智囊 / 雄略・朱序母・唐平陽昭公主
朱序鎮襄陽,苻堅遣其將苻丕率眾圍之。先是序母韓氏親登城審勢,謂西北角當先受敵,乃率百餘婢並城中女丁,於其角頭預斜築城二十餘丈,其後賊攻城,西北角果潰,憑新築處固守,得完。襄陽人遂號其築為「夫人城」。唐平陽昭公主,大穆皇后所生,下嫁柴紹。初高祖兵興,主居長安。紹曰:「尊公將以兵清京師,我欲往,恐不能偕,奈何?」主曰:「公行矣,我自為計。」紹詭道走并州,主奔鄠,發家資,招南山亡命,得數百人以應帝。遣家奴馬三寶諭降名賊何潘仁,因略地至盩厔、武功,紀律嚴明,遠近咸附。勒兵七萬,威震關中。帝渡河,紹以數百騎從南山來,主引精兵萬人,與秦王會渭北。紹及主對置幕府,京師號「娘子軍」。
新字:朱序鎮襄陽,苻堅遣其将苻丕率衆囲之。先是序母韓氏親登城審勢,謂西北角当先受敵,乃率百余婢並城中女丁,於其角頭預斜築城二十余丈,其後賊攻城,西北角果潰,憑新築処固守,得完。襄陽人遂号其築為「夫人城」。唐平陽昭公主,大穆皇后所生,下嫁柴紹。初高祖兵興,主居長安。紹曰:「尊公将以兵清京師,我欲往,恐不能偕,奈何?」主曰:「公行矣,我自為計。」紹詭道走并州,主奔鄠,発家資,招南山亡命,得数百人以応帝。遣家奴馬三宝諭降名賊何潘仁,因略地至盩厔、武功,紀律厳明,遠近咸附。勒兵七万,威震関中。帝渡河,紹以数百騎従南山来,主引精兵万人,与秦王会渭北。紹及主対置幕府,京師号「娘子軍」。
書き下し
朱序が襄陽に鎮するとき、苻堅はその将苻丕を遣わして衆を率いて囲ませた。これより先、序の母韓氏は親ら城に登って勢を審らかにし、西北の角が当に先ず敵を受けるはずだと謂い、そこで百余の婢と城中の女丁を率い、その角頭に預め斜めに城を築くこと二十余丈であった。その後賊が城を攻め、西北の角は果たして潰えたが、新築した処に憑って固守し、完きを得た。襄陽の人は遂にその築を号して「夫人城」とした。唐の平陽昭公主は、大穆皇后の生む所で、柴紹に下嫁した。はじめ高祖の兵が興ったとき、主は長安にいた。紹は言った、「尊公がまさに兵を以て京師を清めようとする。我は往きたいが、偕に行けないのを恐れる。どうしようか。」主は言った、「公は行きなさい。我は自ら計を為す。」紹は詭って并州に道して走り、主は鄠に奔り、家資を発し、南山の亡命を招き、数百人を得て以て帝に応じた。家奴の馬三宝を遣わして名賊の何潘仁に諭降させ、よって地を盩厔、武功に略し、紀律が厳明で、遠近が咸附いた。兵七万を勒し、威は関中を震わせた。帝が河を渡ると、紹は数百騎を以て南山より来て、主は精兵万人を引いて、秦王と渭北で会した。紹と主は幕府を対置し、京師は「娘子軍」と号した。
現代語訳
朱序が襄陽を守っていたとき、苻堅は部将の苻丕に大軍を率いさせて包囲した。これより前に、序の母の韓氏は自ら城壁に登って情勢を調べ、西北の角が最初に敵の攻撃を受けるだろうと見て、百人余りの下女と城中の女たちを率いて、その角の内側にあらかじめ斜めに二十丈余りの城壁を築いた。その後、賊が城を攻めると、西北の角は予想どおり崩れたが、新しく築いた壁を拠りどころに固く守り、城は無事であった。襄陽の人々はこの築いた壁を「夫人城」と呼んだ。唐の平陽昭公主は、大穆皇后が産んだ娘で、柴紹に嫁いだ。はじめ高祖が挙兵したとき、公主は長安にいた。柴紹は言った。「あなたの父上は兵を率いて都を平定しようとしておられる。私も行きたいが、一緒に行けないのが気がかりだ。どうしよう。」公主は言った。「あなたは行ってください。私は自分で計らいます。」柴紹はひそかに并州へ向かって逃げ、公主は鄠県に走り、家の財産を使って、南山の亡命者を募り、数百人を集めて高祖に呼応した。家奴の馬三宝を遣わして、有名な賊の何潘仁を説得して降伏させ、さらに盩厔、武功の地を攻略し、規律が厳しく、遠近の人がみな従った。兵七万を率い、威勢は関中を震わせた。高祖が黄河を渡ると、柴紹は数百騎を率いて南山から到着し、公主は精兵一万人を率いて、秦王(李世民)と渭水の北で合流した。柴紹と公主はそれぞれ幕府を設けて向き合い、都の人々はその軍を「娘子軍」と呼んだ。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』雄略・劉太妃太妃劉氏は、晋王克用の妻である。克用が黄巣を追って軍を還して梁を過ぎたとき、朱温は陽に歓宴を為し、陰に兵を伏せ、夜半にこれを攻めた。克用は逃げ帰り、すぐに温を撃つことを議した。劉は諫めて言った、「公は本もと国の為に賊を討ったのです。いま梁の事はまだ暴かれず、遽かに兵を反して相い攻めるなら、天下はこれを聞いて、曲直を分かたないでしょう。