智囊 / 詭道・達奚武・廚人濮・何無忌・王世充・王守仁
宇文泰遣達奚武覘高歡軍。武從三騎,皆效歡將士衣服。日暮,去營數百步,下馬潛聽,得其軍號,因上馬歷營,若警夜者,有不如法,往往撻之,具知敵之情狀而還。華氏叛宋,宋公討之。華登以吳師救華氏,敗於鴻口。華登帥其餘以敗宋師。公欲出,廚人濮曰:「吾小人,可藉死,而不能送亡,君請待之。」乃徇曰:「揚徽者,公徒也!」眾從之。華氏北,復即之。廚人濮以裳裹首而荷以走,曰:「得華登矣!」遂敗華氏於新里。〔評〕廚人濮一奮,而眾皆揚徽;王孫賈一呼,而市皆左袒。忠義在,人心不泯也,難其倡之者耳!桓玄既敗,西走江陵,留何澹之守湓口。澹之空設羽儀旗幟於一舟,而身寄他舟。時何無忌欲攻羽儀所在者,諸將曰:「澹之不在此舟,雖得無益。」無忌曰:「固也,彼既不在此,守衛必弱,我以勁兵攻之,成擒必矣!擒之,彼且以為失軍主,而我徒揚言已得賊帥,則我氣盛,而彼必懼。懼而薄之,迎刃之勢也!」果一鼓而舟獲,遂鼓噪唱曰:「斬何澹之矣!」賊駭惑以為然,竟瓦解。
新字:宇文泰遣達奚武覘高歓軍。武従三騎,皆効歓将士衣服。日暮,去営数百歩,下馬潜聴,得其軍号,因上馬歴営,若警夜者,有不如法,往往撻之,具知敵之情状而還。華氏叛宋,宋公討之。華登以呉師救華氏,敗於鴻口。華登帥其余以敗宋師。公欲出,廚人濮曰:「吾小人,可藉死,而不能送亡,君請待之。」乃徇曰:「揚徽者,公徒也!」衆従之。華氏北,復即之。廚人濮以裳裹首而荷以走,曰:「得華登矣!」遂敗華氏於新里。〔評〕廚人濮一奮,而衆皆揚徽;王孫賈一呼,而市皆左袒。忠義在,人心不泯也,難其倡之者耳!桓玄既敗,西走江陵,留何澹之守湓口。澹之空設羽儀旗幟於一舟,而身寄他舟。時何無忌欲攻羽儀所在者,諸将曰:「澹之不在此舟,雖得無益。」無忌曰:「固也,彼既不在此,守衛必弱,我以勁兵攻之,成擒必矣!擒之,彼且以為失軍主,而我徒揚言已得賊帥,則我気盛,而彼必懼。懼而薄之,迎刃之勢也!」果一鼓而舟獲,遂鼓噪唱曰:「斬何澹之矣!」賊駭惑以為然,竟瓦解。
書き下し
宇文泰、達奚武を遣わして高歓の軍を覘わしむ。武、三騎を従え、皆な歓の将士の衣服に效う。日暮れ、営を去ること数百歩にして馬を下り、潜かに聴き、其の軍号を得たり。因りて馬に上り営を歴るに、夜を警むる者の若く、法の如くならざる者有れば、往々にして之を撻つ。具さに敵の情状を知りて還る。華氏、宋に叛く。宋公、之を討つ。華登、呉の師を以て華氏を救い、鴻口に敗る。華登、其の余を帥いて以て宋の師を敗る。公出でんと欲す。廚人濮曰く、「吾は小人、藉りて死すべきも、亡を送る能わず。君、之を待たれよ」と。乃ち徇えて曰く、「徽を揚ぐる者は、公の徒なり」と。衆之に従う。華氏北ぐ。復た之に即く。廚人濮、裳を以て首を裹みて荷いて走り、曰く、「華登を得たり」と。遂に華氏を新里に敗る。〔評〕廚人濮の一奮にして衆皆な徽を揚げ、王孫賈の一呼にして市皆な左袒す。忠義の在る所、人心泯びず。其の倡うる者を難しとするのみ。桓玄既に敗れ、西して江陵に走り、何澹之を留めて湓口を守らしむ。澹之、空しく羽儀旗幟を一舟に設けて、身は他の舟に寄す。時に何無忌、羽儀の所在を攻めんと欲す。諸将曰く、「澹之は此の舟に在らず。得たりと雖も益無し」と。無忌曰く、「固よりなり。彼既に此に在らざれば、守衛必ず弱し。我、勁兵を以て之を攻めば、擒にするは必せり。之を擒にせば、彼は且に以て軍主を失うと為さん。而して我は徒だ已に賊帥を得たりと揚言すれば、則ち我が気は盛んにして、彼は必ず懼れん。懼れて之に薄まるは、刃を迎うるの勢いなり」と。果たして一鼓にして舟を獲、遂に鼓噪して唱えて曰く、「何澹之を斬れり」と。賊は駭き惑い、以て然りと為し、竟に瓦解す。
現代語訳
宇文泰は達奚武を派遣して高歓の軍を偵察させた。武は三騎を従え、みな高歓軍の将兵の服装をまねた。日暮れ、敵営から数百歩のところで馬を降り、ひそかに聞き耳を立てて、軍の合言葉を手に入れた。そこで馬に乗り、営を一巡し、夜警の者のように振る舞い、規則どおりでない者があるとたびたび鞭打った。こうして敵の事情をつぶさに知って帰った。華氏が宋に背いた。宋公がこれを討った。華登は呉の軍を連れて華氏を救ったが、鴻口で敗れた。華登は残りの兵を率いて宋軍を破った。宋公は逃げ出そうとした。廚人の濮が言った。「私は身分の低い者で、死ぬことはできても、逃げる君を送ることはできません。君はここでお待ちください。」そこで触れ回って言った。「徽の旗を揚げる者は、公の味方だ。」衆はこれに従った。華氏は敗走した。さらに追い詰めた。廚人濮は裳で人の頭を包んで担いで走り、「華登を討ち取ったぞ」と叫んだ。そうして華氏を新里で破った。〔評〕廚人濮がひと奮いすると衆が皆な徽を揚げ、王孫賈がひとこと呼ぶと市の人々が皆な左袖を脱いだ。忠義があれば人の心は滅びない。ただ、最初に唱える者を得ることが難しいのだ。桓玄が敗れ、西の江陵へ逃げたとき、何澹之を湓口に残して守らせた。澹之は、羽儀や旗幟だけを一艘の舟に飾り立て、自分は別の舟に身を寄せていた。そこで何無忌はその飾った舟を攻めようとした。諸将は言った。「澹之はこの舟にはいません。奪っても益がありません。」無忌は言った。「もちろんだ。