中朝事実 / 禮儀章・皇太子を立てる礼と諭教の記述
神武帝四十有二年春正月壬子朔甲寅。立皇子神渟名川耳尊爲皇太子。 謹按。是立皇太子之始也。蓋建太子者。定國之本。所以重宗廟社稷也。凡立子必以長。是禮之恒也。然時有治亂屯蒙承久。地有新故大小。人有賢知愚不肖。故愼思明辨。以致其道。在人君之德。帝始定中州。建皇極。其間未嘗無强悍不律之賊。信是屯難之時。其建立可不愼乎。太子者帝之第三子。而風姿歧嶷。少有雄拔之氣。見子不可如父。竟立以爲皇太子。建立之禮一行。天下之大本定。自是連綿。以建儲之儀成。於乎懿哉。 崇神帝四十八年春正月己卯朔戊子。天皇勅豐城命・活目尊曰。汝等二子慈愛共齊。不知孰爲嗣。各宜夢。朕以夢占之。二皇子於是被命。淨沐而祈寐。各得夢也。會明。兄豐城命以夢辭奏于天皇曰。自登御諸山向東而八廻弄槍。八廻擊刀。弟活目尊以夢辭奏言。自登御諸山之嶺。繩組四方。逐食粟雀。則天皇相夢。謂二子曰。兄則一片向東。當治東國。弟是悉臨四方。宜繼朕位。四月戊申朔丙寅。立活目尊爲皇太子。以豐城命令治東。是上毛野君・下毛野君之始祖也。 謹按。建儲之禮者。天下之大本也。今以所其夢定其計。後世未無疑擬。此時去古未遠。人心朴素。而誠信感通。故有此議。二王子亦肯之。終永承帝詔不貳。是帝之聖德也。王子之渾厚也。非後世所可似效之。蓋帝位者大寶也。人誰不欲。況皇子乎。故建立之禮貴蚤定。不蚤定。則嫡庶之分不明。或以智求之。立功欲之。以力爭之。古今宗室之亂天秩。無不由焉。其禮蚤定。則衆望絕。而天下之勢定。宗室分極。而王家以固。人君豈可忽乎。 應神帝十五年秋八月壬戌朔丁卯。百濟王遣阿直岐貢良馬。阿直岐能讀經典。卽太子菟道稚郞子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。對曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別巫別於百濟。仍徵王仁也。十六年春二月。王仁來之。則太子菟道稚郞子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。 謹按。是太子諭敎之禮也。此時稚郞子未有皇太子之命。然帝旣建儲之計定於衷。故有此諭敎也。蓋諭敎之禮豫定。則其薰陶正明。變化氣質。不由其師・傳・保。以不可得其實也。太子聰明。天資謙讓。而又有雄武之俊才。能熟中國之事物。兼通外朝之經籍。其啓廸開悟。習貫如自然。故以表狀無禮。責高麗之使。讓大寶於仁德帝。存昆上而季下。聖君而愚臣之常典。其豪英也。其脫落也。皆繫敎諭之得矣。萬世法之以立師。置傅保。爲太子家令之官。可不愼乎。竊按。敎諭之道。多以外朝之書籍爲事。是後世之訛也。中國古今天下之興廢治亂。事物之制度。人民之禮儀。載在文獻。然乃日用言行脩改之暇。詳致其道。鑒其古。而後及外朝之經傳。以廣其知識。證其事迹。斟酌用捨。就有道以正之。可謂得敎諭之實也。〔以上論建儲之禮。〕
新字:神武帝四十有二年春正月壬子朔甲寅。立皇子神渟名川耳尊為皇太子。 謹按。是立皇太子之始也。蓋建太子者。定国之本。所以重宗廟社稷也。凡立子必以長。是礼之恒也。然時有治乱屯蒙承久。地有新故大小。人有賢知愚不肖。故慎思明弁。以致其道。在人君之徳。帝始定中州。建皇極。其間未嘗無強悍不律之賊。信是屯難之時。其建立可不慎乎。太子者帝之第三子。而風姿歧嶷。少有雄抜之気。見子不可如父。竟立以為皇太子。建立之礼一行。天下之大本定。自是連綿。以建儲之儀成。於乎懿哉。 崇神帝四十八年春正月己卯朔戊子。天皇勅豊城命・活目尊曰。汝等二子慈愛共斉。不知孰為嗣。各宜夢。朕以夢占之。二皇子於是被命。浄沐而祈寐。各得夢也。会明。兄豊城命以夢辞奏于天皇曰。自登御諸山向東而八廻弄槍。八廻撃刀。弟活目尊以夢辞奏言。自登御諸山之嶺。縄組四方。逐食粟雀。則天皇相夢。謂二子曰。兄則一片向東。当治東国。弟是悉臨四方。宜継朕位。四月戊申朔丙寅。立活目尊為皇太子。以豊城命令治東。是上毛野君・下毛野君之始祖也。 謹按。建儲之礼者。天下之大本也。今以所其夢定其計。後世未無疑擬。此時去古未遠。人心朴素。而誠信感通。故有此議。二王子亦肯之。終永承帝詔不貳。是帝之聖徳也。王子之渾厚也。非後世所可似効之。