春秋左氏伝 / 隠公五年 不虞に備えざれば
四月,鄭人侵衛牧,以報東門之役。衛人以燕師伐鄭。鄭祭足、原繁、洩駕以三軍軍其前,使曼伯與子元潛軍軍其後。燕人畏鄭三軍而不虞制人。六月,鄭二公子以制人敗燕師于北制。君子曰:「不備不虞,不可以師。」曲沃叛王。秋,王命虢公伐曲沃,而立哀侯于翼。衛之亂也,郕人侵衛,故衛師入郕。九月,考仲子之宮,將萬焉。公問羽數於眾仲。對曰:「天子用八,諸侯用六,大夫四,士二。夫舞,所以節八音,而行八風,故自八以下。」公從之。于是初獻六羽,始用六佾也。宋人取邾田。邾人告於鄭曰:「請君釋憾於宋,敝邑為道。」鄭人以王師會之。伐宋,入其郛,以報東門之役。宋人使來告命。公聞其入郛也,將救之,問於使者曰:「師何及?」對曰:「未及國。」公怒,乃止,辭使者曰:「君命寡人同恤社稷之難,今問諸使者,曰『師未及國』,非寡人之所敢知也。」冬,十二月辛巳,臧僖伯卒。公曰:「叔父有憾於寡人,寡人弗敢忘。」葬之加一等。宋人伐鄭,圍長葛,以報入郛之役也。
新字:四月,鄭人侵衛牧,以報東門之役。衛人以燕師伐鄭。鄭祭足、原繁、洩駕以三軍軍其前,使曼伯与子元潜軍軍其後。燕人畏鄭三軍而不虞制人。六月,鄭二公子以制人敗燕師于北制。君子曰:「不備不虞,不可以師。」曲沃叛王。秋,王命虢公伐曲沃,而立哀侯于翼。衛之乱也,郕人侵衛,故衛師入郕。九月,考仲子之宮,将万焉。公問羽数於衆仲。対曰:「天子用八,諸侯用六,大夫四,士二。夫舞,所以節八音,而行八風,故自八以下。」公従之。于是初献六羽,始用六佾也。宋人取邾田。邾人告於鄭曰:「請君釈憾於宋,敝邑為道。」鄭人以王師会之。伐宋,入其郛,以報東門之役。宋人使来告命。公聞其入郛也,将救之,問於使者曰:「師何及?」対曰:「未及国。」公怒,乃止,辞使者曰:「君命寡人同恤社稷之難,今問諸使者,曰『師未及国』,非寡人之所敢知也。」冬,十二月辛巳,臧僖伯卒。公曰:「叔父有憾於寡人,寡人弗敢忘。」葬之加一等。宋人伐鄭,囲長葛,以報入郛之役也。
書き下し
四月、鄭人衛の牧を侵し、以って東門の役に報ゆ。衛人燕の師を以って鄭を伐つ。鄭の祭足・原繁・洩駕、三軍を以って其の前に軍し、曼伯と子元とをして潛軍もて其の後に軍せしむ。燕人鄭の三軍を畏れて制人を虞らず。六月、鄭の二公子制人を以って燕の師を北制に敗る。君子曰く、「虞らざるに備へずんば、以って師す可からず」と。曲沃王に叛く。秋、王虢公に命じて曲沃を伐ちて、哀侯を翼に立てしむ。衛の亂るるや、郕人衛を侵す、故に衛の師郕に入る。九月、仲子の宮を考し、將に萬せんとす。公羽數を眾仲に問ふ。對へて曰く、「天子は八を用ゐ、諸侯は六、大夫は四、士は二。夫れ舞は、八音を節して、八風を行ふ所以なり、故に八より以下す」と。公之に從ふ。是に于いて初めて六羽を獻じ、始めて六佾を用ゐるなり。宋人邾の田を取る。邾人鄭に告げて曰く、「請ふ君憾みを宋に釋け、敝邑道を為さん」と。鄭人王の師を以って之に會す。宋を伐ちて、其の郛に入り、以って東門の役に報ゆ。宋人來りて命を告げしむ。公其の郛に入るを聞き、將に之を救はんとす。使者に問ひて曰く、「師何くにか及ぶ」と。對へて曰く、「未だ國に及ばず」と。公怒り、乃ち止む。使者に辭して曰く、「君寡人に命じて社稷の難を同じく恤へしむ。今諸を使者に問ふに、『師未だ國に及ばず』と曰ふ。寡人の敢へて知る所に非ざるなり」と。冬、十二月辛巳、臧僖伯卒す。公曰く、「叔父寡人に憾み有り、寡人敢へて忘れず」と。之を葬るに一等を加ふ。宋人鄭を伐ち、長葛を圍み、以って郛に入るの役に報ゆるなり。
現代語訳
