智囊 / 武案・司馬楚之・張濬
司馬楚之別將督軍糧,柔然欲擊之。俄軍中有告失驢耳者,楚之曰:「此必賊遣奸人入營覘伺,割以為信耳,賊至不久,宜急為備。」乃伐柳為城,以水灌之,城立而柔然至,冰堅滑不可攻,乃散走。紹興中,虜趨京,所過城邑,欲立取之。會天大寒,城池皆凍。虜籍冰梯城,不攻而入。張魏公在大名,聞之,先弛濠魚之禁,人爭出取魚,冰不得合,虜至城下,睥睨久之,歎息而去。
新字:司馬楚之別将督軍糧,柔然欲撃之。俄軍中有告失驢耳者,楚之曰:「此必賊遣奸人入営覘伺,割以為信耳,賊至不久,宜急為備。」乃伐柳為城,以水灌之,城立而柔然至,冰堅滑不可攻,乃散走。紹興中,虜趨京,所過城邑,欲立取之。会天大寒,城池皆凍。虜籍冰梯城,不攻而入。張魏公在大名,聞之,先弛濠魚之禁,人争出取魚,冰不得合,虜至城下,睥睨久之,嘆息而去。
書き下し
司馬楚之、別将として軍糧を督す。柔然、之を撃たんと欲す。俄にして軍中に驢の耳を失うを告ぐる者有り。楚之曰く、「此れ必ず賊、奸人を遣わして営に入り覘伺せしめ、割きて以て信と為すのみ。賊の至るは久しからず、宜しく急ぎ備えを為すべし」と。乃ち柳を伐りて城を為り、水を以て之に灌ぐ。城立ちて柔然至るも、冰堅く滑らかにして攻むべからず、乃ち散走す。紹興中、虜、京に趨き、過ぐる所の城邑、立ちどころに之を取らんと欲す。会たま天大いに寒く、城池皆な凍る。虜、冰に籍りて城に梯し、攻めずして入る。張魏公、大名に在りて之を聞き、先に濠魚の禁を弛む。人争いて出でて魚を取り、冰合するを得ず。虜、城下に至り、睥睨すること久しく、歎息して去る。
現代語訳
司馬楚之は別働隊の将として軍の食糧輸送を監督していた。柔然がこれを襲おうとした。そのとき、軍中の者が「驢馬の耳が切り取られていました」と届け出た。楚之は言った。「これは必ず敵が間者を送り込んで陣営の様子を探らせ、切り取った耳を証拠にしたのだ。敵が来るのは遠くない。急いで備えねばならない」。そこで柳を切って城壁を作り、水をかけた。城壁が出来上がったところへ柔然が来たが、氷が固く滑って攻められず、散り散りに逃げた。紹興年間に、金軍が都に向かい、通る城邑をたちまち奪おうとした。ちょうど大寒波で、城の堀もみな凍っていた。敵は氷を足場にして城壁に梯子を掛け、戦わずに城へ入った。張魏公は大名府にいてそれを聞き、あらかじめ堀の魚の漁の禁を解いた。人々は争って出てきて魚を取り、氷は張れなかった。敵は城下に来て、長いこと城壁の上をにらんでいたが、ため息をついて去っていった。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『智囊』迎刃・王守仁〔馮述評〕陽明の寧藩の一事は、今に至るもなお疑う者有り。宸濠の密書が京に至り、その私人を用いて巡撫にしようと欲し、書中に「王守仁も亦た可なり」の語が有ったことから、この語に故の有るを知らない。陽明は平生圭角を露わさず、かつて顕らかには濠に逆らわなかったからである。濠はただ陽明の才を慕って未だその心を知らず、ゆえになお招いて用いんことを冀ったのであり、陽明に何の関わりが有ろうか。陽明が汀贛巡撫に遣わされた当時、汀贛は未だ兵を用いていなかったが、陽明はすぐに上疏して言う、「臣は江西の上流に拠ります。江西は連年盗賊が起こっております。願わくは臣に軍務を提督する権を仮し、事を行うに便にさせて下さい」と。而して大司馬の王晋渓は覆奏して、「旗牌を給与し、大小の賊情はことごとく王某の随機の撫剿に任せよ」と言った。陽明はまた道を豊城に取った。思うにこの時、逆濠の反する形は已に具わっており、二公は潜かにその計を為し、廟堂の方略は已に預め定まっていたのである。濠が既に反すると、地方の変を告げる上奏はなお敢えて斥言せず、ただ「寧府」と称した。ひとり陽明の上疏のみ「宸濠」と称した。この一事に陽明の心事が見えるのである。
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孫子・虚実篇孫子曰く、凡そ先に戦地に処して敵を待つ者は佚く、後に戦地に処して戦いに趨く者は労す。
