智囊 / 集哲・屈原姊
屈原既放逐。其姊聞之,亦來歸,責原矯世,喻令自寬,故其地名姊歸縣。《離騷》曰:「女嬃之嬋媛兮,申申其詈餘。」〔評議〕梁公委蛇,其姊諷之以方正;仁杰往候盧姨,欲為表弟求官,盧曰:「姨只一子,不欲其事女主。」仁杰大慚;屈平方正,其姊進之以委蛇。各具卓識,而姊之作用大矣。
新字:屈原既放逐。其姊聞之,亦来帰,責原矯世,喩令自寛,故其地名姊帰県。《離騷》曰:「女嬃之嬋媛兮,申申其詈余。」〔評議〕梁公委蛇,其姊諷之以方正;仁杰往候盧姨,欲為表弟求官,盧曰:「姨只一子,不欲其事女主。」仁杰大慚;屈平方正,其姊進之以委蛇。各具卓識,而姊之作用大矣。
書き下し
屈原既に放逐せられ、其の姊之を聞き、亦た来たり帰り、原の世を矯むるを責め、喩して自ら寛くせしむ。故に其の地を姊帰県と名づく。『離騒』に曰く、「女嬃の嬋媛たる、申申として其れ余を詈る」と。〔評議〕梁公は委蛇たり、其の姊之を諷するに方正を以てす。仁杰往きて盧姨を候い、表弟の為に官を求めんと欲す。盧曰く、「姨は只だ一子、其の女主に事うるを欲せず」と。仁杰大いに慚ず。屈平は方正なり、其の姊之に進むるに委蛇を以てす。各々卓識を具え、而して姊の作用は大なり。
現代語訳
屈原が追放されると、その姉はそれを聞いて、帰ってきた。そして屈原が世に逆らいすぎるのを責め、ゆったりと構えるよう諭した。それでその土地を姊帰県と名づけた。『離騒』にいう。「女嬃は気遣いながら、くどくどと私を叱る」。〔評議〕梁公(狄仁傑)は融通のきく人で、その姉は彼に方正さを諭した。仁傑がかつて盧姨を訪ね、従弟のために官職を求めようとした。盧姨は言った。「私にはただ一人の子しかおらず、女帝に仕えさせたくありません」。仁傑は大いに恥じた。屈平(屈原)は方正な人で、その姉は彼に柔軟さを勧めた。それぞれ優れた見識があり、姉(や身内の女性)の働きは大きい。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
孟子・告子章句下魯、慎子をして將軍為らしめんと欲す。孟子曰く、「民を教えずして之を用うるは、之を民を殃すと謂う。民を殃する者は、堯舜の世に容れられず。一たび戰いて齊に勝ち、遂に南陽を有つとも、然も且つ不可なり。」慎子勃然として悅ばずして曰く、「此は則ち滑釐の識らざる所なり。」曰く、「吾、に明らかに子に告げん。天子の地は方千里。千里ならざれば、以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地は方百里。百里ならざれば、以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるるや、方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。太公の齊に封ぜらるるや、亦た方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。今魯は方百里なる者五あり。子以為らく、王者作ること有らば、則ち魯は損する所在るか、益する所在るかと。徒に諸を彼に取りて以て此に與うるすら、然も且つ仁者は為さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に當り仁に志さしむるのみ。」
-
史記 殷本紀伊尹之を嘉し、迺ち太甲訓三篇を作り、帝太甲を襃めて、太宗と称す。太宗崩じ、子沃丁立つ。帝沃丁の時、伊尹卒す。既に伊尹を亳に葬り、咎単遂に伊尹の事を訓へ、沃丁を作る。沃丁崩じ、弟太庚立つ。是を帝太庚と為す。帝太庚崩じ、子帝小甲立つ。帝小甲崩じ、弟雍己立つ。是を帝雍己と為す。殷の道衰へ、諸侯或いは至らず。帝雍己崩じ、弟太戊立つ。是を帝太戊と為す。
