春秋左氏伝 / 襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ
十二月。戊戌。及秦周伐雍門之萩。范鞅門于雍門。其御追喜。以戈殺犬于門中。孟莊子斬其橁。以為公琴。己亥。焚雍門。及西郭。南郭。劉難。士弱。率諸侯之師。焚申池之竹木。壬寅。焚東郭。北郭。范鞅門于揚門。州綽門于東閭。左驂迫。還于東門中。以枚數闔。齊侯駕。將走郵棠。大子與郭榮扣馬曰。師速而疾。略也。將退矣。君何懼焉。且社稷之主。不可以輕。輕則失眾。君必待之。將犯之。大子抽劍斷鞅。乃止。甲辰。東侵及濰。南及沂。
新字:十二月。戊戌。及秦周伐雍門之萩。范鞅門于雍門。其御追喜。以戈殺犬于門中。孟荘子斬其橁。以為公琴。己亥。焚雍門。及西郭。南郭。劉難。士弱。率諸侯之師。焚申池之竹木。壬寅。焚東郭。北郭。范鞅門于揚門。州綽門于東閭。左驂迫。還于東門中。以枚数闔。斉侯駕。将走郵棠。大子与郭栄扣馬曰。師速而疾。略也。将退矣。君何懼焉。且社稷之主。不可以軽。軽則失衆。君必待之。将犯之。大子抽剣断鞅。乃止。甲辰。東侵及濰。南及沂。
書き下し
十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
現代語訳
十二月戊戌の日、諸侯の軍は秦周(斉の地名)に至り、雍門(斉の都臨淄の西門)の外の萩(ひさぎ)の木を伐った。范鞅(はんおう、士鞅)は雍門を攻めた。その御者の追喜は、戈で門の中の犬を殺した。魯の孟荘子(仲孫速)はそこの橁(ちゃんちん)の木を切って、襄公の琴の材料とした。己亥の日、雍門と西の外城・南の外城を焼いた。劉難(りゅうなん)と士弱(しじゃく)は諸侯の軍を率いて、申池のほとりの竹や木を焼いた。壬寅の日、東の外城と北の外城を焼いた。范鞅は揚門を攻め、州綽は東閭(東門)を攻めた。州綽の左の添え馬が門の中で身動きがとれなくなると、州綽は東門の中をぐるりと回り、馬の鞭の枚で門扉の板を一枚一枚数えてみせた(余裕を誇示したのである)。斉侯(霊公)は車に馬をつけさせ、郵棠へ逃げようとした。太子(光)と郭栄(かくえい)が馬を押さえて言った。「敵軍の動きが速く激しいのは、略奪が目的だからです。やがて退くでしょう。君は何を恐れておられるのですか。それに社稷の主たる者は、軽々しく動いてはなりません。軽々しく動けば民衆の心を失います。君はここで必ず待つべきです」。斉侯はそれでも強行して突破しようとした。太子は剣を抜いて馬の胸がいを断ち切った。そこで斉侯は思いとどまった。甲辰の日、諸侯の軍は東へ侵攻して濰水に至り、南へは沂水に至った。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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史記 孝景本紀三月丁酉、天下に赦し、爵一級を賜ひ、中二千石・諸侯の相に爵右庶長を賜ふ。四月、大いに酺す。五月丙戌、地動く、其の蚤食の時復た動く。上庸地動くこと二十二日、城垣を壊す。七月乙巳、日食す。丞相劉舎免ぜらる。八月壬辰、御史大夫綰を以て丞相と為し、建陵侯に封ず。後二年正月、地一日に三たび動く。郅将軍匈奴を撃つ。酺すること五日。内史の郡をして馬に粟を食ましむるを得ず、県官に没入せしむ。徒隷をして七緵の布を衣しむ。馬舂を止む。歳の登らざるが為に、天下の歳を造らざるに食するを禁ず。列侯を省きて之を国に遣る。三月、匈奴雁門に入る。十月、長陵の田を租す。大いに旱す。衡山国・河東・雲中郡の民疫す。後三年十月、日月皆(食)赤きこと五日。十二月晦、雷あり。日紫の如し。五星逆行して太微を守る。月天廷の中を貫く。
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