智囊 / 武案・安萬銓
嘉靖十六年,阿向與土官王仲武爭田構殺。仲武出奔,阿向遂據凱口囤為亂。囤圍十餘里,高四十丈,四壁鬥絕,獨一徑尺許,曲折而登。山有天池,雖旱不竭,積糧可支五年。變聞,都御史陳克宅,都督僉事楊仁調水西兵剿之。宣慰使安萬銓,素驕抗不法,邀重賞乃行,提兵萬餘,屯囤下。相持三月,仰視絕壁,無可為計者。獨東北隅有巨樹,斜科偃蹇半壁間,然去地二十丈許。萬銓令軍中曰:「能為猿猱上絕壁者,與千金!」有兩壯士出應命。乃鍛鐵鉤傅手足為指爪,人腰四徽一劍,約至木憩足,即垂徽下引人,人帶銃炮長徽而起。候雨霽,夜昏黑不辨咫尺時,爬緣而上,微聞剌剌聲,俄而崩石,則一人墜地,骸骨泥爛矣。俄而長徽下垂,始知一人已據樹。乃遣兵四人,緣徽蹲樹間,壯士應命者復由木間爬緣而上,至囤頂。
新字:嘉靖十六年,阿向与土官王仲武争田構殺。仲武出奔,阿向遂拠凱口囤為乱。囤囲十余里,高四十丈,四壁鬥絶,独一径尺許,曲折而登。山有天池,雖旱不竭,積糧可支五年。変聞,都御史陳克宅,都督僉事楊仁調水西兵剿之。宣慰使安万銓,素驕抗不法,邀重賞乃行,提兵万余,屯囤下。相持三月,仰視絶壁,無可為計者。独東北隅有巨樹,斜科偃蹇半壁間,然去地二十丈許。万銓令軍中曰:「能為猿猱上絶壁者,与千金!」有両壮士出応命。乃鍛鉄鉤傅手足為指爪,人腰四徽一剣,約至木憩足,即垂徽下引人,人帯銃炮長徽而起。候雨霽,夜昏黒不弁咫尺時,爬縁而上,微聞剌剌声,俄而崩石,則一人墜地,骸骨泥爛矣。俄而長徽下垂,始知一人已拠樹。乃遣兵四人,縁徽蹲樹間,壮士応命者復由木間爬縁而上,至囤頂。
書き下し
嘉靖十六年、阿向、土官の王仲武と田を争いて構殺す。仲武出奔し、阿向遂に凱口の囤に拠りて乱を為す。囤の囲み十余里、高さ四十丈、四壁は鬥絶し、独り一径の尺許りなるありて、曲折して登る。山に天池有り、旱すと雖も竭きず、糧を積むこと五年を支うべし。変聞こゆれば、都御史の陳克宅、都督僉事の楊仁、水西の兵を調して之を剿す。宣慰使の安万銓は、素より驕抗して不法なり、重賞を邀えて乃ち行き、兵万余を提げて囤下に屯す。相持すること三月、絶壁を仰ぎ視て、計を為すべき者無し。独り東北の隅に巨樹有り、斜科偃蹇として半壁の間に在り、然れども地を去ること二十丈許り。万銓、軍中に令して曰く、「能く猿猱の為に絶壁を上る者は、千金を与えん」と。両壮士有り出でて命に応ず。乃ち鉄鉤を鍛えて手足に傅けて指爪と為し、人ごとに腰に四徽一剣を帯び、木に至りて足を憩うを約し、即ち徽を垂れて人を引く、人は銃炮を帯び長徽して起つ。雨霽るるを候ち、夜昏黒にして咫尺を辨ぜざる時、爬緣して上る。微かに剌剌の声を聞き、俄にして石崩れ、則ち一人地に墜ち、骸骨泥爛す。俄にして長徽下垂し、始めて一人已に樹に拠れるを知る。乃ち兵四人を遣わし、徽に縁りて樹間に蹲らしめ、壮士の命に応ぜし者、復た木間より爬緣して上り、囤頂に至る。
現代語訳
嘉靖十六年、阿向は土官の王仲武と田地を争って殺し合いになった。仲武が逃げ出すと、阿向はそのまま凱口の砦に立てこもって反乱を起こした。砦は周囲十数里、高さ四十丈で、四方の壁は切り立ち、ただ一本、一尺ほどの幅の小道が曲がりくねって登っているだけである。山頂には天池があり、日照りでも涸れず、五年分の食糧を蓄えられた。急報が届くと、都御史の陳克宅と都督僉事の楊仁は、水西の兵を動員して討伐させた。宣慰使の安万銓は、もともと驕り高ぶって法を守らない男で、重い恩賞を約束させてようやく動き、一万余の兵を率いて砦の下に陣を張った。三か月にらみ合ったが、絶壁を見上げても打つ手がなかった。