智囊 / 武案・許逵
許逵,河南固始人。令樂陵,期月,令行禁止。時流賊勢熾,逵預築城濬隍,貧富均役,逾月而成。又使民各築牆,高過屋簷,仍開牆竇如圭,僅可容一人。家令一壯丁執刀,俟於竇內,其餘人皆入隊伍,令曰:「守吾號令,視吾旗鼓,違者從軍法。,」又設伏巷中,洞開城門。未幾,賊果至。火無所施,兵無所加;旗舉伏發,盡擒斬之,愚謂,近城要地,皆當仿此立牆,可使寇不臨城矣。
新字:許逵,河南固始人。令楽陵,期月,令行禁止。時流賊勢熾,逵預築城濬隍,貧富均役,逾月而成。又使民各築牆,高過屋簷,仍開牆竇如圭,僅可容一人。家令一壮丁執刀,俟於竇内,其余人皆入隊伍,令曰:「守吾号令,視吾旗鼓,違者従軍法。,」又設伏巷中,洞開城門。未幾,賊果至。火無所施,兵無所加;旗舉伏発,尽擒斬之,愚謂,近城要地,皆当仿此立牆,可使寇不臨城矣。
書き下し
許逵は河南固始の人なり。樂陵に令たり、期月にして令行われ禁止む。時に流賊の勢い熾んなり。逵、預め城を築き隍を濬え、貧富均しく役せしめ、月を逾えて成る。又た民をして各おの牆を築かしめ、高さは屋簷に過ぎ、仍りて牆に竇を開くこと圭のごとくし、僅かに一人を容るるべくす。家ごとに一壮丁をして刀を執り、竇の内に俟たしめ、其の余の人は皆な隊伍に入る。令して曰く、「吾が号令を守り、吾が旗鼓を視よ。違う者は軍法に従わん」と。又た巷中に伏を設け、城門を洞開す。未だ幾ばくならずして、賊果たして至る。火も施す所無く、兵も加うる所無し。旗挙がり伏発し、尽く之を擒斬す。愚謂えらく、近城の要地は、皆な当に此れに倣いて牆を立つべし、寇をして城に臨まざらしむべし。
現代語訳
許逵は河南固始の人である。楽陵の県令となり、一か月ほどで命令は行われ禁止は守られた。当時、流賊の勢いは盛んだった。逵は前もって城を築き堀を深くし、貧富を問わず平等に労役を課し、一か月余りで完成させた。さらに民にそれぞれ垣根を築かせ、屋根の軒より高くし、垣根に圭(先の尖った玉)の形の穴を開けて、ちょうど一人が通れるようにした。家ごとに壮丁一人に刀を持たせて穴の内で待たせ、残りの人は皆、隊列に入れた。命じて言った。「私の号令を守り、私の旗と鼓を見よ。違う者は軍法に従わせる」。また路地に伏兵を置き、城門を大きく開け放った。まもなく賊は果たして来た。火をつけようにも何もなく、兵を加えようにも何もない。旗が挙がり伏兵が起こり、残らず捕らえて斬った。私が思うに、城に近い要所は、皆この方法に倣って垣を立てるべきである。そうすれば敵を城に近づけないで済む。
解説
この章句が説くこと
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