智囊 / 武案・郭登・趙遹
〔述評〕鄧艾自陰平襲蜀,行無人之地七百餘里,鑿山通道,造作橋閣,山高谷深,至為艱險。艾以氈自裹,推轉而下,將士皆攀木緣崖,魚貫而進。其功甚奇,而其事甚險,夫計程七百,非一日之行也;鑿山構閣,非一日之功也。即平日不知儆備,而臨時豈無風聞,豈皓等蒙蔽,庸禪怡堂,如所謂置羽書於堂下者乎?不然,艾必無幸矣!趙遹之用猱,出於創奇,亦由賊不設備而然,故曰:「憑險者固,恃險者亡。」李光弼軍令嚴肅,雖寇所不至,警邏不少懈,賊不能入,如是則必無陰平、輪囤之失矣。
新字:〔述評〕鄧艾自陰平襲蜀,行無人之地七百余里,鑿山通道,造作橋閣,山高谷深,至為艱険。艾以氈自裹,推転而下,将士皆攀木縁崖,魚貫而進。其功甚奇,而其事甚険,夫計程七百,非一日之行也;鑿山構閣,非一日之功也。即平日不知儆備,而臨時豈無風聞,豈皓等蒙蔽,庸禅怡堂,如所謂置羽書於堂下者乎?不然,艾必無幸矣!趙遹之用猱,出於創奇,亦由賊不設備而然,故曰:「憑険者固,恃険者亡。」李光弼軍令厳粛,雖寇所不至,警邏不少懈,賊不能入,如是則必無陰平、輪囤之失矣。
書き下し
〔述評〕鄧艾の陰平より蜀を襲うや、人無きの地を行くこと七百余里、山を鑿ちて道を通じ、橋閣を造作す。山高く谷深く、至って艱険為り。艾は氈を以て自ら裹み、推し転がりて下る。将士は皆な木を攀じ崖に縁り、魚貫して進む。其の功は甚だ奇なれども、其の事は甚だ険なり。夫れ程を計ること七百、一日の行に非ざるなり。山を鑿ち閣を構うるは、一日の功に非ざるなり。即ち平日に儆備を知らずとも、臨時に豈に風聞無からんや。豈に皓らの蒙蔽、庸禅の怡堂、所謂「羽書を堂下に置く」者の如きか。然らずんば、艾は必ず幸い無けん。趙遹の猱を用うるは、創奇に出づ。亦た賊の備えを設けざるに由りて然り。故に曰く、「険に憑る者は固く、険を恃む者は亡ぶ」と。李光弼の軍令は厳粛にして、寇の至らざる所と雖も、警邏少しも懈らず、賊は入る能わず。是くの如くんば則ち必ず陰平・輪囤の失無からん。
現代語訳
〔述評〕鄧艾が陰平から蜀を襲ったとき、人のいない土地を七百里あまり進み、山を切り開いて道を通じ、橋や桟道を造った。山は高く谷は深く、きわめて険しかった。艾は毛氈で自分の身を包み、転がり下った。将兵はみな木によじ登り崖にとりつき、魚が連なるように進んだ。その功は非常に奇抜だが、その事はたいへん危険であった。七百里の道のりを行くのは、一日の行軍ではない。山を切り開いて桟道を造るのは、一日の仕事ではない。たとえ平素に備えを知らなくても、いざというときに噂くらいは聞こえたはずだ。まさか黄皓らの蒙蔽や、劉禅の怡堂のように、いわゆる「急報の羽書を堂の下に置いたまま」だったのか。そうでなければ、鄧艾は必ず幸運には恵まれなかったろう。趙遹が猿を用いたのは、創意から出たが、これも賊が備えを設けなかったからである。だから言うのだ、「険しさを利用する者は堅固で、険しさを頼みにする者は滅びる」と。李光弼の軍令は厳しく粛々として、敵が来ない場所でも、警戒の巡回を少しもゆるめず、賊は入ることができなかった。こうであれば、必ず陰平や輪囤のような失敗はなかっただろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英、春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、また毋望の禍有り。今、君は毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安んぞ以て毋望の人無かるべけんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の福と謂ふ」と。曰く、「君楚に相たること二十余年、名は相国と雖も、実は楚王なり。今、楚王病み、旦暮に且に卒せんとす、而して君は少主に相たらん。因りて代はり立ちて国に当たること、伊尹・周公の如くし、王長じて政を反さん。即ち遂に南面して孤と称して楚国を有たざらんや。此れ所謂毋望の福なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園は国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先に入りて権に拠りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君、臣を郎中に置け。楚王卒せば、李園必ず先に入らん、臣君の為に李園を殺さん。此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下これを置け。李園は弱人なり、仆またこれを善くす、且つまた何ぞ此に至らん」と。朱英、言の用ひられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