-
論語・顔淵篇子曰く、『君子は人の美を成し、人の悪を成さず。小人は是に反す。』
-
『春秋左氏伝』襄公三十年 王子必ず免れず裨灶之を指して曰く、「猶ほ以て歲を終ふべし。歲此の次に及ばざるのみ」と。其の亡ぶるに及びてや、歲は娵訾の口に在り。其の明年、乃ち降婁に及ぶ。僕展伯有に從ひ、之と皆死す。羽頡出でて晉に奔り、任の大夫と為る。雞澤の會に、鄭の樂成楚に奔り、遂に晉に適く。羽頡之に因り、之と比して趙文子に事へ、鄭を伐つの說を言ふ。宋の盟の故を以て、可かず。子皮公孫鉏を以て馬師と為す。楚の公子圍大司馬蒍掩を殺して其の室を取る。申無宇曰く、「王子必ず免れざらん。善人は國の主なり。王子楚國に相として、將に善を是れ封(つちか)ふべし。殖して之を虐ぐるは、是れ國に禍するなり。且つ司馬は令尹の偏にして、王の四體なり。民の主を絕ち、身の偏を去り、王の體を艾りて、以て其の國に禍す。不祥焉より大なるは無し。何を以てか免るるを得ん」と。宋の災の為の故に、諸侯の大夫會し、以て宋の財を歸さんことを謀る。
-
『講孟余話』公孫丑下 第十章「国に中して孟子に室を授け、弟子を養ふに万鍾を以てし、諸大夫国人をして、皆矜式する所あらしめん」。是れ孟子を待つ所以に非ざること固なり。何となれば是の時天下方に有為の時に当れり、而して孟子は乃ち有為の人なり。有為の時に当りて有為の人を捨つ、其れ何を以て政をなさんや。抑々今時を以て是れを言ふに、国の中に当り大いに養賢堂を興し(今の大学校の外、別に養賢堂を興すと云ふには非ず、文を以て意を害することなかれ)、天下の賢豪を倩ひ、尊びて師とし、優するに厚禄を以てし、士大夫国人の秀俊なる者を募り、是れに従はしめば、人才勃興、日を刻して待つべし。是れ余が願欲する所なり。然れども爰に一難あり、令する所に従はずして好む所に従ふは、人情の常然り。故に天下の賢豪を得ると雖も、君相真に是れを尊奉し、其の言ふ所を信用するに非ずんば、士大夫国人誰か敢へて之れを矜式せんや。亦斉王の已に孟子の言を用ひず、又其の去るを恥ぢ、此の已むを得ざるの一策をなすに同じきのみ。是れ亦知らざるべからず。然らば則ち如何。曰く、近世米沢の鷹山公の紀平洲を尊信する如き、是れに近しとす。
-
『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事御先々前御代に奥の御物書部屋には右京太夫伊賀守か下に御小姓御小納戸の内より勤むる者ありて付居、下に坊主なとのたくひ留役と成りて勤めたり、其の御物書部屋を勤めたるともから何れも事になれて、今に重役に召しつかはるゝともから多し、然れは御旗本を召しつかはるゝ筋に兎角宜しかるへきことなり、唯今は何役も大形最初の出はゝ御目付になり、大抵夫より役抜けの筋極まりたるやうなる故、唯々例格式を覚え利口に走りまはるはかりを仕習はして才智の生すへきやうなし、其の上御目付は元来非法を咎むること当役なり、唯々殿中走りまはり御作法になるゝはかりのことなり、大方は御目付より外の役にもなること成る故非法を咎むる仕くせ遺りて、何れの役も当時は役抦と云ふもの一種ありて、物を咎むることを第一とす、是甚た宜しからさることなり、惣して一切の役儀に各〻その役〻に頭助允目ありて人を各別につかひ、其の才智の筋を見て誰々に役抜仰せ付けられは御人に事欠れ間敷なり、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る