌朔甲申、詔して曰く、「我が皇祖の靈や、天より降り鑒み、光りて朕が躬を助けたまふ。今諸々の虜已に平らぎ、海内事無し。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」と。乃ち靈畤を鳥見山の中に立つ。其の地を號して上小野榛原・下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭る。 先人曰く、神武天皇、都を大和國橿原に定む。時に三種の神寶を以て大殿に安置し、床を同じくして坐したまふ。蓋し往古の神勅の如し。此れに由りて皇居と神宮と差別無し。宮中に庫藏〔此に齋藏と云ふ。〕を立て、宮物・神物分かつ無し。此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、天下の政事は郊社宗廟の祭祀より大なるは莫し。夫れ人君は天地を以て父母と爲す。況んや帝は乾靈天孫の統を承け、以て四海に臨むをや。蓋し神に交はるの道は誠に在り。至誠以て祭祀すれば、則ち鬼神の幽冥も亦格思すべし。蕞爾たる黎民も、至誠以て之を求むれば、則ち感ぜざる無し。故に往古は神祇の祭祀と朝廷の政事と、其の義を二にせず。深いかな。〔俗に政を訓みて祭事とするは是れなり。〕凡そ祭祀を主る者は、皆朝政を執る。天種子命・神八井耳命の如きは是れなり。〔神八井耳命は、神武帝の皇子、綏靖帝の兄なり。神八井耳命曰く、「吾は是れ乃の兄なり。而るに懦弱にして果を致す能はず。今汝特に神武を挺し、自ら元惡を誅す。宜なるかな。汝の天位に光臨し、以て皇祖の業を承くること。吾當に汝の爲に輔けて神祇を典り奉るべし」と。是れ卽ち多臣の始祖なり。〕帝、神勅を守り、以て靈器を敬ふ。且つ天神を郊祀し、用て大孝を申ぶ。其の兢兢業業として政敎を愼むは、萬世の規戒なり。〔以上、祭政の實。〕 崇神帝十年秋七月丙戌朔己酉、群卿に詔して曰く、「民を導くの本は、敎化に在り。今既に神祇を禮し、災害皆耗せり。然れども遠荒の人等、猶ほ正朔を受けず。是れ未だ王化に習はざるのみ。其れ群卿を選びて四方に遣はし、朕が憲を知らしめよ」と。 謹んで按ずるに、是れ行人を發して以て敎を四方に施すの始めなり。導は啓迪なり。敎化に至らざれば、則ち民と敎と別なり。民情化適して敎成る、之を敎化と謂ふ。正朔は王曆なり。天下皆正朔を受くるは、其の天に事ふるを同じくするなり。正朔を受けざれば則ち民俗を殊にす。王化は天下皆其の敎令を守りて其の三綱を正すなり。王化未だ習はざれば則ち民意を異にするなり。憲は法なり。憲章以て人に示すなり。言ふこころは、民皆此の心有り、敎化明らかならず故に其の性を盡くさず。之を啓迪するは敎の化に在り。鬼神を敬ふと民を敎化するとは、其の本至誠に出でず、而して鬼神は幽にして信、人民は習にして駁なり。故に鬼神に事ふるは致敬に在り、人民を治むるは敎を盡くすに在り。帝既に晨に興き夕に惕れ、齊明盛服して以て鬼神を敬ふ。災害既に耗す。然れども天下未だ軌を一にせず、四方未だ俗を均しくせず。今憲章を建て、以て時月を考へ、禮樂制度を同じくし、以て民性を節し、道德を一にして以て俗を同じくす。十二年に及び敎化流行し、衆庶業を樂しみ、富庶既に滿つ。人民皆長幼の序、課役の制を知る。宜なるかな其の至德を稱せらるること。蓋し後世に迄びて巡察・按察・宣撫の法有り、以て風俗制度を正し革む。推古帝に及び、聖德太子憲法を定め、孝德帝天下の政制を詳にし、天武帝律令法式を定め、文武帝の朝、淡海公勅を奉りて律令を撰び、終に萬世政令の準標と爲る。其の本は皆此に基づく。帝の功、亦大ならずや。〔以上、憲章の敎。〕
