孟子 / 告子章句下
魯欲使慎子為將軍。孟子曰、不教民而用之、謂之殃民。殃民者、不容於堯舜之世。一戰勝齊、遂有南陽、然且不可。慎子勃然不悅曰、此則滑釐所不識也。曰、吾明告子。天子之地方千里。不千里、不足以待諸侯。諸侯之地方百里。不百里、不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯、為方百里也。地非不足。而儉於百里。太公之封於齊也、亦為方百里也。地非不足也。而儉於百里。今魯方百里者五。子以為有王者作、則魯在所損乎、在所益乎。徒取諸彼以與此、然且仁者不為。況於殺人以求之乎。君子之事君也、務引其君以當道志於仁而已。
新字:魯欲使慎子為将軍。孟子曰、不教民而用之、謂之殃民。殃民者、不容於堯舜之世。一戦勝斉、遂有南陽、然且不可。慎子勃然不悦曰、此則滑釐所不識也。曰、吾明告子。天子之地方千里。不千里、不足以待諸侯。諸侯之地方百里。不百里、不足以守宗廟之典籍。周公之封於魯、為方百里也。地非不足。而倹於百里。太公之封於斉也、亦為方百里也。地非不足也。而倹於百里。今魯方百里者五。子以為有王者作、則魯在所損乎、在所益乎。徒取諸彼以与此、然且仁者不為。況於殺人以求之乎。君子之事君也、務引其君以当道志於仁而已。
書き下し
魯、慎子をして將軍為らしめんと欲す。孟子曰く、「民を教えずして之を用うるは、之を民を殃すと謂う。民を殃する者は、堯舜の世に容れられず。一たび戰いて齊に勝ち、遂に南陽を有つとも、然も且つ不可なり。」慎子勃然として悅ばずして曰く、「此は則ち滑釐の識らざる所なり。」曰く、「吾、に明らかに子に告げん。天子の地は方千里。千里ならざれば、以て諸侯を待つに足らず。諸侯の地は方百里。百里ならざれば、以て宗廟の典籍を守るに足らず。周公の魯に封ぜらるるや、方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。太公の齊に封ぜらるるや、亦た方百里為り。地足らざるに非ず。而も百里に儉せり。今魯は方百里なる者五あり。子以為らく、王者作ること有らば、則ち魯は損する所在るか、益する所在るかと。徒に諸を彼に取りて以て此に與うるすら、然も且つ仁者は為さず。況んや人を殺して以て之を求むるに於てをや。君子の君に事うるや、務めて其の君を引きて、以て道に當り仁に志さしむるのみ。」
現代語訳
魯では、慎子を将軍に任命して、齊と一戦を交えようとしていた。それを見て孟子は言った。 「民を教え導きもせず戦争に用いるのは、民を不幸にするというものだ。民を不幸にするものは、堯や舜の治世では許されない。一戦交えて、たとい齊に勝って南陽の地を得ることが出来たとしても、戦うのはよくないことだ。」 慎子は顔色を変えて悦ばずに言った。 「そのようなことは、私には分からない事です。」 「でははっきり申し上げよう。天子の領地は千里四方ということになっているが、それくらいなければ、その収入で諸侯を待遇することが出来ないからだ。諸侯の領地は百里四方ということになっているが、それくらいなければ、先祖の廟を守り、定められた祭祀を行うことが出来ないからだ。周公が魯に封ぜられたとき、その領地は百里四方であった。別に与える土地が不足していたのでなく、百里四方に止めたのだ。太公望が齊に封ぜられたときも、領地は百里四方であった。同じく与える土地が不足していたのではなく、百里四方に止めたのだ。ところが今の魯の領地は百里四方の五倍もある。今もし王者が現れたとしたら、魯の領地は削られるだろうか、それとも増やされるだろうか。あなたはどちらだと思う。彼の國から土地を取り上げて、他の國に与えるということは、たといそれが人を殺さず平和的な手段であっても、仁者はしないものだ。まして人を殺して奪い取るなどはもってのほかである。君子が君に仕えるのは、主君を導いて正しい道に進ませ、仁道に志すようにさせることだ。それ以外の事はない。」
解説
この章句が説くこと
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