智囊 / 詭道・李廣・王越
廣與百餘騎獨出,望匈奴數千騎,見廣,以為誘騎,皆驚,上山陳。廣之百騎皆大恐,欲馳還走,廣曰:「吾去大軍數十里,今如此以百騎走,匈奴追射,我立盡。今我留,匈奴必以我為大軍之誘,必不敢擊。」乃令諸騎曰:「前。」未到匈奴陣二里所,止,令曰:「皆下馬解鞍。」其騎曰:「虜多且近,即有急,奈何?」廣曰:「彼虜以我為走,今皆解鞍以示不走。」於是胡騎遂不敢擊。有白馬將出護其兵,廣上馬,與十餘騎奔射殺胡白馬將,而復還至其騎中,解鞍,令士皆縱馬臥,會暮,胡兵終怪之,不敢擊。夜半,疑漢伏軍欲夜取之,皆引去。平旦,廣乃歸大軍。威寧伯王越與保國公朱永帥千人巡邊。虜猝至,主客不當,永欲走,越止之,為陣列自固,虜疑未敢前。薄暮,令騎皆下馬銜枚,魚貫行,毋反顧,自率驍勇殿,從山後走五十里,抵城,虜不覺,明日乃謂永曰:「我一動,虜躡擊,無噍類矣!結陣,示暇形以惑之也,次第而行,且下馬,無軍聲,故虜不覺也。」
新字:広与百余騎独出,望匈奴数千騎,見広,以為誘騎,皆驚,上山陳。広之百騎皆大恐,欲馳還走,広曰:「吾去大軍数十里,今如此以百騎走,匈奴追射,我立尽。今我留,匈奴必以我為大軍之誘,必不敢撃。」乃令諸騎曰:「前。」未到匈奴陣二里所,止,令曰:「皆下馬解鞍。」其騎曰:「虜多且近,即有急,奈何?」広曰:「彼虜以我為走,今皆解鞍以示不走。」於是胡騎遂不敢撃。有白馬将出護其兵,広上馬,与十余騎奔射殺胡白馬将,而復還至其騎中,解鞍,令士皆縦馬臥,会暮,胡兵終怪之,不敢撃。夜半,疑漢伏軍欲夜取之,皆引去。平旦,広乃帰大軍。威寧伯王越与保国公朱永帥千人巡辺。虜猝至,主客不当,永欲走,越止之,為陣列自固,虜疑未敢前。薄暮,令騎皆下馬銜枚,魚貫行,毋反顧,自率驍勇殿,従山後走五十里,抵城,虜不覚,明日乃謂永曰:「我一動,虜躡撃,無噍類矣!結陣,示暇形以惑之也,次第而行,且下馬,無軍声,故虜不覚也。」
書き下し
広、百余騎と独り出づ。匈奴の数千騎、広を望見し、以て誘騎と為し、皆驚き、山に上りて陳す。広の百騎は皆大いに恐れ、馳せ還り走らんと欲す。広曰く、「吾、大軍を去ること数十里なり。今かくのごとく百騎を以て走らば、匈奴追い射ち、我立ちどころに尽きん。今我留まらば、匈奴は必ず我を以て大軍の誘と為し、必ず敢えて撃たず」と。乃ち諸騎に令して曰く、「前め」と。匈奴の陣に未だ到らざること二里ばかりにして、止まり、令して曰く、「皆馬を下りて鞍を解け」と。其の騎曰く、「虜は多くして且つ近し。即ち急有らば、奈何せん」と。広曰く、「彼の虜は我を以て走ると為す。今皆鞍を解きて以て走らざるを示せり」と。是に於いて胡騎遂に敢えて撃たず。白馬の将有りて出で其の兵を護る。広、馬に上り、十余騎と奔りて射て胡の白馬の将を殺し、而して復た還りて其の騎の中に至り、鞍を解き、士をして皆馬を縦ち臥せしむ。暮に会い、胡兵は終にこれを怪しみ、敢えて撃たず。夜半、漢の伏軍の夜にこれを取らんと欲するかと疑い、皆引き去る。平旦、広乃ち大軍に帰る。威寧伯王越、保国公朱永と千人を帥いて辺を巡る。虜猝かに至り、主客当たらず。永は走らんと欲す。越これを止め、陣列を為して自ら固め、虜疑いて未だ敢えて前まず。薄暮、騎をして皆馬を下り枚を銜ましめ、魚貫して行き、反顧する毋からしめ、自ら驍勇を率いて殿し、山後より走ること五十里、城に抵る。虜覚らず。明日乃ち永に謂いて曰く、「我、一たび動かば、虜躡みて撃たん。噍類無からん。陣を結びて暇形を示すは、以て惑わすなり。次第に行き、且つ馬を下り、軍声無きは、故に虜覚らざるなり」と。
現代語訳
李広は百騎余りだけを連れて出ていた。匈奴の数千騎がこれを見て、おとりの騎兵だと考え、皆驚いて山に上り陣を構えた。李広の百騎は皆ひどく恐れ、馬を飛ばして逃げ帰ろうとした。李広は「われらは大軍から数十里離れている。今このように百騎で逃げたら、匈奴は追って射ち、われらはたちまち全滅する。今ここにとどまれば、匈奴はわれらを大軍のおとりだと思い、きっと攻撃してこない」と言った。そこで騎兵に「前へ進め」と命じた。匈奴の陣にあと二里ほどのところで止まり、「皆、馬から下りて鞍を外せ」と命じた。騎兵たちは「敵は多く、しかも近い。もし急襲されたらどうします」と言った。李広は「敵はわれらが逃げると考えている。今みな鞍を外して、逃げないことを示すのだ」と言った。こうして匈奴の騎兵はついに攻撃してこなかった。白い馬に乗った将が出てきて兵を守った。李広は馬に乗り、十騎余りと走り出て射て匈奴の白馬の将を殺し、また戻って自分の騎兵の中に入り、鞍を外し、兵士に皆馬を放して寝そべらせた。日暮れになり、匈奴の兵はいよいよ不審に思い、攻撃してこなかった。夜半、漢の伏兵が夜に自分たちを襲うのではないかと疑い、皆引き上げた。夜明けに、李広は大軍に帰った。威寧伯の王越は、保国公の朱永と千人を率いて辺境を巡視していた。敵が突然現れ、主客の勢いが敵わなかった。朱永は逃げようとしたが、王越はこれを止め、陣列を整えて自らを固めたので、敵は疑って進んでこなかった。日暮れに、騎兵を皆馬から下ろして枚をくわえさせ、魚が連なるように静かに進ませ、振り返らせず、自らは勇猛な者を率いて殿を務め、山の後ろから五十里走って城に着いた。敵は気づかなかった。翌日、王越は朱永に「わしが一度動けば、敵は追って撃ち、全滅していただろう。陣を組んで余裕を見せたのは、敵を惑わすためだ。順に進み、馬を下り、音を立てなかったので、敵は気づかなかったのだ」と語った。
解説
この章句が説くこと
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