蓋帝位者大宝也。人誰不欲。況皇子乎。故建立之礼貴蚤定。不蚤定。則嫡庶之分不明。或以智求之。立功欲之。以力争之。古今宗室之乱天秩。無不由焉。其礼蚤定。則衆望絶。而天下之勢定。宗室分極。而王家以固。人君豈可忽乎。 応神帝十五年秋八月壬戌朔丁卯。百済王遣阿直岐貢良馬。阿直岐能読経典。即太子菟道稚郎子師焉。於是天皇問阿直岐曰。如勝汝博士亦有耶。対曰。有王仁者。是秀也。時遣上毛野君祖荒田別巫別於百済。仍徴王仁也。十六年春二月。王仁来之。則太子菟道稚郎子師之。習諸典籍於王仁。莫不通達。 謹按。是太子諭教之礼也。此時稚郎子未有皇太子之命。然帝既建儲之計定於衷。故有此諭教也。蓋諭教之礼予定。則其薫陶正明。変化気質。不由其師・伝・保。以不可得其実也。太子聰明。天資謙譲。而又有雄武之俊才。能熟中国之事物。兼通外朝之経籍。其啓廸開悟。習貫如自然。故以表状無礼。責高麗之使。譲大宝於仁徳帝。存昆上而季下。聖君而愚臣之常典。其豪英也。其脱落也。皆繋教諭之得矣。万世法之以立師。置傅保。為太子家令之官。可不慎乎。窃按。教諭之道。多以外朝之書籍為事。是後世之訛也。中国古今天下之興廃治乱。事物之制度。人民之礼儀。載在文献。然乃日用言行脩改之暇。詳致其道。鑒其古。而後及外朝之経伝。以広其知識。証其事迹。斟酌用捨。就有道以正之。可謂得教諭之実也。〔以上論建儲之礼。〕
書き下し
神武帝四十有二年春正月壬子朔甲寅、皇子神渟名川耳尊を立てて皇太子と爲す。 謹んで按ずるに、是れ皇太子を立つるの始めなり。蓋し太子を建つるは、國の本を定め、宗廟社稷を重んずる所以なり。凡そ子を立つるは必ず長を以てす。是れ禮の恒なり。然れども時に治亂・屯蒙・承久有り、地に新故・大小有り、人に賢知・愚不肖有り。故に愼思明辨して、以て其の道を致すは、人君の德に在り。帝始めて中州を定め、皇極を建つ。其の間未だ嘗て强悍不律の賊無くんばあらず。信に是れ屯難の時、其の建立愼まざるべけんや。太子は帝の第三子なり。而して風姿歧嶷、少くして雄拔の氣有り。子は父の如くならざるを見る。竟に立てて皇太子と爲す。建立の禮一たび行はれ、天下の大本定まる。是れより連綿として、建儲の儀成る。於乎、懿なるかな。 崇神帝四十八年春正月己卯朔戊子、天皇、豐城命・活目尊に勅して曰く、「汝等二子、慈愛共に齊し。孰れを嗣と爲すかを知らず。各々夢みよ。朕、夢を以て之を占はん」と。二皇子是に命を被り、淨め沐ひて祈りて寐ぬ。各々夢を得たり。會明、兄豐城命、夢の辭を以て天皇に奏して曰く、「自ら御諸山に登り、東に向ひて八廻槍を弄し、八廻刀を擊つ」と。弟活目尊、夢の辭を以て奏言す、「自ら御諸山の嶺に登り、繩を四方に組み、粟を食む雀を逐ふ」と。則ち天皇、夢を相て、二子に謂ひて曰く、「兄は則ち一片に東に向ふ。當に東國を治むべし。弟は是れ悉く四方に臨む。宜しく朕が位を繼ぐべし」と。四月戊申朔丙寅、活目尊を立てて皇太子と爲す。豐城命を以て東を治めしむ。是れ上毛野君・下毛野君の始祖なり。 謹んで按ずるに、建儲の禮は、天下の大本なり。今、夢の所を以て其の計を定むるは、後世疑擬無くんばあらず。此の時古を去ること未だ遠からず、人心朴素にして、誠信感通す。故に此の議有り。二王子も亦之を肯んず。終に永く帝詔を承けて貳つならず。是れ帝の聖德なり。王子の渾厚なり。後世の似效すべき所に非ず。蓋し帝位は大寶なり。人誰か欲せざらん。況んや皇子をや。故に建立の禮は蚤く定むるを貴ぶ。蚤く定めざれば、則ち嫡庶の分明らかならず。或いは智を以て之を求め、功を立てて之を欲し、力を以て之を爭ふ。古今宗室の天秩を亂すこと、由らざる無し。其の禮蚤く定まれば、則ち衆望絶えて天下の勢ひ定まり、宗室の分極まりて王家以て固し。人君豈に忽にすべけんや。 應神帝十五年秋八月壬戌朔丁卯、百濟王、阿直岐を遣はして良馬を貢ぐ。阿直岐能く經典を讀む。卽ち太子菟道稚郞子、師とす。是に天皇、阿直岐に問ひて曰く、「汝に勝る博士、亦有りや」と。對へて曰く、「王仁といふ者有り。是れ秀れたり」と。時に上毛野君の祖荒田別・巫別を百濟に遣はし、仍りて王仁を徵す。十六年春二月、王仁來る。則ち太子菟道稚郞子、之を師とし、諸典籍を王仁に習ひ、通達せずといふこと莫し。 