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 先んずれば人の心を奪う冬、十月、華登吳の師を以って華氏を救ふ。齊の烏枝鳴宋を戍る。廚人濮曰く、「軍志に之れ有り、『人に先んずれば人の心を奪ふ有り、人に後るれば其の衰へを待つ有り』と。盍ぞ其の勞して且つ未だ定まらざるに及びて、諸を伐たざる。若し入りて固くせば、則ち華氏衆からん。悔ゆとも及ぶ無からん」と。之に從ふ。丙寅、齊の師・宋の師、吳の師を鴻口に敗り、其の二帥、公子苦雂・偃州員を獲たり。華登、其の餘を帥ゐて以って宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人なり、死を藉(か)す可くして亡を送る能はず。君請ふ之を待て」と。乃ち徇へて曰く、「徽を楊ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に從ふ。公楊門より之を見、下りて之を巡りて曰く、「國亡び君死するは、二三子の恥なり。豈に專ら孤の罪ならんや」と。齊の烏枝鳴曰く、「少を用ゐるは齊しく死を致すに如くは莫く、齊しく死を致すは備へを去るに如くは莫し。彼は兵多し。
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『春秋左氏伝』宣公十二年 人に先んずる趙嬰齊其の徒をして先づ舟を河に具へしむ、故に敗れて先づ濟る。潘黨既に魏錡を逐ふ。趙旃夜楚の軍に至り、軍門の外に席して、其の徒をして之に入らしむ。楚子乘廣三十乘を為り、分ちて左右と為す。右廣は、雞鳴にして駕し、日中にして說く。左則ち之を受け、日入にして說く。許偃右廣に御し、養由基右と為る。彭名左廣に御し、屈蕩右と為る。乙卯、王左廣に乘りて、以て趙旃を逐ふ。趙旃車を棄てて林に走る、屈蕩之に搏ちて、其の甲裳を得たり。晉人二子の楚の師を怒らせんことを懼るるや、軘車をして之を逆へしむ。潘黨其の塵を望み、騁せて告げしめて曰く、「晉の師至れり」と。楚人も亦た王の晉の軍に入らんことを懼るるや、遂に出でて陳す。孫叔曰く、「之を進めよ。寧ろ我人に薄るとも、人の我に薄ること無かれ。詩に云ふ、『元戎十乘、以て先づ行を啟く』と、人に先んずるなり。軍志に曰く、『人に先んずれば人の心を奪ふこと有り』と、之に薄るなり」と。遂に疾く師を進め、車馳せ卒奔りて、晉の軍に乘ず。桓子為す所を知らず、軍中に鼓して、曰く、「先づ濟る者には賞有り」と。
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『智囊』權奇・爰種・溫嶠・高歡爰盎、常に大体を引きて慷慨す。宦者趙談、数々幸せらるるを以て、常に盎を害す。盎これを患う。兄の子種、常侍騎と為り、盎に謂いて曰く、「君、衆の中にてこれを辱めよ。後に君を悪く言うと雖も、上は復た信ぜざらん」と。是に於て上、東宮に朝し、趙談驂乗す。盎、車前に伏して曰く、「臣聞く、天子の与に六尺の輿を共にする所の者は、皆天下の英豪なりと。今、漢乏人なりと雖も、陛下独り奈何ぞ刀鋸の余と共に載せたまうか」と。是に於て上笑い、趙談を下ろす。談泣きて車より下る。王敦、温嶠を用いて丹陽尹と為し、酒を置きて別れを為す。嶠、銭鳳の後言有るを懼れ、因りて酒を行るに鳳に至り、未だ飲まざるに、嶠偽り酔い、手板を以てこれを撃ちて幘を堕とし、色を作して曰く、「銭鳳何人ぞ。温太真酒を行る。敢えて飲まざるか」と。鳳悦ばず。敦以て酔いと為し、両つながらこれを釈く。明日、鳳曰く、「嶠は朝廷と甚だ密なり。未だ必ずしも信ずべからず。宜しく更にこれを思うべし」と。敦曰く、「太真昨は酔い、小しく声色を加えしのみ。豈に此れを以て便ち相讒貳するを得んや」と。是に由り嶠は都に還るを得、尽く敦の逆謀を以て帝に告ぐ。
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