智囊 / 集哲・劉娥
劉聰妻劉氏,名娥,甚有寵於聰。既冊後,詔起皇鳥儀殿以居娥。廷尉陳元達切諫,聰大怒,將斬之,娥私敕左右停刑,手疏上,略曰:「廷尉之言,關國大政,忠臣豈為身哉?陛下不唯不納,而又欲誅之,陛下此怒,由妾而起;廷尉之禍,由妾而招,人怨國怨,咎皆歸妾;拒諫戮忠,唯妾之故,自古敗亡之轍,未有不因於婦人者也。妾每覽古事,忿忿忘食,何意今日妾自為之,後人視妾,亦猶妾之視前人也,復何面目仰侍巾櫛,請歸死此堂,以塞陛下色荒之過。」聰覽畢,謂群下曰:「朕愧元達矣。」因手娥表,示元達曰:「外輔如公,內輔如娥,朕復何憂?」〔議〕姜后、樊姬、徐惠妃一流。
新字:劉聰妻劉氏,名娥,甚有寵於聰。既冊後,詔起皇鳥儀殿以居娥。廷尉陳元達切諫,聰大怒,将斬之,娥私勅左右停刑,手疏上,略曰:「廷尉之言,関国大政,忠臣豈為身哉?陛下不唯不納,而又欲誅之,陛下此怒,由妾而起;廷尉之禍,由妾而招,人怨国怨,咎皆帰妾;拒諫戮忠,唯妾之故,自古敗亡之轍,未有不因於婦人者也。妾毎覧古事,忿忿忘食,何意今日妾自為之,後人視妾,亦猶妾之視前人也,復何面目仰侍巾櫛,請帰死此堂,以塞陛下色荒之過。」聰覧畢,謂群下曰:「朕愧元達矣。」因手娥表,示元達曰:「外輔如公,内輔如娥,朕復何憂?」〔議〕姜后、樊姫、徐恵妃一流。
書き下し
劉聡の妻劉氏、名は娥、甚だ聡に寵せらる。既に后に冊せらるるや、詔して皇鳥儀殿を起こして以て娥を居らしめんとす。廷尉陳元達切に諫む。聡大いに怒り、将に之を斬らんとす。娥私かに左右に敕して刑を停め、手ずから疏を上せ、略に曰く、「廷尉の言は、国の大政に関わる。忠臣豈に身の為ならんや。陛下唯だ納れざるのみならず、又た之を誅せんと欲す。陛下の此の怒りは、妾に由りて起こる。廷尉の禍は、妾に由りて招く。人怨み国怨むも、咎は皆な妾に帰す。諫を拒み忠を戮す、唯だ妾の故なり。古より敗亡の轍は、未だ婦人に因らざる者有らず。妾古事を覧る毎に、忿忿として食を忘る。何ぞ意わん今日妾自ら之を為さんとは。後人の妾を視るも、亦た猶お妾の前人を視るがごとし。復た何の面目あって巾櫛に仰侍せん。請う帰して此の堂に死し、以て陛下の色荒の過ちを塞がん」と。聡覧終わりて、群下に謂いて曰く、「朕は元達に愧ず」と。因りて手ずから娥の表を元達に示して曰く、「外輔として公の如く、内輔として娥の如くんば、朕復た何をか憂えん」と。〔議〕姜后、樊姫、徐恵妃の一流なり。
現代語訳
劉聡の妻の劉氏、名は娥は、聡にたいそう寵愛された。后に立てられると、聡は詔を出して皇鳥儀殿を造り娥を住まわせようとした。廷尉の陳元達が強く諫めた。聡は大いに怒り、斬ろうとした。娥はひそかに側近に命じて刑を止めさせ、自ら上書して述べた。「廷尉の言葉は国の大政に関わります。忠臣が自分の身のために言うでしょうか。陛下は聞き入れないばかりか、誅しようとなさいます。陛下のこの怒りは私が原因で起こりました。廷尉の災いは私が招きました。人も国も恨みますが、咎はすべて私に帰します。諫めを拒み忠臣を殺すのは、ひとえに私のためです。昔から国を滅ぼす轍は、婦人によらなかったものはありません。私は古事を読むたびに憤り食事も忘れました。今日、私自らそれをなそうとは思いもしませんでした。後世の人が私を見るのは、私が昔の人を見るのと同じでしょう。どの面目で陛下のおそばに侍れましょう。どうかこの堂で死なせてください。陛下の色に溺れた過ちを償います」。聡は読み終えて群臣に言った。「私は元達に恥じる」。そして娥の上表を自ら元達に示して言った。「外の補佐が公のようで、内の補佐が娥のようなら、私は何を憂えようか」。〔議〕姜后、樊姫、徐恵妃の同類である。
解説
この章句が説くこと
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