謹んで按ずるに、是れ太子諭敎の禮なり。此の時稚郞子未だ皇太子の命有らず。然れども帝既に建儲の計を衷に定む。故に此の諭敎有るなり。蓋し諭敎の禮豫め定まれば、則ち其の薰陶正しく明らかにして、氣質を變化す。其の師・傅・保に由らずして、以て其の實を得べからず。太子は聰明にして、天資謙讓、而も又雄武の俊才有り。能く中國の事物に熟し、兼ねて外朝の經籍に通ず。其の啓廸開悟、習貫ること自然の如し。故に表狀無禮を以て、高麗の使を責め、大寶を仁德帝に讓り、昆を上にし季を下にするは、聖君にして愚臣の常典なり。其の豪英なること、其の脫落なること、皆敎諭の得るに繫る。萬世之に法りて師を立て、傅保を置き、太子家令の官と爲す。愼まざるべけんや。竊かに按ずるに、敎諭の道、多く外朝の書籍を以て事と爲すは、是れ後世の訛りなり。中國古今天下の興廢治亂、事物の制度、人民の禮儀、文獻に載せ在り。然れば乃ち日用言行脩改の暇に、詳らかに其の道を致し、其の古を鑒み、而る後に外朝の經傳に及び、以て其の知識を廣め、其の事迹を證し、斟酌用捨し、有道に就きて以て之を正す。敎諭の實を得たりと謂ふべきなり。〔以上、建儲の禮を論ず。〕
現代語訳
神武帝四十二年の春正月壬子朔甲寅、皇子の神渟名川耳尊を立てて皇太子とした。 素行はこう考える。これは皇太子を立てる始めである。思うに太子を立てることは、国の本を定め、宗廟社稷を重んじる所以である。子を立てるには必ず長子を用いる。これが礼の常である。しかし時には治乱・草創の混沌・長い継承があり、土地には新旧・大小があり、人には賢愚がある。だから慎み思い明らかに弁じて、その道を尽くすのは、君主の徳にある。帝ははじめて中州を定め、皇極を建てた。その間には強く荒々しい不法の賊がいなかったわけではない。まことに困難な時であり、その建立を慎まずにいられようか。太子は帝の第三子である。風姿は抜きん出て、若くして雄々しい気があった。子が必ず父に似るとは限らないことを見て、ついに立てて皇太子とした。建立の礼が一度行われ、天下の大本が定まった。以来連綿として、立太子の儀が成った。ああ、美しいことである。 崇神帝四十八年の春正月己卯朔戊子、天皇は豊城命と活目尊に勅していわれた。「おまえたち二人は慈愛が等しい。どちらを跡継ぎとするか決めかねる。各々夢を見よ。朕は夢で占おう。」二皇子はこの命を受け、身を清め沐浴して祈って寝た。それぞれ夢を得た。夜明けに、兄の豊城命は夢の言葉を天皇に奏した。「自ら御諸山に登り、東に向かって八たび槍を振り回し、八たび刀を打ちました。」弟の活目尊は夢の言葉を奏した。「自ら御諸山の頂に登り、縄を四方に張り、粟をついばむ雀を追い払いました。」天皇は夢を判じて、二人の子にいわれた。「兄はひたすら東に向かった。東国を治めるべきである。弟は四方にくまなく臨んだ。朕の位を継ぐべきである。」四月戊申朔丙寅、活目尊を立てて皇太子とした。豊城命には東を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の始祖である。 素行はこう考える。立太子の礼は天下の大本である。いま夢で計を定めたことには、後世には疑う人もいるだろう。この頃は古い時代から遠くなく、人心は素朴で、誠と信が通じた。だからこの議があった。二人の王子もこれを承服した。ついに永く帝の詔を承けて二心がなかった。これは帝の聖徳であり、王子の厚みである。後世がまねできることではない。思うに帝位は大宝である。誰が欲しないだろうか。まして皇子はなおさらである。だから立太子の礼は早く定めるのがよい。早く定めなければ嫡庶の分が明らかにならず、あるいは智をもって求め、功を立てて欲し、力で争う。古今の宗室が天の秩序を乱すのは、みなここに由る。礼が早く定まれば、期待が絶えて天下の勢いが定まり、宗室の分が極まって王家は固くなる。君主はおろそかにできようか。 応神帝十五年の秋八月壬戌朔丁卯、百済王が阿直岐を遣わして良馬を献上した。阿直岐はよく経典を読んだ。そこで太子の菟道稚郎子が師とした。天皇は阿直岐に問われた。「おまえに勝る博士はほかにいるか。」答えていった。「王仁という者がいます。優れています。」