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『中朝事実』神治章・民を制し農を盡くし害を除く政崇神帝十二年春三月丁丑朔丁亥、詔す、朕、初めて天位を承け、宗廟を保つを獲たり。明は蔽ふ所有り、徳は綏んずる能はず。是を以て陰陽謬錯し、寒暑序を失ひ、疫病多く起こり、百姓災を蒙る。然るに今、罪を解き過ちを改め、神祇を敦礼し、亦敎を垂れて荒俗を綏んじ、兵を挙げて不服を討つ。是を以て官に廃事無く、下に逸民無く、教化流行し、衆庶業を楽しむ。異俗は重訳して来り、海外既に帰化す。宜しく此の時に当りて更に人民を校べ、長幼の次第、及び課役の先後を知らしむべし、と。秋九月甲辰朔己丑、始めて人民を校べ、更に調役を科す。此れを男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て天神地祇共に和享し、風雨時に順ひ、百穀用て成り、家給ち人足り、天下大いに平らかなり。故に称へて御肇国天皇と謂ふ。 謹んで按ずるに、是れ民の産を制するなり。既に庶く既に富めば、未だ嘗て教ふるに以てせずんばあらず。人皆欲有り。民とは其れ蠢爾なり。情有りて節を知らず、欲有りて制を知らず。故に唯だ之を養ひて制を加へざれば、則ち其の身を保つを得べからず。専ら之を戒めて養ふに以てせざれば、則ち恒心を得べからず。撫育教導互ひに持して、而る後に家に於いて給りて恥を知る所以なり。帝は養民を以て心とし、導民を以て教とす。始めて調賦の先後を制し、長幼の次序を教ふ。其の化大なるかな。〔以上、民の産を制す。〕 六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔して曰く、農は天下の大本なり。民の恃みて以て生くる所なり。今、河内の狭山の埴田は水少なし。是を以て其の国の百姓、農事に怠れり。其れ多く池溝を開きて以て民業を寛くせよ、と。冬十月、依網池を造る。十一月、苅坂池・反折池を作る。〔一に云ふ、天皇桑間宮に居し、是の三池を造ると。〕 謹んで按ずるに、是れ農の利を尽くすなり。百穀を利するは水より大なるは莫し。今、狭山及び三池を浚ふ。力を溝洫に尽くすこと此の如し。是より歴代因循し、水利を開き非常に備ふ。垂仁帝は池を諸国に作り、景行帝は相続きて力を竭し、百姓大いに富み、天下大いに平らかなり。竊かに按ずるに、外朝の周は農を以て国を為せし後、此れを重んずること、漢の文・景二帝に如くは莫し。文帝曰く、農は天下の大本なり、と。景帝曰く、農は天下の本なり、と。先儒曰く、文帝此の詔有ること凡そ三。景帝・武帝も亦皆是の言を以て詔の先に冠す、と。漢人は古を去ること未だ遠からず、猶ほ重んずる所を知るなり。今、帝の詔と更に異ならず。国に中外有りと雖も、民事を惓惓とするに至りては一なり。〔以上、農の利を尽くす。〕 仁徳帝十一年夏四月戊寅朔甲午、群臣に詔して曰く、今、朕、是の国を視るに、郊沢曠遠にして、田圃少乏し。且つ河水横に逝きて、流末駛からず。聊か霖雨に逢へば、海潮逆ひ上りて、巷里船に乗り、道路亦泥ぬ。故に群臣共に之を視て、横源を決めて海に通じ、逆流を塞ぎて以て田宅を全うせよ、と。冬十月、宮の北の郊原を掘り、南水を引きて西海に入る。因りて其の水を号けて掘江と曰ふ。又北河の澇を防がんとして、以て茨田堤を築く。是の時、両処の築有りて、乃ち壊れて塞ぎ難し。時に天皇、夢に神の誨ふる有り。