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中朝事実 / 聖政章・殉死の禁止と風俗を正す施策

垂仁帝二十八年詔曰。夫以生所愛令殉亡者。甚傷矣。其雖古風之。非良何從。自今以後議之止殉。 謹按。殉者以人殉亡者也。夫人君者民之父母也。未有父母而不愛其子。殉亡者哀之過而愛之溢也。聖人之政豈用之乎。此時去古未遠。人民從情習俗。上下以行。帝建制改法。有止殉之詔。三十二年。野見宿禰作明器土梗易之。帝大稱其德。以賜土師姓。是所以擴充爲民之父母之誠也。自此朝廷殉亡之制不亦行。帝之德大哉。竊按。外朝始有俑以至殉。其弊以及亂國。中國始有殉。以至作土物。竟止殉。其風俗之渾厚可以見之也。〔以上禁殉。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉。幸筑紫。 謹按。是巡狩之始也。此時熊襲反之。不朝貢。故有此幸。而大覲西方之諸侯。以正風俗。明制度也。後又巡守東方。以定政事。此時天下大定。封域以建。迄成務帝國郡縣邑之制。造長首渠之法竟定。天下猶一家。敎化同俗。巡守之道大哉。〔以上巡狩。〕 仁德帝十一年。武藏人强頸。河內人茨田連衫子。二人以禱于河神。 謹按。妖神殺人爲牲者。夷狄之習俗也。是天孫未降之前。惡鬼妖怪之餘政也。蓋爲堤設溝洫。愛人之道也。神之爲神。享非禮之祭乎。帝信夢寐之妖。以用人祭河伯。噫何是惑乎。夫帝之聰明儉德。天下之太平無事。後世非所企望。猶信鬼神。不如衫子之淺謀以知神之妖僞。此失爰處在乎。唯思辨之道不盡其誠而已。人君政敎之要。豈不愼乎。今擧此一事。以爲帝之政弊。未嘗不懼隱惡之戒。然帝之爲仁德。天下無不知之。猶有習俗以漬德。後世執政之道。最可以鑑焉矣。〔以上改弊。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸國置國史記言事。達四方志。 謹按。是置國史之始也。史者記事之官也。言於諸國立此官。上以記天子之敎令。下以記國郡之事。是正國俗達人情之政也。凡五方各有其俗。民又異其習。故人君不知其事物。則政令必乖。今置國史記言事。正其制度。知國俗之化。以致其政也。後世國守之外。有目史等官。皆記國之事。以正其政。是也。〔以上國史。〕 淸寧帝三年秋九月壬子朔癸丑。遣臣連巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉詔。犬馬器翫。不得獻上。 謹按。使臣之巡察者。政之恒。而以巡省風俗。是敎化所繫其俗之大也。且不得獻翫器犬馬。是乃正其風俗也。人君翫物則喪志。物者至微。而志者至大也。不愼至微。則至大不可制。人君所好天下歸焉。豈可忽乎。帝欲正其俗。故有此詔。而又欲寬人情。賜宴於群臣。大酺五日。是儉而寬也。宜哉。海表諸蕃進調。海內安康矣。〔以上正風俗。〕