そこで上毛野君の祖の荒田別・巫別を百済に遣わし、王仁を召した。十六年の春二月、王仁が来た。太子の菟道稚郎子はこれを師とし、諸々の典籍を王仁に習い、通達しないものはなかった。 素行はこう考える。これは太子に諭し教える礼である。この時、稚郎子はまだ皇太子の命を受けていなかった。しかし帝はすでに立太子の計を心中で定めていた。だからこの諭教があった。思うに諭教の礼があらかじめ定まれば、その薫陶は正しく明らかで、気質を変化させる。師・傅・保によらなければ、その実を得ることはできない。太子は聡明で、天性が謙譲であり、そのうえ雄武の俊才があった。中国(日本)の事物に熟し、あわせて外朝(中国)の経籍に通じた。その啓き悟ることは自然に身についたようであった。だから無礼な表状を理由に高麗の使いを責め、大宝を仁徳帝に譲り、兄を上に弟を下にする、聖君であれ愚臣であれ守るべき常の典に従った。その傑出ぶりと潔さは、みな教諭の成果に関わる。万世がこれに倣い、師を立て、傅保を置き、太子家令の官とした。慎まずにいられようか。ひそかに考えるに、教諭の道が多く外朝の書物を事とするのは、後世の誤りである。中国(日本)の古今の興廃治乱、事物の制度、人民の礼儀は、文献に載っている。日々の言行を修める暇に、詳しくその道を尽くし、その古を鑑み、そのうえで外朝の経伝に及び、知識を広め、事跡を証し、取捨し、有道の人に就いて正す。それこそ教諭の実を得たといえる。〔以上、立太子の礼を論ずる。〕
解説

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『中朝事実』禮儀章・即位の礼と皇后を立てる礼の意味神武帝辛酉の年春正月庚辰朔、天皇帝位に橿原宮に卽く。是の歲を天皇の元年と爲す。 謹んで按ずるに、卽位は人君の大禮なり。天は人君の宗とする所にして、人君は庶人の天とする所なり。天高く上にして文明四海を照らす。人君大寶に位して明德天下に周し。故に卽位の禮を行ひ、以て天下萬機の道を始むるなり。帝東征の功大いに成り、中國を定め、以て卽位の禮を始め、是の歲を以て元年と爲し、王正月を以て時を授け、天地の氣候を一にし、人君の大禮を著すなり。是れより歷代因循して此の儀有り。大臣は北面して以て神器を捧げ、天子は南面して以て萬國に詔す。上下尊卑の禮を正し、道德聖明の政を布く。繫る所太だ重きかな。蓋し此の時未だ外朝の三統を知らずして、人統自ら立つ。四時以て宜し。是れ乃ち神聖の靈妙なり。爾來正朔終に失はず、授時相正して、天下其の俗を一にす。中華の渾厚、大なるかな。〔以上、卽位の禮を論ず。〕 神武帝庚申の年秋八月癸丑朔戊辰、天皇正妃を立つべし。改めて廣く華胄を求む。九月壬午朔己巳、媛蹈鞴五十鈴媛命を納れて以て正妃と爲す。辛酉春正月庚辰朔、天皇卽位す。正妃を尊びて皇后と爲す。 謹んで按ずるに、是れ后妃選立の始めなり。蓋し聖人聖匹を得れば、則ち聖子有り。聖子聖孫相續げば、則ち百代も猶ほ一日のごとし。是れ人君の天下を愛する至りなる所以なり。凡そ帝王の匹は、風化の本、禮儀の大なり。選立其の道を以てせざれば、則ち唯だ欲を縱にし情に從ひ、其の始めに克つと雖も、其の終りを保つべからず。帝正妃を立てんとするに當たり、廣く族姓を議し、女德を詳にす。卽位に及び、乃ち皇后と爲す。其の禮を隆くし、以て男女の別を序し、媵妾の品を辨じ、戒めを萬世に垂る。然れども猶ほ後世未だ嘗て淫亂・德を黷し、嫡妾相妄し、廢奪相行はるるの失無くんばあらず。夫れ男女有りて後に父子有り。然れば乃ち國家の大事、福祚の繫る所、妃匹の際に在り。其の禮豈に苟もすべけんや。 繼體帝元年三月庚申朔、詔して曰く、「神祇は主を乏しくすべからず。宇宙は君無かるべからず。天、黎庶を生じ、元首を樹てて、司り助け養はしめ、性命を全うせしむ。大連、朕の息無きを憂へ、誠款を披き、國家のために世世忠を盡くす。豈に唯だ朕が日のみならんや。宜しく禮儀を備へ、手白香皇女を奉迎して皇后と爲し、敎を内に修めしむべし」と。 謹んで按ずるに、是れ皇后を立て、禮儀を備へ、敎を内に修むるの詳しきなり。蓋し人君恒に九重の深きに居り、萬乘の富を御す。近臣媚を進め、佞臣惡を逆ふ。