其の堤を塞ぎ且つ成すを獲たり。 謹んで按ずるに、是れ民の害を除くなり。天地の間、民の害を為す者は、天に旱潦の災有り、地に河海の暴有り。人君、民の為にする有るに志せば、予め備へ先に謀りて、以て之が制を為せば、則ち其の災ひ殆ど遏むべし。是れ人心の精一にする所、物の以て勝つべき無し。既に其の害を除けば、則ち民の利は百倍なり。帝甚だ民生を以て要とし、河を開きて以て之を疏し、堤を築きて以て之を塞ぐ。民は子のごとく来たり、神は以て之を佑く。故に隄岸の崩るる無く、泉源の涸るる無く、沙土の淤る無く、畛域の失ふ無し。吁、其の徳大なるかな。其の後、大いに溝洫に力を尽くし、百姓寛饒にして、凶年の患無し。況んや橋路を為りて以て人民を利し、氷室を以て其の政を規改するをや。大いに乾霊の国を授けたまふ徳に答ふるなり。〔以上、民の害を除く。〕
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『中朝事実』神知章・四道将軍と大臣・守令の選任崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
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『中朝事実』禮儀章・国史・憲法・詔書と文字の起こり其の後、中朝、遣唐使を置き、外朝に通信す。然れども外朝の書簡は、多く諸侯王を以てす。世衰へ人訛り、此を以て足れりと爲す。其の失は何にか在る。唯だ記誦文字の俗儒に造端し、以て我が國の我が國たるを知らざるに至る。噫、家雞を輕んじ野雉を愛す、何ぞ德の衰へたるや。〔以上、善隣の禮を論ず。〕 應神帝二十八年秋九月、高麗王、使を遣はして朝貢す。因りて以て表を上る。其の表に曰く、高麗王、日本國に敎ふ、と。時に太子菟道稚郞子、其の表を讀みて之を怒り、高麗の使を責む。表狀無禮なるを以て、則ち其の表を破る。 謹んで按ずるに、是れ表狀の禮を正すなり。凡そ太子、外朝の典籍を讀むこと此に十五年。然れども乃ち外朝の文字の相通ずること未だ遠からずして、太子の聰明、通達せざる莫しと雖も、中州は同氣相應ずるに非ず、如何ぞ速やかに弘文の盛を得んや。高麗は我が屬國にして、表狀無禮なれば、太子、表を破り使を責む。其の嚴なること此くの如し。志氣德量、并せ按ずべきなり。 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置く。言事を記し、四方の志を達す。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの禮なり。 推古帝十二年夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親ら肇めて憲法十七條を作る。 謹んで按ずるに、是れ憲章の書を作るの初めなり。 十六年、唐帝に聘す。其の辭に曰く、東の天皇、敬みて西の皇帝に白す、と。 謹んで按ずるに、是れ詔書の禮なり。此の後、公式の禮大いに行はる。〔詳しくは善隣の禮を論ずる條の上に見ゆ。〕新羅王・渤海王に璽書を賜ふに、天皇敬みて某國の王に問ふを以てす。是れ乃ち天子の諸侯王に賜ふ書の禮なり。凡そ文辭命令は、國家の大禮なり。文字言辭の褒貶に因りて、以て尊卑親疎の禮を存し、後世國史の例と爲す。草創・討論・潤色の義、更に忽にすべからざるなり。 二十八年、皇太子・島大臣共に議し、天皇記及び國記、臣・連・伴造・國造・百八十部并せて公民等の本記を錄す。