智囊 / 狡黠・陳乞
陳乞曰:「夫千乘之王,廢正而立不正,必殺正者。吾不立子,所以生子也,走矣!」與之玉節而走之。景公死,荼立。陳乞使人迎陽生置於家。除景公之喪,諸大夫皆在朝,陳乞曰:「常之母有魚菽之祭,願諸大夫之化我也。」諸大夫皆曰:「諾。」於是皆之陳乞之家。陳乞使力士舉巨囊而至於中霤,諸大夫見之皆色然而駭,開之,則闖然公子陽生也。陳乞曰:「此君也已。」諸大夫不得已,皆逡巡北面再拜稽首而君之,自是往弒荼。〔評議〕自陳氏厚施,已有代齊之勢矣,所難者,高、國耳。高、國既除,諸大夫其如陳氏何哉?弒荼立陽生,旋弒陽生立壬,此皆禪國中間過文也。六朝之際,此伎倆最熟,陳乞其作俑者乎?
新字:陳乞曰:「夫千乗之王,廃正而立不正,必殺正者。吾不立子,所以生子也,走矣!」与之玉節而走之。景公死,荼立。陳乞使人迎陽生置於家。除景公之喪,諸大夫皆在朝,陳乞曰:「常之母有魚菽之祭,願諸大夫之化我也。」諸大夫皆曰:「諾。」於是皆之陳乞之家。陳乞使力士舉巨嚢而至於中霤,諸大夫見之皆色然而駭,開之,則闖然公子陽生也。陳乞曰:「此君也已。」諸大夫不得已,皆逡巡北面再拝稽首而君之,自是往弒荼。〔評議〕自陳氏厚施,已有代斉之勢矣,所難者,高、国耳。高、国既除,諸大夫其如陳氏何哉?弒荼立陽生,旋弒陽生立壬,此皆禅国中間過文也。六朝之際,此伎倆最熟,陳乞其作俑者乎?
書き下し
陳乞曰く、「夫れ千乗の王、正を廃して不正を立つれば、必ず正なる者を殺す。吾が子を立てざるは、子を生かす所以なり。走れ」と。之に玉節を与えて之を走らしむ。景公死し、荼立つ。陳乞は人をして陽生を迎え、家に置かしむ。景公の喪を除くに、諸大夫は皆朝に在り。陳乞曰く、「常の母に魚菽の祭り有り、願わくは諸大夫の我を化えんことを」と。諸大夫は皆曰く、「諾」と。是に於いて皆陳乞の家に之く。陳乞は力士をして巨囊を挙げて中霤に至らしむ。諸大夫は之を見て皆色然として駭く。之を開けば、則ち闖然として公子陽生なり。陳乞曰く、「此れ君なるのみ」と。諸大夫は已むを得ず、皆逡巡して北面して再拝稽首して之を君とす。是れより往きて荼を弑す。〔評議〕陳氏の厚く施すより、已に斉に代わるの勢い有り。難き所の者は、高・国のみ。高・国既に除かれば、諸大夫は其れ陳氏を如何せん。荼を弑して陽生を立て、旋ち陽生を弑して壬を立つは、此れ皆禅国の中間の過文なり。六朝の際、此の伎倆は最も熟す。陳乞は其れ作俑者か。
現代語訳
陳乞は言った。「千乗の大国の君主が、正統な者を廃して正統でない者を立てれば、必ず正統な者を殺します。私があなたを立てないと言ったのは、あなたを生かすためです。逃げてください」。陽生に玉の割符を与えて逃がした。景公が死ぬと、荼が立った。陳乞は人をやって陽生を迎え、自分の家に置いた。景公の喪が明けると、諸大夫がみな朝廷に集まった。陳乞は言った。「常の母が魚と豆の供物の祭りをするので、どうか諸大夫の皆さんに私の家に来て変わった味を味わっていただきたい」。諸大夫はみな言った。「承知した」。そこでみな陳乞の家へ行った。陳乞は力士に大きな袋を持ち上げさせ、屋敷の中庭に持って来させた。諸大夫はそれを見て、みな顔色を変えて驚いた。開けると、突然現れたのは公子陽生であった。陳乞は言った。「これが君主です」。諸大夫はやむを得ず、みなためらいながら北に向かって再拝し、頭を地につけて陽生を君主とした。それから出かけて荼を殺した。〔評議〕陳氏が手厚く施しをして以来、すでに斉に代わる勢いがあった。難しかったのは高氏と国氏だけである。高氏と国氏が除かれてしまえば、諸大夫は陳氏をどうすることができようか。荼を殺して陽生を立て、すぐに陽生を殺して壬を立てたのは、すべて国を乗っ取る中間の形式的な手続きである。六朝の時代には、この手口が最も熟していた。陳乞はその創始者だろう。
解説
この章句が説くこと
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