ただ東北の隅に大木があり、斜めに曲がって壁の中ほどに生えていたが、地面から二十丈ほどの高さがあった。万銓は軍中に命じた。「猿のように絶壁を登れる者には千金を与える」。二人の壮士が名乗り出た。そこで鉄の鉤を鍛えて手足に付けて爪とし、一人ごとに腰に四本の綱と一振りの剣を帯びた。木まで登ったらそこで足を休め、綱を垂らして人を引き上げる取り決めで、人は銃砲を持ち長い綱を携えて登った。雨が上がるのを待ち、夜の暗さで目の前も見えない時に、よじ登った。かすかにがりがりという音が聞こえ、やがて石が崩れて、一人が地に落ち、骨も肉も泥のようになった。しばらくして長い綱が垂れ下がり、ようやく一人がすでに木に取りついたと分かった。そこで兵四人を派遣して綱をたどって木の上にうずくまらせ、命に応じた壮士はさらに木から這い登って砦の頂に着いた。
解説
この章句が説くこと
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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史記 呉王濞列伝司馬と為るを得、独り周丘のみ用ひらるるを得ず。周丘は、下邳の人なり。呉に亡命し、酒を酤りて行ひ無し。呉王濞之を薄んじ、任ぜず。周丘上謁し、王に説きて曰く、「臣無能を以て、罪を行間に待つを得ず。臣敢へて将ゐる所有るを求むるに非ず。願はくは王の一漢節を得ば、必ず以て王に報ゆる有らん」と。王乃ち之に予ふ。周丘節を得て、夜馳せて下邳に入る。下邳時に呉の反するを聞き、皆城守す。伝舎に至り、令を召す。令戸に入るや、従者をして罪を以て令を斬らしむ。遂に昆弟の善くする所の豪吏を召して告げて曰く、「呉の反兵且に至らんとす。至らば、下邳を屠ること食頃に過ぎざらん。今先に下らば、家室必ず完からん。能ある者は侯に封ぜられん」と。出でて乃ち相告げ、下邳皆下る。周丘一夜にして三万人を得、人をして呉王に報ぜしめ、遂に其の兵を将ゐて北のかた城邑を略す。城陽に至る比、兵十余万、城陽の中尉の軍を破る。呉王の敗走するを聞き、自ら度るに与に功を成す無しと、即ち兵を引きて下邳に帰る。未だ至らずして、疽背に発して死す。二月中、呉王の兵既に破れ、敗走す。是に於て天子将軍に制詔して曰く、「蓋し聞く、善を為す者は天之に報ゆるに福を以てし、非を為す者は天之に報ゆるに殃を以てすと。高皇帝親ら功徳を表し、諸侯を建立す。幽王・悼恵王は絶えて後無し。孝文皇帝哀憐して恵を加へ、幽王の子遂・悼恵王の子卬等を王とし、其の先王の宗廟を奉ぜしめ、漢の藩国と為す。徳は天地に配し、明は日月に并ぶ。呉王濞は徳に倍き義に反し、天下の亡命の罪人を誘ひ受け、天下の幣を乱し、病と称して朝せざること二十余年。有司数々濞の罪を請ふも、孝文皇帝之を寛し、其の行ひを改めて善を為さんことを欲す。
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『長短経』知人〔桓範曰く「夫れ帝王の君、歴代相踵ぎ、覇王の賢に任ずるを慕い、亡国の士を失うを悪まざるは莫し。然り而して猶お凶愚に任を授け、破亡相属くは、其の故は何ぞや。人を取るに道に合うを求めずして、己に合うを求むるに由るなり」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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