新字:垂仁帝二十八年詔曰。夫以生所愛令殉亡者。甚傷矣。其雖古風之。非良何従。自今以後議之止殉。 謹按。殉者以人殉亡者也。夫人君者民之父母也。未有父母而不愛其子。殉亡者哀之過而愛之溢也。聖人之政豈用之乎。此時去古未遠。人民従情習俗。上下以行。帝建制改法。有止殉之詔。三十二年。野見宿祢作明器土梗易之。帝大称其徳。以賜土師姓。是所以擴充為民之父母之誠也。自此朝廷殉亡之制不亦行。帝之徳大哉。窃按。外朝始有俑以至殉。其弊以及乱国。中国始有殉。以至作土物。竟止殉。其風俗之渾厚可以見之也。〔以上禁殉。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉。幸筑紫。 謹按。是巡狩之始也。此時熊襲反之。不朝貢。故有此幸。而大覲西方之諸侯。以正風俗。明制度也。後又巡守東方。以定政事。此時天下大定。封域以建。迄成務帝国郡県邑之制。造長首渠之法竟定。天下猶一家。教化同俗。巡守之道大哉。〔以上巡狩。〕 仁徳帝十一年。武蔵人強頸。河内人茨田連衫子。二人以祷于河神。 謹按。妖神殺人為牲者。夷狄之習俗也。是天孫未降之前。悪鬼妖怪之余政也。蓋為堤設溝洫。愛人之道也。神之為神。享非礼之祭乎。帝信夢寐之妖。以用人祭河伯。噫何是惑乎。夫帝之聰明倹徳。天下之太平無事。後世非所企望。猶信鬼神。不如衫子之浅謀以知神之妖偽。此失爰処在乎。唯思弁之道不尽其誠而已。人君政教之要。豈不慎乎。今挙此一事。以為帝之政弊。未嘗不懼隠悪之戒。然帝之為仁徳。天下無不知之。猶有習俗以漬徳。後世執政之道。最可以鑑焉矣。〔以上改弊。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌。始之於諸国置国史記言事。達四方志。 謹按。是置国史之始也。史者記事之官也。言於諸国立此官。上以記天子之教令。下以記国郡之事。是正国俗達人情之政也。凡五方各有其俗。民又異其習。故人君不知其事物。則政令必乖。今置国史記言事。正其制度。知国俗之化。以致其政也。後世国守之外。有目史等官。皆記国之事。以正其政。是也。〔以上国史。〕 清寧帝三年秋九月壬子朔癸丑。遣臣連巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉詔。犬馬器翫。不得献上。 謹按。使臣之巡察者。政之恒。而以巡省風俗。是教化所繋其俗之大也。且不得献翫器犬馬。是乃正其風俗也。人君翫物則喪志。物者至微。而志者至大也。不慎至微。則至大不可制。人君所好天下帰焉。豈可忽乎。帝欲正其俗。故有此詔。而又欲寛人情。賜宴於群臣。大酺五日。是倹而寛也。宜哉。海表諸蕃進調。海内安康矣。〔以上正風俗。〕

