智囊 / 詭道・韓信
水上軍開入之。趙果空壁爭漢旗鼓,逐信、耳。信、耳已入水上軍,軍皆殊死戰,不可敗。於是趙軍還歸壁,見壁皆漢幟,大驚,以為漢皆已得趙王將矣,遂亂走。漢兵夾擊,大破之。斬陳餘,擒趙王歇。諸將效首虜畢,因問信曰:「兵法:『右倍山陵,前左水澤』,今反以背水陣取勝,何也?」信曰:「此在兵法,顧左右不察耳。法不曰:『陷之死地而後生,投之亡地而後存』乎?且信非得素拊循士大夫也,所謂驅市人而戰之,其勢非置之死地,使人人自為戰。即予之生地,皆走,寧尚得而用之乎?」諸將乃服。〔述評〕秦姚丕守渭橋以拒晉師。王鎮惡溯渭而上,乘蒙衝小艦,行船者皆在艦內。秦人但見艦進,驚以為神。至渭橋,鎮惡令軍士食畢,皆持仗登岸,後者斬。既登,即密使人解放舟艦,渭水迅急,倏忽不見。乃諭士卒曰:「此為長安北門,去家萬里,舟楫衣糧,皆已隨流,今進戰而勝,則功名俱顯;不勝,則骸骨不返矣。」乃身先士卒,眾騰踴爭進,大破丕軍。
新字:水上軍開入之。趙果空壁争漢旗鼓,逐信、耳。信、耳已入水上軍,軍皆殊死戦,不可敗。於是趙軍還帰壁,見壁皆漢幟,大驚,以為漢皆已得趙王将矣,遂乱走。漢兵夾撃,大破之。斬陳余,擒趙王歇。諸将効首虜畢,因問信曰:「兵法:『右倍山陵,前左水沢』,今反以背水陣取勝,何也?」信曰:「此在兵法,顧左右不察耳。法不曰:『陥之死地而後生,投之亡地而後存』乎?且信非得素拊循士大夫也,所謂駆市人而戦之,其勢非置之死地,使人人自為戦。即予之生地,皆走,寧尚得而用之乎?」諸将乃服。〔述評〕秦姚丕守渭橋以拒晋師。王鎮悪溯渭而上,乗蒙衝小艦,行船者皆在艦内。秦人但見艦進,驚以為神。至渭橋,鎮悪令軍士食畢,皆持仗登岸,後者斬。既登,即密使人解放舟艦,渭水迅急,倏忽不見。乃諭士卒曰:「此為長安北門,去家万里,舟楫衣糧,皆已随流,今進戦而勝,則功名倶顕;不勝,則骸骨不返矣。」乃身先士卒,衆騰踴争進,大破丕軍。
書き下し
水上の軍、開きてこれを入る。趙、果たして壁を空にして漢の旗鼓を争い、信・耳を逐う。信・耳、已に水上の軍に入り、軍皆殊死して戦い、敗るべからず。是に於いて趙軍還りて壁に帰り、壁の皆漢の幟なるを見て、大いに驚き、漢皆已に趙王・将を得たりと以い、遂に乱れ走る。漢兵夾み擊ち、大いにこれを破る。陳餘を斬り、趙王歇を擒にす。諸将、首虜を効げ畢わり、因りて信に問いて曰く、「兵法に、『右は山陵を倍にし、前左は水沢』と。今、反って水を背にして陣して勝ちを取るは、何ぞや」と。信曰く、「此れ兵法に在り、顧うに左右察せざるのみ。法に曰わずや、『これを死地に陥れて而る後に生き、これを亡地に投じて而る後に存す』と。且つ信は素より士大夫を拊循するを得たるに非ず、所謂市人を駆りてこれを戦わしむるなり。其の勢い、これを死地に置き、人々をして自ら戦わしむるに非ずんば、即ち生地を予うれば、皆走らん。寧ろ尚お得てこれを用いんや」と。諸将乃ち服す。〔述評〕秦の姚丕、渭橋を守りて以て晋の師を拒ぐ。王鎮悪、渭を溯りて上り、蒙衝・小艦に乗り、船を行る者は皆艦内に在り。秦人は但だ艦の進むを見て、驚きて以て神と為す。渭橋に至り、鎮悪、軍士に令して食し畢り、皆仗を持して岸に登らしめ、後るる者は斬ると。既に登りて、即ち密かに人をして舟艦を解放せしむ。渭水は迅急にして、倏忽にして見えず。乃ち士卒に諭して曰く、「此れは長安の北門と為す。家を去ること万里、舟楫・衣糧は、皆已に流れに隨えり。今、進み戦いて勝たば、則ち功名俱に顕れん。勝たずんば、則ち骸骨返らざらん」と。乃ち身ずから士卒に先んじ、衆騰踴して争い進み、大いに姚丕の軍を破る。
現代語訳
川のほとりの軍は陣を開いて彼らを受け入れた。趙軍は果たして陣営を空にして漢の旗と太鼓を奪い合い、韓信と張耳を追った。韓信と張耳はすでに川のほとりの軍に入り、軍は皆死力を尽くして戦い、敗れなかった。そこで趙軍は陣営に戻ろうとしたが、陣の旗が皆漢の旗になっているのを見て、大いに驚き、漢軍がすでに趙王と将を捕らえたと思い、ついに乱れて逃げた。漢兵は挟み撃ちにし、大いに破った。陳餘を斬り、趙王の歇を捕らえた。諸将は首と捕虜を献上し終えると、韓信に尋ねた。「兵法に、『右と後ろは山や丘を背にし、前と左は水や沢にする』とあります。今、逆に川を背にして陣を張って勝ったのは、なぜですか」。韓信は言った。「これは兵法にあることで、諸君が気づかなかっただけだ。兵法に『これを死地に陥れて初めて生き、これを滅びの地に投じて初めて存する』とあるではないか。しかも私は、もとから士大夫たちをよく手なずけていたわけではない。いわば市井の人々を駆り立てて戦わせるようなものだ。その勢いでは、死地に置いて、一人ひとりが自ら戦うようにしなければ、逃げ場を与えれば皆走ってしまう。