少しく怠り情を縱にすれば、鴆毒其の衷に根ざさざる無し。故に外には諫議を設け、史官を置き、其の言行を正す。猶ほ未だ嘗て其の闕遺無くんばあらず。妃匹の親、皇后の睦、内助の益、規警の戒めに賴り、以て此に拾ひ補ふ。是れ良匹賢配の尙ばるる所以なり。此の後立后の禮世世相續き、以て皇統連綿に至る。凡そ女德の撰其の道を以てせざれば、則ち淫婦妖女必ず其の心を蠱す。族姓の戒め嚴ならざれば、則ち外戚權を專らにし威を竊み、必ず天下の害を構ふ。立后の禮正しからざれば、則ち男女の別明らかならずして、内修の戒め行はれず。皇妃の道、之を規するに其の禮を以てせざれば、則ち宮闈朝に臨み、簾を垂れて政に預かり、嗣主をして虎位に擁せられしむるに至る。故に禮は夫婦に本づき、治亂之に因り、興亡之に繫る。往古の令典、舊紀の載する所、監みざるべけんや。〔以上、立后の禮を論ず。〕
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『中朝事実』神知章・四道将軍と大臣・守令の選任崇神帝十年秋九月丙戌朔甲午、大彥命を以て北陸に遣はし、武渟川別を東海に遣はし、吉備津彥を西道に遣はし、丹波道主命を丹波に遣はす。因りて之に詔して曰く、「若し敎を受けざる者有らば、乃ち兵を擧げて之を伐て」と。既にして共に印綬を授け將軍と爲す。 謹んで按ずるに、是れ武官の始めなり。神代に既に將帥の任有り、神武帝の時に軍帥の將有り。然れども未だ名號に及ばず。今始めて將軍を以て印綬を授け、四道將軍と號す。其の任尤も重きかな。〔以上。軍帥の任を撰ぶ。〕 景行帝五十一年春正月壬午朔戊子、群卿を招きて宴すること數日。時に皇子稚足彥尊・武内宿禰、宴庭に參赴せず。天皇召して其の故を問ふ。因りて奏して曰く、「其の宴樂の日は、群卿百寮、必ず情戲遊に在りて、國家を存せず。若し狂生有りて墻閣の隙を伺はんか。故に門下に侍して非常に備ふ」と。時に天皇之に謂ひて曰く、「灼然なり」〔灼然、此に以耶知擧と云ふ〕と。則ち異に寵したまふ。秋八月己酉朔壬子、稚足彥尊を立てて皇太子と爲す。是の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ其の人を撰び其の大職に任ずるの義なり。棟梁の臣は成務帝に距りて大臣と號す。武内之に任ず。此の後連綿として大臣の號有り、終に三公の稱有るなり。蓋し大臣は師範一人、四海に儀形たり。其の人無ければ則ち闕く。古來其の重んずる所此の如し。是を以て邦を經し道を論じ、陰陽を燮理するなり。其の上に爲すや、必ず善を陳べ邪を閉ぢ、以て君の德を爲す。其の下に爲すや、必ず政を發し仁を施し、以て人の俗を爲す。此くの如きの人にして後に此の職に任ず。其をして上は人君の道を輔け、下は四海の政を濟はしむるなり。帝武内の篤行に因りて、授くるに大任を以てす。武内終に六世を輔導し、風采凝峻、武儀巍焉たり。是れ此の壽者老成人か。後世大臣に任ずるの道、往古を踏襲し、以て其の撰を精一にすれば、又大過無からんか。〔以上。大臣の撰を重んず。〕 成務帝四年春二月丙寅朔、詔して曰く、「今より以後、國郡に長を立て、縣邑に首を置け。卽ち當國の幹了なる者を取りて、其の國郡の首長に任ぜよ。是れ中區の藩屏と爲す」と。 先人曰く、國司は是れ一方の重寄に當たる。百姓の寒苦を察するは、庸才の企望すべき所に非ず。故に昔時固より格制を設け、以て治否を勘ず。格に合ふ者は賞を蒙り、格に違ふ者は黜けらる。是れ良吏を擇ぶ所以なり。又曰く、七箇國の受領を歷て、格に合ふの吏、公文を勘し畢はれば、參議に拜す、と。白河院仰す。但し其の才に依るべし、と。 謹んで案ずるに、是れ國郡の司を撰ぶなり。蓋し人君は民の父母なり。分を以て言へば天壤の如く、情を以て考ふれば心體の相資くるが如し。故に深宮の内に居り、九重の上に坐すと雖も、恒に誠求の實を存すれば、則ち守令の撰、豈に忽にすべけんや。其の撰一たび背けば、則ち億兆の民悉く其の殃ひを蒙る。人君敢へて忍ぶべけんや。故に其の精撰は、往古既に然り、後世之に因り、年限を正し、考課を愼み、賞罰を明らかにし、相續ぎて其の制嚴なり。外朝の先儒曰く、郡守縣令は民の師帥なり。流れを承け化を宣べしむる所なり。故に師帥賢ならざれば、則ち主德宣びず、恩澤流れず、と。愚謂へらく、守令唯だ租稅調賦を事とし、禮敎を以てせざれば、則ち政化の實に非ず。故に財賦を督し詞訟を理むるの間に、禮敎自ら敷き、風化興行して、俗自ら移り、民自ら敦く、而る後に守令の賢と稱すべきなり。〔以上。守令の任を正す。〕