-
『春秋左氏伝』僖公三十三年 弦高、秦師を犒う三十三年春、秦の師周の北門を過ぐ。左右冑を免ぎて下り、超乘する者三百乘。王孫滿尚ほ幼し。之を觀て、王に言ひて曰く、「秦の師輕くして禮無し。必ず敗れん。輕ければ則ち謀寡く、禮無ければ則ち脫(だつ)す。險に入りて脫し、又謀る能はず、能く敗るること無からんや」と。滑に及び、鄭の商人弦高將に周に市せんとして、之に遇ふ。乘韋を以って先にし、牛十二もて師を犒ひて曰く、「寡君吾子の將に師を步ませて敝邑より出でんとするを聞き、敢へて從者を犒はしむ。不腆(ふてん)の敝邑、從者の淹(ひさ)しきが為に、居れば則ち一日の積を具へ、行けば則ち一夕の衛を備へん」と。且つ遽(きょ)をして鄭に告げしむ。鄭の穆公客館を視しむれば、則ち束載し、兵を厲(と)ぎ、馬に秣(まぐさか)へり。皇武子をして辭せしめて曰く、「吾子敝邑に淹久し、唯だ是れ脯資・餼牽竭きたり。吾子の將に行かんとするが為なり。鄭の原圃有るは、猶ほ秦の具囿有るがごときなり。吾子其の麋鹿を取りて、以って敝邑を閒(やす)んぜしめば、若何」と。杞子齊に奔り、逢孫・楊孫宋に奔る。孟明曰く、「鄭備へ有り、冀(こひねが)ふ可からず。之を攻むれども克たず、之を圍めども繼がず。吾其れ還らん」と。滑を滅ぼして還る。齊の國莊子來聘す。郊勞より贈賄に至るまで、禮成りて之に加ふるに敏を以ってす。臧文仲公に言ひて曰く、「國子政を為し、齊猶ほ禮有り。君其れ朝せよ。臣之を聞く、禮有るに服するは、社稷の衛なり」と。
-
『智囊』靈變・張濬建炎の初め、駕は銭塘に幸し、張忠献を平江に留めて後鎮と為す。時に湯東野は適々守将と為る。一日、赦令の当に至るべきを聞き、心に之を疑い、走りて張公に白す。公曰く、「亟かに吏属の事を解する者を遣わして往きて視せしめ、駅騎を緩めて先ず取りて以て帰らしめよ」と。湯は官を遣わして発視するに、乃ち偽詔なり。宣ぶべからずと度るも、事は已に彰灼たり。卒徒は賜を望むに急にして、変有るを懼る。復た張公に謀る。公曰く、「今は便ち庫銭を発して、賞を行うの意を示せ」と。乃ち偽詔を屏け、陰かに故府に蔵する所の登極の赦書を取りて輿中に置き、迎えて譙門に登り、読みて之を張り、即ち其の階を去り、禁じて敢えて輒ち登る者無からしむ。而して金帛を散給すること郊賚の時の如くす。是に於いて人情は略定まり、乃ち大計を決せり。
-
言志四録・言志耋録 第三十二条 得意は懼るべし得意の物件は、懼るべし、喜ぶべからず。失意の物件は、慎むべし、驚くべからず。
-
『春秋左氏伝』宣公十二年 士季、備えを説く楚の潘黨之を逐ひ、熒澤に及ぶ。六麋を見て、一麋を射て以て顧みて獻じて、曰く、「子に軍事有り、獸人乃ち鮮を給せざること無からんや。敢へて從者に獻ず」と。叔黨命じて之を去らしむ。趙旃卿を求めて未だ得ず、且つ楚の師を致す者を失へるを怒り、戰ひを挑まんことを請ふ、許さず。盟を召かんことを請ふ、之を許す。魏錡と皆命ぜられて往く。郤獻子曰く、「二憾往けり、備へずんば必ず敗れん」と。彘子曰く、「鄭人戰ひを勸むれども、敢へて從はざるなり。楚人成を求むれども、好みすること能はざるなり。師に成命無し、多く備へて何をか為さん」と。士季曰く、「之に備ふるは善し。若し二子楚を怒らせ、楚人我に乘ぜば、師を喪ふこと日無からん。之に備ふるに如かず。楚の惡無くんば、備へを除きて盟はん、何ぞ好みを損せん。若し惡を以て來らば、備へ有れば敗れず。且つ諸侯相見ゆと雖も、軍衛徹せざるは、警めなり」と。彘子可かず。士季鞏朔・韓穿をして七覆を敖の前に帥ゐしむ、故に上軍敗れず。
-
『政談』養老宴の事惣じて貴人には朋友なきこと欠たること也、貴人の学問も、一切の芸も大名芸と云ものに成て、一切に込らぬは是故なり、殊に政務の道は下の情を能く知らざれは行ふ所図にあたらぬものなり、忍びのものなどを遣はして遠国のことを見せ、近習の臣より下のことを聞くも善きやうなることなれとも、人々面々の了簡のほどならでは見も聞もならぬ物なり、軍に物見を遣はすに武功の人を撰ふことも、手前の器量程ならでは得見ぬ故也、殊に人の情にて下の悪しきことばかりを見出し聞出して、申し上げてよきことは申さぬものなり、されば下のことを見聞んとするにも心得あるべきことなり、殊に御用を承はる筋の人は手前の申し立たき筋の益に成るやうなる筋を多く申し上げるなり、是によりて何としても下の情に疎きこと是貴人の身の上に欠たることなり、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る