四月、鄭の人が衛の郊外の牧地に侵入した。前年に東門を包囲された戦役への報復である。衛の人は燕(南燕)の軍を率いて鄭を攻めた。鄭の祭足・原繁・洩駕は三軍を率いて燕軍の正面に陣を敷き、曼伯と子元(公子突)には伏兵を率いさせて燕軍の背後に陣取らせた。燕の人は鄭の三軍ばかりを恐れて、背後の制の地の兵を警戒しなかった。六月、鄭の二人の公子が制の兵を率いて燕軍を北制で破った。君子は言った。「思いがけない事態に備えなければ、軍を動かすことはできない」。曲沃が周王に背いた。秋、王は虢公に命じて曲沃を討たせ、哀侯を翼の君に立てた。衛に内乱があったとき、郕の人が衛に侵入した。そのため衛の軍が郕に攻め入った。九月、仲子の廟が完成して祭りを行い、万舞を奉納しようとした。隠公は舞に用いる羽を持つ舞人の数を衆仲に尋ねた。衆仲は答えた。「天子は八列を用い、諸侯は六列、大夫は四列、士は二列です。そもそも舞は、八種の楽器の音を調節し、八方の風(教化)を行き渡らせるものです。ですから八から下へ減らしていくのです」。隠公はこれに従った。こうしてはじめて六列の羽舞を奉納し、はじめて六佾を用いたのである。宋の人が邾の田地を奪った。邾の人が鄭に告げて言った。「どうか君は宋への怨みを晴らしてください。我が国が道案内をいたします」。鄭の人は周王の軍を率いて邾と合流し、宋を攻めて外城に攻め入った。東門の戦役への報復である。宋の人は使者をよこして急を告げ、救援を求めた。隠公は鄭軍が外城に入ったと聞いて、救援しようとした。使者に「敵軍はどこまで来ているのか」と尋ねると、使者は「まだ国都には及んでおりません」と答えた。隠公は怒って救援を取りやめ、使者に断って言った。「君は私に、社稷の難を共に憂えよと命じられた。ところが今、使者に尋ねると『敵軍はまだ国都に及んでいない』と言う。それでは私のあずかり知るところではない」。冬十二月辛巳の日、臧僖伯が亡くなった。隠公は言った。「叔父は私に不満を抱いていた(棠の件で諫めを聞かなかった)。私はそれを忘れはしない」。そこで彼の葬儀の格を一等上げた。宋の人が鄭を攻めて長葛を包囲した。外城に攻め入られた戦役への報復である。
解説
この章句が説くこと
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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史記 春申君列伝春申君相たること二十五年、楚の考烈王病む。朱英、春申君に謂ひて曰く、「世に毋望の福有り、また毋望の禍有り。今、君は毋望の世に処り、毋望の主に事ふ、安んぞ以て毋望の人無かるべけんや」と。春申君曰く、「何をか毋望の福と謂ふ」と。曰く、「君楚に相たること二十余年、名は相国と雖も、実は楚王なり。今、楚王病み、旦暮に且に卒せんとす、而して君は少主に相たらん。因りて代はり立ちて国に当たること、伊尹・周公の如くし、王長じて政を反さん。即ち遂に南面して孤と称して楚国を有たざらんや。此れ所謂毋望の福なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の禍と謂ふ」と。曰く、「李園は国を治めずして君の仇なり、兵を為さずして死士を養ふの日久し。楚王卒せば、李園必ず先に入りて権に拠りて君を殺して以て口を滅せん。此れ所謂毋望の禍なり」と。春申君曰く、「何をか毋望の人と謂ふ」と。対へて曰く、「君、臣を郎中に置け。楚王卒せば、李園必ず先に入らん、臣君の為に李園を殺さん。此れ所謂毋望の人なり」と。春申君曰く、「足下これを置け。李園は弱人なり、仆またこれを善くす、且つまた何ぞ此に至らん」と。朱英、言の用ひられざるを知り、禍の身に及ばんことを恐れ、乃ち亡げ去る。
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