軍を斂めて鎮に還り、自ら朝に訴え、しかる後に罪を声すべきです。」克用は悟ってこれに従い、天下はここにおいて温を直しとしなかった。〔按〕克用が上源駅に困しんだとき、左右の先に脱して帰った者は、汴人が変を為したことを劉に告げた。劉は神色を動かさず、立ちどころにこれを斬り、陰かに大将を召して約束し、軍を保って還ることを謀った。これは智勇であり、どうして克用の及ぶ所であろうか。仮令い克用が不幸にして死んでも、必ず張茂の妻となり得ただろう。設い猶お幸いに未だ死ななくても、必ず邵続の女となり得ただろう。そうであっても、張茂の妻、邵続の女となるのは易く、劉太妃となるのは難い。なぜか。その勇は及ぶべきだが、その智は及ぶべからざるからである。張茂は呉郡の守となり、江充に害せられ、妻の陸氏は茂の部曲を率いて先登となり充を討った。充は敗れ、ついに陸に殺された。邵続の女は劉遐に嫁ぎ、遐は石季龍に困しめられた。女は数騎を将いて囲みを抜け、遐を万人の中から出した。
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『智囊』雄略・劉知遠妻・李景讓母劉智遠は晋陽に至り、民財を率いて将士に賞することを議した。夫人李氏は諫めて言った、「陛下は河東に因って大業を創められましたが、まだ恵沢が民に及んでおらず、先にその生資を奪うのは、おそらく新天子が民を救う意に非ざるものです。請う、軍中の所有を悉く出して労軍されよ。重ねて厚くなくとも、人に怨言はないでしょう。」智遠はこれに従い、中外は大いに悦んだ。唐の李景譲の母鄭氏は、性が厳明であった。景譲が宦達し、髪はすでに斑白であったが、小さな過ちがあれば捶楚を免れなかった。その浙西観察使となったとき、牙将に意に逆らう者があり、これを杖して斃した。軍中は憤怒し、変を為そうとした。母はこれを聞き、出でて庁事に坐し、景譲を庭に立たせてこれを責めて言った、「天子は汝に方面を付した。どうして国家の刑法を喜怒の資とし、妄りに無罪を殺してよいか。万一、一方の不寧を致せば、豈に唯だ上は朝廷に負くのみならず、垂老の母をして羞を含んで地に入らせ、何を以て汝の先人に見えようか。」左右に命じてその衣を褫がせ、その背を撻とうとした。将佐は皆これを請い、久しくして釈した。軍中は遂に安んじた。〔按〕鄭氏は早く寡となり、家は貧しく子は幼く、母が自らこれを教えた。宅の後ろの牆が陥ち、銭が船に盈ちるほど得た。母はこれを祝して言った、「吾は聞く、労なくして獲るのは、身の災いであると。天がもし我が貧を矜れむなら、願わくは諸孤が学問を成すことを。これは敢えて取らぬ。」遽かにこれを掩って築いた。婦人の中の大見識の者である。景譲の弟の景荘は、場屋に老いた。黜けられるたびに、母は輒ち景譲を撻った。この事は笑うべきであるが、景譲は終に主司に属することを肯んぜず、言った、「朝廷が士を取るのは、自ずから公道がある。どうして人に倣って関節を求めてよいか。」義方に漸ること深かったのである。
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『智囊』雄略・李侃妻建中の末、李希烈が汴州を陥れ、陳を襲おうと謀った。李侃は項城の令となっていたが、逃げ去ろうとした。婦は言った、「寇がまさに至ろうとしています。守るべきです。力が足りなければ死ぬだけです。どうして逃げましょう。もし重賞で死士を募れば、守るべきです。」侃は吏民を召して告げた、「令は誠に客のようなもので、歳が満ちれば去るもので、吏民がこの土に生まれたのとは違う。しかし墳墓はみな在る。相い与に力を竭くして死守すべきである。」衆はみな泣いた。そこで徇げて言った、「瓦石で賊を撃つ者は、賞銭千。刀矢で賊を殺す者は、賞銭万。」数百人を得て、率いて城に乗らせ、婦は自ら炊爨して衆に享し、賊に報じさせて言った、「項城の父老は、義として賊に下らない。吾が城を得ても威とするに足りず、徒らに和を失い、益がない。」たまたま侃が流れ矢に中って走り還った。妻は怒って言った、「君がいなければ、誰が守るでしょう。外に死ぬのは牀に死ぬより愈ではありませんか。」侃はそこで城に登り、賊は引き去り、県の卒は完かった。
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人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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