智囊 / 雄略・宋太祖姊
宋太祖將北征,京師喧言「軍中欲立點檢為天子」。太祖告家人曰:「外間詾詾如此,將若之何?」太祖姊方在廚,引麵杖擊太祖,逐之曰:「丈夫臨大事,可否當自決於懷,乃來家間恐怖婦女何為耶?」太祖默而出。〔議〕分明勸駕。
新字:宋太祖将北征,京師喧言「軍中欲立点検為天子」。太祖告家人曰:「外間詾詾如此,将若之何?」太祖姊方在廚,引麺杖撃太祖,逐之曰:「丈夫臨大事,可否当自決於懐,乃来家間恐怖婦女何為耶?」太祖黙而出。〔議〕分明勧駕。
書き下し
宋の太祖が将に北征しようとするとき、京師は喧しく「軍中は点検(趙匡胤)を立てて天子としようとしている」と言った。太祖は家人に告げた、「外間の詾詾はかくの如し。これをどうしようか。」太祖の姉はちょうど厨にいて、麺杖を引いて太祖を撃ち、これを逐って言った、「丈夫は大事に臨んでは、可否は自ら懐に決すべきである。家の中に来て婦女を恐怖させて何をするのか。」太祖は黙って出た。〔議〕分明に勧駕である。
現代語訳
宋の太祖(趙匡胤)が北方への出征に出ようとしていたとき、都では「軍中では殿前都点検(趙匡胤)を天子に立てようとしている」という噂が喧しかった。太祖は家の者に言った。「世間ではこんなふうに騒いでいる。どうしたものか。」太祖の姉はちょうど台所にいて、麺棒を取って太祖を打ち、追い払って言った。「男子たる者は、大事に臨んだら、よいか悪いかは自分の胸の内で決めるものです。それを家の中に来て女子供を怖がらせて、どうするつもりです。」太祖は黙って出て行った。〔議〕これは明らかに、即位を勧めているのである。
解説
噂を聞いて動揺した太祖は、姉に相談するという形で責任を分かち合おうとしました。姉は麺棒で打つという荒っぽい叱責で、決断を人に委ねるなと突き放しています。馮夢龍は、これを実質的には即位を促す言葉と読んでおり、批判の形で決意を後押しする効果を見ています。管理職が重要な意思決定を前にして、部下や周囲に意見を求めすぎ、実際には自分の腹が決まっていない場面は多くあります。そのとき必要なのは新たな情報ではなく、決める覚悟です。身近な人が厳しい言葉でそれを突きつけてくれるのは、貴重な支えでもあります。ただし、史実としての確かさは、この話だけでは断定できません。
この章句が説くこと
丈夫臨大事自決於懐麺杖決断覚悟後押し
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