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『中朝事実』賞罰章・資を賜う・姓を賜う・尊号天神、葦原中國の邪鬼を撥ひ平げしめんと欲し、天國玉の子天稚彥に天鹿兒弓及び天羽羽矢を賜ひ、以て遣はす。 謹んで按ずるに、是れ其の臣に資するの始めなり。蓋し其の風聲を樹て、以て人の耳目を異にし、其の勸勤の意を鼓舞し、其の善忠の實を興動する者は、人君治平の要道なり。故に賞して以て之を厚くし、待つに深きを以てして、而る後、其の任ずる所甚だ重く、其の責むる所能く通ず。天神、此の神を賞すること此くの如し。而して此の神、忠誠ならず、忽ちに中り還る投げ矢に、命を隕す。其の責の速やかに通ずること以て見るべきなり。後世、將を立つるに鉄鉞を賜ひ、其の器服を異にするは、皆賢を賢とする所以にして、有德を崇獎し、人心を興起す。端を是に造るは、乃ち外朝の旌淑なり。 皇孫、天鈿女命に勅す、汝、宜しく顯せる所の神名を以て姓氏と爲せ、と。因りて猿女君の號を賜ふ。故に猿女君等、男女皆呼びて君と爲す。此れ其の緣なり。 謹んで按ずるに、是れ其の功に因りて姓號を賜ふの始めなり。神武帝東征の日、日臣命は忠にして且つ勇、加ふるに導の功有り、以て道臣の名を賜ふ。蓋し姓名の號は、百世に流芳し、其の善心を鼓動する所以なり。故に姓を賜ひ氏を命ずるに必ず道有り。人臣、時君に禀けざれば、則ち其の氏と爲るを得ず。其の分、嚴なるかな。凡そ物部・大伴の姓と爲るは、其の威武を以てなり。〔饒速日命は物部氏の遠祖なり。物部とは武夫の訓なり。道臣命は大伴氏の遠祖なり。日本武尊、靱部を以て武日に賜ひ、以て大伴氏と爲す。〕中臣・忌部の姓と爲るは、其の中直にして祭祀を主るに因る。況んや藤・橘・菅・江の分、源・平・紀・淸の派、未だ嘗て其の勳業を以てせずんばあらず。夫れ名は實の著なり。實無くして名有れば、則ち竟に虛名と爲る。虛名にして之を後世に傳ふるは、臭を子孫に遺すなり。其の賜ふ所、其の受くる所、愼まざるべけんや。〔以上、賜の義。〕 神武帝辛酉年春正月庚辰朔、天皇、帝位に橿原宮に卽く。是の歲を天皇元年と爲す。故に古語に之を稱へて曰く、畝傍の橿原に、底磐の根に宮柱太立て、高天の原に搏風峻りて、始めて天下を馭す天皇、號して神日本磐余彥火火出見天皇と曰ふ、と。 謹んで按ずるに、是れ人臣の尊號を奉るの始めなり。神代にも旣に尊・命の說有るなり。凡そ善惡の應は終に掩ふべからず。故に臣に善惡有れば君之を糺し、君の善惡は天必ず之を糺す。天言はずして人之に代はる。所謂尊號の善惡是れなり。後世に諡の制有るに至り、唯だ人君の其の臣を賞黜するに非ず、臣子も亦た其の君父を議す。臣子議するを非とせば、天下以て之を議す。天下の議は、天の命なり。君臣の道、愼まざるべけんや。夫れ一時の好惡を以て、百世の榮辱を蒙る。未だ其の履歷を知らずして、一たび其の號諡を聞けば則ち其の人を知る。故に人心を勸化し、善惡を興懲する所以の者は此に在り。然れば乃ち賞刑の實は人君に本づき、以て天下に流る。行ひの迹、功の表は、己より出でて、人に成る。是れ其の終に掩ふべからざるなり。〔以上、尊號の禮。〕
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『中朝事実』禮儀章・官を立てる礼と文武の二職神武帝二年春二月甲辰朔乙巳、天皇功を定め賞を行ひ、道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑に居らしめ、以て寵異す。亦大來目をして畝傍山以西の川邊の地に居らしむ。今、來目邑と號す。此れ其の緣なり。珍彥を以て倭國造と爲す〔珍彥、此に于磐毗故と云ふ。〕。又弟猾に猛田邑を給ふ。因りて猛田縣主と爲す。是れ菟田主水部の遠祖なり。弟磯城黑速を、磯城縣主と爲す。復た劒根といふ者を以て葛城國造と爲す。 