〔蘇我稻目宿禰の子馬子、家を飛鳥河の傍に置き、乃ち庭中に小池を開き、仍りて小島を池の中に興す。故に時人曰く、島大臣、と。〕 謹んで按ずるに、是れ皇記・國記・本記の始めと爲す。孝德帝四年、鞍作の事有り。〔蘇我臣入鹿、更の名は鞍作。〕父の蘇我臣蝦夷、誅に臨みて、悉く天皇記・國記を燒く。船史惠尺、卽ち疾く燒かるる所の國記を取りて、中大兄に奉る。〔天智帝なり。〕此の時、往古の典籍悉く燒失す。其の後、天武帝詔して群臣に帝紀及び上古の諸事を記定せしめ、境部連石積等に命じて、更に肇めて新字一部四十四卷を造らしむ。是れより連綿として典籍日に造られ、文書大いに世に行はる。然れども中國往古の實記は火に入り、舊紀明らかならず。唯だ灰殘の燼竹を摘みて、以て間ま此の往事を存す。亦た萬世の戒と爲すに足る。吁、惜しいかな。或ひと言語文字を疑ふ。愚謂へらく、人旣に口舌有れば、則ち音聲有り。故に情の發する所、自ら言語有り。言語有れば、則ち終に文字の象有り。其の直ちに出づるを聲と曰ひ、曲節有るを音と曰ふ。其の形象の以て通ずべきを字と曰ひ、其の條理の節有るを文と曰ふ。共に是れ天地人物自然の勢ひなり。豈に唯だ中國外朝のみならんや。四夷の侏離、禽獸の嘷吼も亦た然り。直だ其の正を得ざるのみ。往古の神
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『中朝事実』中國章・辺境の守りと四道将軍・蝦夷への備え崇神帝十年冬十月乙卯朔、群臣に詔して曰く、今返る者、悉く伏誅す。幾内事無し。唯だ海外荒倍し、騒動未だ止まず。其の四道将軍等、今忽ちに発て、と。丙子、将軍等共に路に発つ。十一年夏四月壬子朔己卯、四道将軍、戎夷を平らぐるの状を以て奏す。是の歳、異俗多く帰す。国内安寧なり。 謹んで按ずるに、二神、守るべきの境を定めて後、鴻蒙草昧にして封疆未だ分かたず。神武帝、天業を経綸し、中州を制して後も、又た未だ化徳を弘恢せず。帝は識性聡敏にして、尤も雄謀有り。故に大いに四方を開き、以て辺要を規る。下に逸民無く、教化流行す。終に蒼生の課役を正し、船舶の運転を利して、天下大平なり。 景行帝二十五年秋七月庚辰朔壬午、武内宿禰を遣わし、北陸及び東方の諸国の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年春二月辛酉朔壬子、武内宿禰、東国より還りて奏して言う、東夷の中に日高見国有り。其の国人は男女並びに椎結文身し、人と為り勇悍なり。是れを総じて蝦夷と曰う、と。四十年夏六月、東夷多く叛き、辺境騒動す。冬十月、日本武尊に命じて之を征せしむ。蝦夷罪に服す。五十三年、東海に巡狩す。 謹んで按ずるに、帝、自ら西州を征し、東方を巡狩し、七十余子を封建し、各おの其の国の如くせしむ。是れ乃ち四方の辺境を定め、王室の藩屏と為すなり。 成務帝四年春二月丙寅、国郡に長を立て、県邑に首を置く。当国の幹了なる者を取りて、其の国郡の首長に任ず。是れ中区の藩屏と為すなり。五年秋九月、山河を隔てて国県を分かち、阡陌に随いて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰い、山陰を背面と曰う。 謹んで按ずるに、天下の辺要は、帝に逮びて其の制相成る。蓋し辺要とは天下の藩屏なり。四辺は唯だ陸奥・出羽・佐渡・対島・多禰を以て辺要国と為し、太宰府・鎮守府を以て藩鎮の所と為す。鎮西府とは、異域の襲来に備うるなり。鎮守府とは、蝦夷の跋扈を征するなり。異域は竟に辺境を侵すを得ず。蝦夷は数しば東藩を寇す。