智囊 / 集哲・李畲母
監察御史李畲母,清素貞潔。請祿米送至宅,母遣量之,剩三石,問其故。史曰:「御史例不概。」問腳錢幾,又曰:「御史例不還腳車錢。」母怒,令送所剩米及腳錢,以責畲。及追倉官科罪,〔批:既沿例亦不必科罪。〕諸御史皆有慚色。
新字:監察御史李畲母,清素貞潔。請禄米送至宅,母遣量之,剰三石,問其故。史曰:「御史例不概。」問脚銭幾,又曰:「御史例不還脚車銭。」母怒,令送所剰米及脚銭,以責畲。及追倉官科罪,〔批:既沿例亦不必科罪。〕諸御史皆有慚色。
書き下し
監察御史李畲の母は、清素にして貞潔なり。禄米を請いて宅に送るに、母遣りて之を量らしむるに、剰ること三石。其の故を問う。史曰く、「御史は例として概せず」と。脚銭の幾何かを問えば、又た曰く、「御史は例として脚車の銭を還さず」と。母怒り、所剰の米及び脚銭を送らしめ、以て畲を責む。倉官を追いて罪を科するに及び、〔批:既に例に沿えば亦た罪を科する必要なし。〕諸御史皆な慚色有り。
現代語訳
監察御史の李畲の母は、質素で清廉であった。俸禄の米を請求して屋敷に送ってきたとき、母が量らせると、三石も余っていた。その理由を尋ねた。役人は言った。「御史には慣例として、升を平らにならしません」。運搬代はいくらかと尋ねると、また言った。「御史には慣例として、運搬の車代を返してもらいません」。母は怒り、余った米と運搬代を送り返させ、畲を叱責した。倉の役人を追及して罪を問うに及び、〔批:慣例に沿ったのなら罪を問う必要はない。〕御史たちはみな恥じる顔をした。
解説
この話は、慣例という名目で、少しずつ不当な利益を受けている状況を、当事者の母が断ち切った話です。御史は例として余分を受け取る習慣が通っていましたが、母はそれを本来の俸禄でないと見て、返すように命じました。重要なのは、慣れで見えなくなった特権を、外から冷静に眺めた点です。組織でも、先例だからと受け流している交際費や便宜が、後で信用を損なうことがよくあります。管理職は、自分たちの当たり前を定期的に見直し、慣例に頼らず説明できる基準を保つ必要があります。批に、慣例に従ったなら罪を問うまでもないとあるのは、制度を改めるのが先だという読みもでき、立場によって意見が分かれる箇所です。
この章句が説くこと
剰三石御史例不概不還脚車銭清廉信用慣例
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