一書に曰く、此の時天兒屋根命の孫天種子命、專ら祭祀の事を主る。是れ乃ち朝政を執るの儀なり。 謹んで按ずるに、是れ功臣を封じ官職を立つるの初めなり。 崇神帝十年秋九月、四道將軍に命ず。 謹んで按ずるに、是れ武官を立つるの初めなり。 景行帝五十一年秋八月己酉朔壬子、武内宿禰に命じて棟梁の臣と爲す。 謹んで按ずるに、是れ大臣を以て棟梁の臣と爲すなり。成務帝の朝に初めて大臣と號す。仲哀帝の朝に大連の號有り。大臣・大連相並びて天下の政を知る。 成務帝五年秋九月、諸國をして國郡を以て造長を立て、縣邑に稻置を置かしむ。 謹んで按ずるに、是れ國郡守司を立つるの始めなり。初め國造・縣主の號有りて、未だ其の職掌を致さず。此に及び其の器を撰びて以て其の官を授く。 推古帝十一年冬十二月戊辰朔壬申、始めて冠位十二階を行ふ。孝德帝大化五年春正月、始めて八省百官を置く。 謹んで按ずるに、是れ百官を立つるの始めなり。先に是れ群臣・百寮・諸卿・有司の名有りと雖も、未だ其の職掌を致さず。此に至りて八省百官を置き、始めて群臣の職分定まり、天下其の禮を知る。文武帝に及び、律令を撰び、大いに官位職員を定め、其の後損益相續ぎて、萬世之を襲ひ、以て準據と爲す。蓋し官を立つるは治平の道にして、其の事有れば則ち其の職無くんばあらず、其の職有れば則ち其の官無くんばあらず、其の官有れば則ち其の位無くんばあらず。是れ物有れば必ず則有るなり。既に官を立て位を設くれば、則ち其の道其の禮未だ嘗て之を正さずんばあらず。竊かに按ずるに、官は惟れ百なれども、其の統ぶる所は文武の二職に在り。文は以て禮を守り、武は以て違ひを糺す。故に草業には乃ち武臣を以て其の功を立て、守成には乃ち文臣を以て其の禮を正す。文武互ひに根とし、先後は時を以てし、而して一人を輔佐す。是れ乃ち往古の神聖、經津主神・建雷神を以て諸の不順を平らげしめ、二神に命じて天孫に侍らしめ、且つ天忍日命を先にせし所以なり。故に神武帝、道臣命・饒速日命を封賞し、天種子命・天富命をして以て左右と爲さしめ、歷代因循して此の二職を重んず。夫れ土地有れば則ち其の司を立て、人民有れば則ち其の長帥を建て、物有れば則ち其の司を設け、事有れば則ち其の職を令し、而して師を置きて以て其の道を敎へ、監を立てて以て其の務を省み、以て其の禮を糺し、其の事を記し、法を萬世に垂れ、治平を天下に期す。是れ乃ち官を立つるの禮なり。官立ち位定まれば、則ち百寮有司及び四民の制、其の禮自ら正し。官位の尊卑に因り、以て家宅衣服を制し、飮食器用を設け、交際言語の法を定め、冠婚喪祭の禮を正し、三綱を擧げて明德を明らかにす。立官の義、其の用大なるかな。否らざれば乃ち官は空しく設け位は虛名にして、其の人に非ずして其の職を貪り、其の功無くして其の高きに居る。玆に於て百官大いに紊れ、職掌日に違ふこと、猶ほ桃梗土偶の金蟬貂に附くが如し。故に天下の禮上に混じ、四民下に僭紊す。豈に往古神聖の心ならんや。〔以上、立官の禮を謂ふ。〕
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『中朝事実』禮儀章・朝賀の儀と誓約・盟神探湯の礼神武帝辛酉の年春正月庚辰朔、天皇帝位に橿原宮に卽く。是の歲を天皇の元年と爲す。故に古語に之を稱して曰く、「畝傍の橿原に、太く宮柱を底磐の根に立て、峻く搏風を高天の原に峙てて、始めて天下を馭す天皇」と。號して神日本磐余彥火火出見天皇と曰ふ。初め天皇天基を草創するの日なり。大伴氏の遠祖道臣命、大來目部を帥ゐ、密策を奉承し、能く諷歌・倒語を以て、妖氣を掃蕩す。倒語の用、玆に始起す。 謹んで按ずるに、是れ朝儀賀正旦の始めなり。是の歲は卽位の元年、故に正月の賀有り。後世の歲首に朝賀の禮を行ふに同じからずと雖も、賀正旦、此に始まる。是れ乃ち朝儀の禮なり。凡そ朝儀は朝廷の禮儀なり。朝廷は天地を以て其の基を立て、天下は朝廷を以て標準と爲す。朝廷の威儀は以て嚴正なるに在り。凡そ王朝の禮に、年中行事有り、恒例有り、臨時有り、每月の禮有り、公侯朝聘の禮有り、饗燕の禮有り、巡守・田獵・大射の禮有り、神社祭禮有り。而して歲首慶賀の禮を以て大儀と爲す。