故に国守有り、将軍有り、両国按察使府・秋田城介有り。信夫郡以南の租税を以て国府の公廨に充て、苅田以北の稲穀を以て鎮府の兵粮に充つ。常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ辺要を慎むなり。凡そ承平の治、王化の沢、下に浴さざる無し。而して辺境の広く、遠人の信は、必ず教えを異にし風を殊にす。故に其の弊、或いは盗賊劫窃し、山に入りて険に拠り、或いは吏務の奸謀に因りて、辺民恨みを含むの事、未だ嘗て無くんばあらず。故に吏幹の才を択び、巡察の使を詳らかにして、以て辺疆を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈に忽せにすべけんや。〔以上、辺要を守るの備え。〕 以上、水土の規制を論ず。謹んで按ずるに、地は天の中に在り、中に又た四辺無くんばあらず。而して其の中を得るを中国と曰う。天地の中を得るを言うなり。天地の中とは何ぞ。四時行われ、寒暑順い、水土人物甚だ美にして、過不及の差無き、是れなり。万邦の衆、唯だ中州及び外朝のみ天地の中を得たり。故に人物事義、大いに異ならず。其の極を建て、以て聖教を致すこと、殆ど節を合わすが如し。〔外朝鮮も亦た水土を同じくす。然れども朝鮮とは外朝と封域を同じくす。唯だ其の東藩に在るのみ。〕蓋し土地有れば、則ち国郡有り。国郡有れば則ち都鄙の分有り。而して王畿を設け、都宮を建て、道路を制し、四方以て之に通じ、四藩以て之を屏る。故に其の規や、其の制や、未だ嘗て其の道を尽くさずんばあらず。凡そ上は天象に法り、下は地勢を詳らかにし、人物の計会を校べ、治乱の機を察して、以て其の礼用を致し、以て其の至誠を尽くせば、則ち遠近・都鄙・内外、同じく其の俗を同じくし、其の利を通ずるなり。天下の大、国郡の区、一々挙ぐべからずと雖も、朝廷より邦畿に及び、王畿より四方に及び、四方より四疆に至ること、猶お一元気の周流し、四支百骸を営衛して、以て諸を一胸臆に統ぶるがごとし。然れば乃ち朝廷・王畿は、天下の規範にして、兆民の具に瞻る所なり。豈に一人の私を縦にし、当時の治を伐ちて、其の規制を致さざるべけんや。
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『中朝事実』神治章・国郡に長を置き封建と郡県を論ず成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、我が先皇大足彦天皇、聡明神武にして、籙を膺け図を受け、天を治め人に順ひ、賊を撥ひ正に反し、徳は覆燾に伴ひ、道は造化に協ふ。是を以て普天率土、王臣ならざる莫く、気を禀け霊を懐くもの、何ぞ処を得ざらん。今、朕嗣ぎて宝祚を践み、夙夜競惕す。然るに黎元蠢爾として野心を悛めず。是れ国郡に君長無く、県邑に首渠無きが故なり。今より以後、国郡に長を立て、県邑に首を置け。即ち当国の幹了なる者を取り、其の国郡の首長に任ぜよ。是れ中区の藩屏と為さん、と。 五年秋九月、諸国に令して、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かしむ。並びに楯矛を賜ひて以て表と為す。則ち山河を隔てて国県を分ち、阡陌に随ひて邑里を定む。因りて東西を以て日縦と為し、南北を日横と為し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居し、天下無事なり。 先人曰く、国造は乃ち国司の名なり。