彼がここにいないなら、守りは必ず弱い。わが精兵で攻めれば、必ず奪える。奪えば、敵は大将を失ったと思うだろう。そこでわれらが賊の大将を捕らえたと言いふらせば、味方の気は盛んになり、敵は必ず恐れる。恐れた敵に迫るのは、刃を迎えるような容易な勢いだ。」果たして一太鼓で舟を奪い、太鼓を鳴らし叫んで言った。「何澹之を斬ったぞ。」賊は驚き、本当だと思い込み、ついに崩れ去った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 高祖本紀漢王項羽を数めて曰く、「始め項羽と倶に命を懐王に受く、曰く先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと、項羽約に負き、我を蜀漢に王とす、罪の一なり。項羽卿子冠軍を矯殺して自ら尊ぶ、罪の二なり。項羽已に趙を救ひ、当に還りて報ずべきに、而して擅に諸侯の兵を劫かして関に入る、罪の三なり。懐王約すらく秦に入りて暴掠する無かれと、項羽秦の宮室を焼き、始皇帝の冢を掘り、私に其の財物を収む、罪の四なり。又彊ひて秦の降王子嬰を殺す、罪の五なり。詐りて秦の子弟を新安に阬にすること二十万、其の将を王とす、罪の六なり。項羽皆諸将を善地に王とし、而して故主を徙逐し、臣下をして争ひて叛逆せしむ、罪の七なり。項羽義帝を彭城より出だし逐ひ、自ら之に都し、韓王の地を奪ひ、梁・楚に并せ王とし、多く自ら予ふ、罪の八なり。項羽人をして陰かに義帝を江南に弑せしむ、罪の九なり。夫れ人臣と為りて其の主を弑し、已に降るを殺し、政を為すこと平らかならず、約を主りて信ならず、天下の容れざる所、大逆無道なり、罪の十なり。吾義兵を以て諸侯に従ひて残賊を誅す、刑余の罪人をして項羽を撃殺せしめん、何ぞ苦しみて乃ち公と挑戦せんや。」と。項羽大いに怒り、伏弩もて漢王を射中つ。漢王匈(むね)を傷つく、乃ち足を捫(な)でて曰く、「虜吾が指に中つ。」と。漢王創を病みて臥す、張良彊ひて漢王に起ちて行きて軍を労はんことを請ひ、以て士卒を安んじ、楚をして漢に勝ちに乗ぜしむる毋からしむ。漢王出でて軍を行(めぐ)る、病甚だし、因りて馳せて成皋に入る。病愈え、西して関に入り、櫟陽に至り、父老を存問し、置酒し、故の塞王欣の頭を櫟陽の市に梟す。留まること四日、復た軍に如き、広武に軍す。関中の兵益々出づ。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。田横往きて之に従ふ。項羽数(しばしば)彭越等を撃つ、斉王信又進みて楚を撃つ。項羽恐れ、乃ち漢王と約し、天下を中分し、鴻溝を割きて西なる者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。
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『春秋左氏伝』襄公九年 宋の大火と天道九年春、宋災あり。樂喜、司城と為り、以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は、小屋を徹し、大屋を塗り、畚挶(ほんきょく)を陳ね、綆缶(かうふ)を具へ、水器を備へ、輕重を量り、水潦を蓄へ、土塗を積み、丈城を巡り、守備を繕ひ、火道を表す。華臣をして正徒を具へしめ、隧正に令して郊保を納れ、火所に奔らしむ。華閱をして右官を討めしめ、官ごとに其の司を庀(をさ)めしむ。向戌をして左を討めしむること、亦た之の如し。樂遄をして刑器を庀めしむること、亦た之の如し。皇鄖をして校正に命じて馬を出さしめ、工正に車を出さしめ、甲兵を備へ、武守を庀めしむ。西鉏吾をして府守を庀めしめ、司宮・巷伯に令して宮を儆めしむ。二師、四鄉の正に令して敬んで享せしむ。祝宗、馬を四墉に用ゐ、盤庚を西門の外に祀る。晉侯、士弱に問ひて曰く、「吾之を聞く、宋災あり、是に於てか天道有るを知ると。何の故ぞ」と。對へて曰く、「古の火正は、或いは心に食し、或いは咮(ちう)に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と為し、心を大火と為す。陶唐氏の火正閼伯(あつはく)、商丘に居りて大火を祀り、而して火もて時を紀す。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人、其の禍敗の釁(きざし)を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり」と。公曰く、「必すべきか」と。對へて曰く、「道に在り。國亂れて象無ければ、知るべからざるなり」と。
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
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『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
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