正月は一年の始め、歲序端を更め、萬物惟れ新たなるの節なり。臣子畢く朝會拜賀し、其の慶びを奉ずるは、信義の當然なり。蓋し朝儀は一ならず、代代の聖主、或いは其の例を追ひ其の風を慕ひ、或いは新たに其の儀を立て、其の制を斟酌して、而る後に悉く備はる。其の間多く習俗の儀有りて、以て因循し來たる。又以て禮の大意を存するに足る。竊かに惟ふに、朝賀は臣子、宸儀を拜慶するの禮なり。否らざれば乃ち臣子の情安んずべからず。故に一月に朔・望・晦の禮有り、其の間又大朝賀の節有り。群臣悉く敬を君上に致し、以て祝頌を奉る。是れ臣子の分定まるなり。宴會は君上、宴を群臣に賜ふなり。饗有り、食有り、燕有り。此れ上下交はり、君臣德を和し業を成し、相親愛する所以なり。故に朝賀を以て尊卑の禮を嚴にし、燕會を以て上下の情を和す。朝賀に由りて其の威儀を正し、燕會に因りて其の風雅を作す。外は則ち以て禮容を觀、内は則ち以て恩惠を廣む。然れば乃ち徒に之を威し之を儀するに非ず、徒に之を飮ませ之を食はしむるに非ず、皆恭儉を訓へ惠慈を示す所以なり。夫れ王朝の儀は舊紀に粲然として載す。然れども能く其の事物を致して以て其の儀を正せば、乃ち其の禮大成し、朝儀の實を啓くべし。後世必ず外朝の例を以て附會するは、中國の禮、尤も正しからざるの至りなり。〔以上、王朝の禮を謂ふ。〕 素戔鳴尊昇天の時、溟渤以て鼓盪し、山岳之が爲に鳴呴す。此れ則ち神性雄健にして之をして然らしむるなり。天照太神、素より其の神の暴惡なるを知り、徑ちに詰問す。素戔鳴尊對へて曰く、「吾元より黑心無し」と。時に天照太神復た問ひて曰く、「若し然らば、將に何を以て爾の赤心を明らかにせんや」と。對へて曰く、「請ふ、姉と共に誓はん。夫れ誓約の中〔誓約の中、此に宇氣譬能美難箇と云ふ。〕必ず當に子を生むべし。如し吾が生む所是れ女ならば、則ち以て濁き心有りと爲すべし。若し是れ男ならば、則ち以て清き心有りと爲すべし」と。 謹んで按ずるに、是れ神代の誓約、乃ち後世誓盟の禮なり。凡そ誓は、己が信を明らかにし、人の疑ひを解く所以なり。事物の間、或いは未だ嘗て其の疑ひ無くんばあらず。疑ひを解くの道は誓約に在り。鬼神に祈り、信を幽冥に期す。故に天神、誓を許して以て其の清濁の心を明らかにす。後世之に因り、終に誓盟の禮有り。蓋し誓は唯だ言辭を以て神祇に請ひて其の信を約するなり。盟は物を以て其の事を證し、直ちに其の信僞を決するなり。遠く神明に請ひ、血を瀝りて之を書に載す。其の禮、誓より嚴なり。猶ほ埿を釜に納れて煮沸し、手を攘ひて湯埿を探り、斧を燒きて火色にして掌に置くがごとし。是を盟神探湯と曰ふ。〔盟神探湯、此に區訶陀智と云ふ。〕後世に及び、載書を作り血を瀝り神祇に告ぐるの禮有り。〔孝德帝卽位し、群臣を召集し、天神地祇に盟ひ告げて曰く、「天は覆ひ地は載せ、帝道は唯だ一なり。而るに末代澆薄にして、君臣序を失ふ。皇天手を我に假し、暴逆を誅珍す。今共に心血を瀝り、今より以後、君に二政無く、臣に貳朝無し。若し此の盟に貳せば、天災地妖、鬼誅人伐せん。皎として日月の如し」と。〕人皆聖賢に非ず、信有り僞有り、直有り曲有り。正は疑ふべからざる有り、奸は疑ひ無かるべからざる有り。是れ天下の通情なり。神聖の敎、人情事變に通じ、詳らかに其の道を致す。故に端を此に起し、戒めを後に垂る。言以て之を結び、明神以て之を要す。天下の疑惑忽ち解けて、事物の大義決行すべし。否らざれば乃ち人人疑ひを存すべく、戸戸各々辨ずべし。今、誓盟の禮を襲ひ、信僞曲直、一擧に道に歸す。其の禮たる大なるかな。或ひと疑ふ、君子屢々盟へば、亂是を以て長ず。誓を作して民始めて畔き、會を作して民始めて疑ふ、と。愚謂へらく、聖人の道、能く天下の人情に從ふ。故に偏無く倚無し。徒杠と梁と成りて、而る後に民水を涉るに病まず。盟誓以て約して、而る後に民其の疑ひを免るべし。人毎に之を試みるも、亦足らず。然れども盟誓は必ず禮有り。之を用ゐるに禮を以てせざれば、民畔きて恥ぢず。何ぞ必ずしも誓盟を用ゐんや。凡そ知や仁や其の道を致さざれば、猶ほ荑稗に如かず。專ら神屢々盟ふを要するは、是れ之を用ゐるに禮を以てせざるなり。周豐の言の如く、過ちて徴無し、何ぞ之を取るに足らんや。〔以上、誓盟の禮を論ず。〕