智囊 / 武案・郭登・趙遹
《元史》:金人恃居庸之塞,冶鐵錮關門,布鐵蒺藜百餘里,守以精銳。元祖進師,距關百里,不能前。召紮八兒問計,對曰:「從此而北,黑樹林中有間道,騎行可一人,臣向嘗過之,若勒兵銜枚以出,終夕可至。」元祖乃令紮八兒輕騎前導,日暮入谷。黎明諸軍已在平地,疾趨南口。金鼓之聲,若自天下。金人猶睡未知也。比驚起,已莫能支。關門既破,中都大震,金人遂遷汴。夫以極險之地,迫於至近而金不知備,此又非陰平之可比矣!
新字:《元史》:金人恃居庸之塞,冶鉄錮関門,布鉄蒺藜百余里,守以精鋭。元祖進師,距関百里,不能前。召紮八児問計,対曰:「従此而北,黒樹林中有間道,騎行可一人,臣向嘗過之,若勒兵銜枚以出,終夕可至。」元祖乃令紮八児軽騎前導,日暮入谷。黎明諸軍已在平地,疾趨南口。金鼓之声,若自天下。金人猶睡未知也。比驚起,已莫能支。関門既破,中都大震,金人遂遷汴。夫以極険之地,迫於至近而金不知備,此又非陰平之可比矣!
書き下し
《元史》に、金人は居庸の塞を恃み、鉄を冶して関門を錮し、鉄蒺藜を布くこと百余里、守るに精鋭を以てす。元祖は師を進め、関を距つること百里にして、前む能わず。紮八児を召して計を問う。対えて曰く、「此より北のかた、黒樹林中に間道有り。騎行すれば一人のみ可なり。臣、向に嘗て之を過ぐ。若し兵を勒し枚を銜みて出ずれば、終夕にして至るべし」と。元祖乃ち紮八児をして軽騎もて前導せしめ、日暮に谷に入る。黎明に諸軍已に平地に在り、疾く南口に趨く。金鼓の声、天より下るが若し。金人は猶お睡りて未だ知らず。驚き起くるに比び、已に支うる能わず。関門既に破れ、中都大いに震い、金人遂に汴に遷る。夫れ極険の地にして、迫ること至近なるに、金の備えを知らざる、此れ又た陰平の比すべきに非ざるなり。
現代語訳
『元史』に、金人は居庸関の要塞を頼みとし、鉄を溶かして関門を固め、鉄蒺藜(まきびし)を百里あまりにわたり敷き、精鋭で守っていた。元の祖(チンギス・ハン)は軍を進め、関から百里の所で進めなくなった。紮八児(ジャバル)を呼んで計を問うた。答えて言った。「ここから北に、黒樹林の中に間道があります。騎馬では一人ずつしか通れません。私は以前そこを通ったことがあります。もし兵を整えて声を出さずに出発すれば、一晩で着けます。」元祖はそこで紮八児に軽騎兵で先導させ、日暮れに谷に入った。明け方には諸軍はすでに平地にいて、急いで南口に向かった。鉦や太鼓の音が、天から下ってくるようであった。金人はなお眠っていて、気づいていなかった。驚いて起きたときには、もう支えることができなかった。関門が破られ、中都は大いに震え、金人はついに汴京に遷都した。極めて険しい地で、すぐ近くまで迫られたのに、金が備えを知らなかったのは、陰平の例と比べものにならない。
解説
この章句が説くこと
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