書き下し

垂仁帝二十八年、詔して曰く、「夫れ生くる所の愛する者を以て亡き者に殉はしむるは、甚だ傷なり。其れ古の風と雖も、良からずんば何ぞ從はん。今より以後、議りて殉を止めよ」と。 謹んで按ずるに、殉とは人を以て亡き者に殉ふなり。夫れ人君は民の父母なり。未だ父母にして其の子を愛せざる有らず。亡き者に殉はしむるは、哀しみの過ぎて愛の溢るるなり。聖人の政、豈に之を用ゐんや。此の時、古を去ること未だ遠からず、人民情に從ひ俗に習ひ、上下以て行ふ。帝、制を建て法を改め、殉を止むるの詔有り。三十二年、野見宿禰、明器の土梗を作りて之に易ふ。帝大いに其の德を稱し、以て土師の姓を賜ふ。是れ民の父母たるの誠を擴充する所以なり。此れより朝廷の殉亡の制、亦行はれず。帝の德、大なるかな。竊かに按ずるに、外朝は始め俑有り、以て殉に至る。其の弊、國を亂すに及ぶ。中國は始め殉有り、以て土物を作るに至り、竟に殉を止む。其の風俗の渾厚、以て之を見るべきなり。〔以上、殉を禁ず。〕 景行帝十二年秋八月乙未朔己酉、筑紫に幸す。 謹んで按ずるに、是れ巡狩の始めなり。此の時熊襲反きて朝貢せず。故に此の幸有り。而して大いに西方の諸侯に覲え、以て風俗を正し、制度を明らかにするなり。後又東方を巡守し、以て政事を定む。此の時天下大いに定まり、封域以て建つ。成務帝に迄び、國郡縣邑の制、長・首・渠を造るの法、竟に定まる。天下猶ほ一家のごとく、敎化俗を同じくす。巡守の道、大なるかな。〔以上、巡狩。〕 仁德帝十一年、武藏の人强頸、河内の人茨田連衫子の二人、以て河神に禱る。 謹んで按ずるに、妖神、人を殺して牲と爲すは、夷狄の習俗なり。是れ天孫未降の前、惡鬼妖怪の餘政なり。蓋し堤を爲り溝洫を設くるは、人を愛するの道なり。神の神たる、豈に非禮の祭を享けんや。帝、夢寐の妖を信じ、以て人を用ゐて河伯を祭る。噫、何ぞ是れ惑へるや。夫れ帝の聰明儉德、天下の太平無事なること、後世の企望する所に非ず。猶ほ鬼神を信じ、衫子の淺謀もて神の妖僞を知るに如かず。此の失、爰に處るは、唯だ思辨の道、其の誠を盡くさざるのみ。人君政敎の要、豈に愼まざるべけんや。今此の一事を擧げて以て帝の政弊と爲すは、未だ嘗て隱惡の戒めに懼れずんばあらず。然れども帝の仁德爲る、天下知らざる無し。猶ほ習俗の以て德を漬すこと有り。後世執政の道、最も以て鑑みるべし。〔以上、弊を改む。〕 履中帝四年秋八月辛卯朔戊戌、始めて諸國に國史を置き、言事を記し、四方の志を達せしむ。 謹んで按ずるに、是れ國史を置くの始めなり。史は事を記すの官なり。言ふこころは、諸國に此の官を立て、上は以て天子の敎令を記し、下は以て國郡の事を記す。是れ國俗を正し人情を達するの政なり。凡そ五方各々其の俗有り、民又其の習を異にす。故に人君其の事物を知らざれば、則ち政令必ず乖く。今國史を置き言事を記し、其の制度を正し、國俗の化を知り、以て其の政を致すなり。後世、國守の外、目・史等の官有り、皆國の事を記し、以て其の政を正す。是れなり。〔以上、國史。〕 清寧帝三年秋九月壬子朔癸丑、臣・連を遣はし風俗を巡省せしむ。冬十月壬午朔乙酉、詔して曰く、「犬馬器翫、獻上することを得ざれ」と。 謹んで按ずるに、使臣の巡察は、政の恒なり。而して風俗を巡省するは、是れ敎化の繫る所其の俗の大なればなり。且つ翫器・犬馬を獻ずるを得ざらしむるは、乃ち其の風俗を正すなり。人君、物を翫べば則ち志を喪ふ。物は至微にして、志は至大なり。至微を愼まざれば、則ち至大制すべからず。人君の好む所に天下歸す。豈に忽にすべけんや。帝、其の俗を正さんと欲す。故に此の詔有り。而して又人情を寬くせんと欲し、宴を群臣に賜ひ、大酺すること五日。是れ儉にして寬なり。宜なるかな。海表諸蕃、調を進め、海内安康なり。〔以上、風俗を正す。〕