後に改めて守と云ふ。聖武天皇天平宝字二年、諸国司に勅して、四箇年を以て任限と為す。宝亀十一年、太宰府に勅して、任限を五箇年と為す、と。 謹んで按ずるに、是れ天下に郡県するの始めなり。帝に至りて始めて封境を定め、国郡を制し、造長を立て、稲置を置く。是れ乃ち郡県の制なり。是より歴代因循し、国には守・介・掾・目、及び郡司・大領・少領・主帳等有り。辺要の地には帥・大少弐・監・典・将軍・軍監・軍曹・按察等有り。任限考課を以て、公文を勘し黜陟す。終に王室に封建の義無し。夫れ封建とは、侯王を天下に封じ、以て王家の藩屏と為し、巡狩述職の礼を行ひ、朝覲会同の儀を為すなり。郡県とは、侯公を邦国に封ぜず、国郡の司を立て、任限を以て交替し、租税を以て公廨を収め、諸子功臣に分賜するなり。竊かに按ずるに、天下を平らげんと欲する者は、先づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉ふ。家聚まりて邑県と為り、邑県聚まりて郡と為り、郡聚まりて国と為る。天下は郡の大集なり。故に封建郡県は、天下の治法なり。聖人の天下を治むるや、其の勢を量りて其の制を立て、其の義に随ひて其の礼を詳らかにす。封建も亦之を得、郡県も亦之を得。暗主の天下に於けるや、之に反す。故に封建も亦之を失ひ、郡県も亦之を失ふ。然れども其の法、未だ嘗て可不可無きにあらず。愚謂ふ、封建は、公天下の如くにして天下を私し、王侯を世にするが如くにして王侯を害し、百姓を利するが如くにして百姓を毒し、王室を護るが如くにして王室に敵す。上に政令の正しきあると雖も、下に必ず跋扈の志を存す。是れ悉く其の人を得べからず。一たび之を封ずれば、則ち天子速やかに之を変ずるを得ず、執政直ちに之を規すを得ず。郡県は是に異なり。任限有り、交替有り、黜陟有り、輔佐有り、監察有り。其の任を移し易く、其の過ちを規し易し。上に政教の化無しと雖も、下に尾大不掉の失無し。故に人を撰びて以て任ずるは、是れ公天下なり。王公坐して其の禄を食み、自ら据険の暴無きは、是れ王公を世にするなり。罪を恐れ逞欲せず、志を遷して吏務に励むは、是れ百姓を利するなり。土地辟き人民庶きは、是れ王室を護るなり。二者の可不可、此の如し。而して之を行ふは天下の勢に在り。中国草昧の時、民各々聚結して凌轢す。或いは其の勇悍を恐れ、或いは其の姦計に服し、或いは其の恵施を懐き、以て属して其の党を立つ。自ら封境を定め、相屯すること既に久し。天孫降臨するも、亦民を易へずして治む。故に八十万神を封建す。是れ已むを得ざるの勢なり。其の後、子孫漸く微にして、帝郡県の制を行ふを得たり。是れ乃ち天下の勢なり。凡そ封建一たび行はるれば、則ち郡県を為し難し。当時郡県大いに行はれて、王統連綿、公室絶えざること、並び按ずべし。蓋し外朝の制を考ふるに、上古より三王に至るまで、皆封建を以てす。郡県とは暴秦の定むる所、李斯の奏する所なり。魏の曹元首、晋の陸士衡は是れ封建を是とし、唐の李百薬・柳宗元は是れ郡県を是とす。二説の可否、諸儒一決せず。然れども封建を以て公天下と為し、郡県を以て私天下と為し、且つ暴主定めて二世にして滅ぶを以て凶例と為す。今按ずるに、郡県の如きは秦の暴強に非ざれば、一時の侯王を挫くを得べからず。其の制は古法に非ずと雖も、尤も治道の要を得たり。李斯の奏する所、始皇の行ふ所は、其の実は天下を私するなり。故に其の制明らかならず、其の法正しからず。遂に乱賊の基と為る。是れ宗元の所謂、失は政に在りて制に在らず、なり。〔以上、郡県の制を論ず。〕