そうなれば、使うことなどできようか」。諸将はそこで感服した。〔述評〕秦の姚丕が渭橋を守って晋の軍を防いだ。王鎮悪は渭水をさかのぼり、蒙衝や小型の船に乗り、船を動かす者はみな船の中に隠れていた。秦の人々はただ船だけが進むのを見て、驚いて神の業だと思った。渭橋に着くと、王鎮悪は兵に食事を終えさせ、皆武器を持って岸に上らせ、遅れる者は斬ると命じた。上陸し終えると、ひそかに人に舟を解き放たせた。渭水は流れが速く、たちまち見えなくなった。そこで士卒に言い聞かせた。「ここは長安の北の門である。家から万里離れ、舟も衣服も食料も、すべて流れに従って去った。今、進んで戦って勝てば、手柄も名もともに顕れる。勝たなければ、骸骨も故郷に帰れない」。自ら士卒の先頭に立ち、兵は躍り上がって争い進み、姚丕の軍を大いに破った。
解説
この章句が説くこと
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李衛公問対・卷下故に用兵の法は、必ず先ず吾が士衆を察し、吾が勝氣を激して、乃ち以て敵を擊つべし。吳起の『四機』は、氣機を以て上と爲す。他の道無きなり。能く人人をして自ら鬬わしむれば、則ち其の銳當たる莫し。
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史記 高祖本紀約に負き、更めて沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・漢中に王とし、南鄭に都せしむ。関中を三分し、秦の三将を立つ。章邯を雍王と為し、廃丘に都せしむ。司馬欣を塞王と為し、櫟陽に都せしむ。董翳を翟王と為し、高奴に都せしむ。楚の将瑕丘の申陽を河南王と為し、洛陽に都せしむ。趙の将司馬卬を殷王と為し、朝歌に都せしむ。趙王歇徙りて代に王たり。趙の相張耳を常山王と為し、襄国に都せしむ。当陽君黥布を九江王と為し、六に都せしむ。懐王の柱国共敖を臨江王と為し、江陵に都せしむ。番君呉芮を衡山王と為し、邾に都せしむ。燕の将臧荼を燕王と為し、薊に都せしむ。故の燕王韓広徙りて遼東に王たり。広聴かず、臧荼攻めて之を無終に殺す。成安君陳余を河間の三県に封じ、南皮に居らしむ。梅鋗を十万戸に封ず。四月、兵戯下に罷み、諸侯各々国に就く。漢王国に之く、項王卒三万人をして従はしむ、楚と諸侯の慕ひて従ふ者数万人、杜の南より蝕中に入る。去れば輒ち棧道を焼き絶ち、以て諸侯の盗兵の之を襲ふに備へ、亦項羽に東する意無きを示す。南鄭に至る、諸将及び士卒多く道に亡げ帰る、士卒皆歌ひて東帰を思ふ。韓信漢王に説きて曰く、「項羽諸将の功有る者を王とし、而して王独り南鄭に居る、是れ遷なり。軍吏士卒は皆山東の人なり、日夜跂ちて帰らんことを望む、其の鋒に及びて之を用ゐば、以て大功有るべし。天下已に定まらば、人皆自ら寧んじ、復た用ゐるべからず。策を決して東に郷ひ、天下に権を争ふに如かず。」と。項羽関を出で、人をして義帝を徙さしむ。曰く、「古の帝者は地方千里、必ず上游に居る。」と。乃ち使をして義帝を長沙の郴県に徙さしめ、義帝の行を趣す、群臣稍々之に倍叛す、乃ち陰かに衡山王・臨江王をして之を撃たしめ、義帝を江南に殺す。項羽田栄を怨み、斉の将田都を立てて斉王と為す。
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『講孟余話』萬章下 第七章此の章、官職ある者の君命に趨くと、庶人敢へて諸侯に見えざると、義自ら別なるを論ず。但し方今官職ある者の君命に趨かざるを患へず、庶人敢へて諸侯に見えざるの風、断えてなきこと、廉恥なきの世間、深く憂ふべし。古人も忠臣を求むるは孝子の門に於てす、事に臨み節に死するの士を求むるは、平時直言の士に於てすべしと云へば、士気を培養するは、兎角平素に在ることなり。平素廉恥なきの極、一旦変起こることあらば、万官奔竄、鳥栖を択ぶに至ること、鏡に掛けて見るが如し。是れ憂ふべしとする所以なり。是を憂へば他なし、千乗の国の士に事ふるの故事を修むるに若かず。是れ久遠の謀なり。
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言志四録・言志晩録 第百十五条 士気を振起するは率先に在り士気振はざれば、則ち防禦固からず。防禦固からざれば、則ち民心も亦固き能はず。然して其の士気を振起するは、人主の自ら奮ひて以て率先を為すに在り。復た別法の設くべき無し。
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