現代語訳

垂仁帝二十八年、詔していわれた。「生きている愛する者を、亡き人に殉じさせることは、たいへん痛ましい。たとえ古来の風習であっても、良くなければどうして従おうか。今より後は、協議して殉死をやめよ。」 素行はこう考える。殉とは人を亡き人に従わせることである。そもそも君主は民の父母である。父母でありながらその子を愛さない者はいない。亡き人に殉じさせるのは、哀しみが過ぎて愛があふれたものである。聖人の政治がどうしてこれを用いようか。この頃は古い時代からまだ遠くなく、人々は情にまかせ俗に習い、上下ともにこれを行っていた。帝は制度を立て法を改め、殉をやめる詔を出した。三十二年、野見宿禰が副葬用の土の人形を作ってこれに代えた。帝は大いにその徳を称え、土師の姓を賜った。これは民の父母たる誠を押し広めるものである。これ以後、朝廷に殉死の制度は行われなくなった。帝の徳は大きい。ひそかに考えるに、外朝(中国)ではまず俑(人形)を作ることがあり、それが殉死にまで至った。その弊害は国を乱すに及んだ。中国(日本)ははじめ殉死があり、やがて土の物を作るに至って、ついに殉死をやめた。その風俗の厚さがここに見える。〔以上、殉を禁ずる。〕 景行帝十二年の秋八月乙未朔己酉、筑紫に行幸された。 素行はこう考える。これは巡狩の始めである。この時、熊襲が背いて朝貢しなかった。それでこの行幸があった。そして西方の諸侯に広く会い、風俗を正し、制度を明らかにしたのである。後にまた東方を巡守し、政事を定めた。この時、天下は大いに定まり、国境が建てられた。成務帝に至って、国・郡・県・邑の制、長・首・渠を置く法がついに定まった。天下はまるで一家のようになり、教化が風俗を同じくした。巡守の道は大きい。〔以上、巡狩。〕 仁徳帝十一年、武蔵の人の強頸と、河内の人の茨田連衫子の二人が、河の神に祈った。 素行はこう考える。妖しい神が人を殺して犠牲とするのは、夷狄の習俗である。これは天孫の降臨以前の、悪鬼妖怪の名残の政である。思うに、堤を築き溝を設けるのは、人を愛する道である。神が神であるなら、非礼の祭りを受けるだろうか。帝は夢の中の妖しい告げを信じ、人を用いて河の神を祭らせた。ああ、なんと惑ったことか。帝の聡明で倹約の徳、天下の太平無事は、後世が及ぶところではない。それでも鬼神を信じ、衫子の浅い謀り事で神の妖しい偽りを見抜いたのに及ばなかった。この失敗の原因は、ただ思慮と弁別の道に誠を尽くさなかったことだけである。君主の政教の要を、慎まずにいられようか。いまこの一事を挙げて帝の政の弊害とするのは、悪を隠さぬ戒めを恐れるからでもある。しかし帝の仁徳は天下の誰もが知っている。それでもなお習俗が徳を浸すことがあった。後世の政を執る道として、これをもっとも鑑みるべきである。〔以上、弊害を改める。〕 履中帝四年の秋八月辛卯朔戊戌、はじめて諸国に国史を置き、言事を記し、四方の志を朝廷に届けさせた。 素行はこう考える。これは国史を置いた始めである。史とは事を記す官である。つまり、諸国にこの官を立て、上は天子の教令を記し、下は国郡の事を記す。これは国の風俗を正し人情を通わせる政である。五方にはそれぞれ俗があり、民もまた習慣を異にする。だから君主がその事物を知らなければ、政令は必ずそれる。いま国史を置いて言事を記し、その制度を正し、国俗の変化を知って、政をなすのである。後世、国守のほかに目・史などの官があり、みな国の事を記して政を正した。これがそれである。〔以上、国史。〕 清寧帝三年の秋九月壬子朔癸丑、臣・連を遣わして風俗を巡り見させた。冬十月壬午朔乙酉、詔していわれた。「犬馬や珍しい器物を献上してはならない。」 素行はこう考える。使臣の巡察は政の常である。ただ風俗を巡り見るのは、教化に関わる風俗が大きいからである。また珍しい器物や犬馬の献上を禁じたのは、風俗を正すことである。君主は物を愛玩すれば志を失う。物はごく小さく、志はきわめて大きい。ごく小さなことを慎まなければ、きわめて大きなことは制御できない。君主の好むところに天下は従う。おろそかにできようか。帝はその風俗を正そうとした。それでこの詔があった。また人情を寛やかにしようとして、群臣に宴を賜い、五日間の大宴会をした。これは倹約でありながら寛大である。もっともなことである。海外の諸蕃は貢ぎ物を進め、国内は安らかであった。〔以上、風俗を正す。〕

解説

殉死をやめる詔、巡狩、人を犠牲にする祭りの誤り、国史の設置、献上品の禁止など、風俗を正した事例を並べ、素行は君主が民の父母として悪習を改めることを論じます。仁徳帝の人身供犠についても誤りは誤りとして記す点が特徴です。古い風習の評価は素行の判断である点に注意が要ります。組織でも、慣習だからと続けてきたことを疑い、トップの好みが風土になる点を省みる材料になります。
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この章句が説くこと

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