智囊 / 詭道・張良
沛公欲以兵二萬人擊秦嶢下軍,張良說曰:「秦兵尚強,未可輕。臣聞其將屠者子,賈豎易動以利,願公且留壁,使人先行,為五萬人具食,益張旗幟諸山上,為疑兵;令酈食其持重寶啖秦將。」秦將果叛,欲連和俱西襲咸陽。沛公欲聽之,良曰:「此獨其將欲叛耳,恐士卒不從,不如因其懈而擊之。」沛公乃引兵,擊破秦軍。〔述評〕酈生既說下齊,而韓信襲擊,遂至臨淄。頡利兵敗求和,太宗遣鴻臚卿唐儉等慰撫之。頡利外為卑順,內實猶豫,李靖謀曰:「頡利雖敗,其眾尚十餘萬,若走度磧北,則難圖矣,今詔使至彼,虜必自寬,若選萬騎襲之,不戰可擒也,唐儉輩何足惜。」遂勒兵夜發,大破之。二事俱同此。
新字:沛公欲以兵二万人撃秦嶢下軍,張良説曰:「秦兵尚強,未可軽。臣聞其将屠者子,賈豎易動以利,願公且留壁,使人先行,為五万人具食,益張旗幟諸山上,為疑兵;令酈食其持重宝啖秦将。」秦将果叛,欲連和倶西襲咸陽。沛公欲聴之,良曰:「此独其将欲叛耳,恐士卒不従,不如因其懈而撃之。」沛公乃引兵,撃破秦軍。〔述評〕酈生既説下斉,而韓信襲撃,遂至臨淄。頡利兵敗求和,太宗遣鴻臚卿唐倹等慰撫之。頡利外為卑順,内実猶予,李靖謀曰:「頡利雖敗,其衆尚十余万,若走度磧北,則難図矣,今詔使至彼,虜必自寛,若選万騎襲之,不戦可擒也,唐倹輩何足惜。」遂勒兵夜発,大破之。二事倶同此。
書き下し
沛公、兵二万人を以て秦の嶢下の軍を撃たんと欲す。張良説きて曰く、「秦兵は尚お強し。未だ軽んずべからず。臣聞く、其の将は屠者の子にして、賈豎は利を以て動かし易しと。願わくは公且く壁に留まり、人をして先行せしめ、五万人の為に食を具え、益々旗幟を諸山の上に張りて疑兵と為し、酈食其をして重宝を持して秦将を啖わしめよ」と。秦将果たして叛き、連和して俱に西のかた咸陽を襲わんと欲す。沛公これを聴かんと欲す。良曰く、「此れ独り其の将のみ叛かんと欲するなり。恐らくは士卒従わじ。其の懈るに因りてこれを撃つに如かず」と。沛公乃ち兵を引き、秦軍を撃破す。〔述評〕酈生既に斉を説き下し、而して韓信襲撃して、遂に臨淄に至る。頡利、兵敗れて和を求む。太宗、鴻臚卿の唐倹らを遣わしてこれを慰撫せしむ。頡利、外は卑順を為すも、内は実に猶豫す。李靖謀りて曰く、「頡利は敗ると雖も、其の衆尚お十余万なり。若し走りて磧北に度らば、則ち図り難し。今、詔使彼に至らば、虜必ず自ら寛がん。若し万騎を選びてこれを襲わば、戦わずして擒にすべきなり。唐倹の輩、何ぞ惜しむに足らん」と。遂に兵を勒して夜発し、大いにこれを破る。二事俱に此れに同じ。
現代語訳
沛公(劉邦)は兵二万で秦の嶢関の下にいる軍を攻めようとした。張良は「秦の兵はまだ強く、軽く見てはなりません。聞くところでは、その将軍は屠殺業者の子で、商人は利益で動かしやすいといいます。どうか公はしばらく陣にとどまり、人を先に行かせ、五万人分の食事を用意し、さらに多くの旗を山々の上に立てて疑兵とし、酈食其に高価な宝を持たせて秦の将軍を誘わせてください」と説いた。秦の将軍は果たして寝返り、手を結んで共に西の咸陽を襲おうとした。沛公はこれを聞き入れようとしたが、張良は「これはその将軍だけが寝返ろうとしているのです。おそらく兵士は従わないでしょう。相手が気をゆるめているところを撃つのが一番です」と言った。沛公はそこで兵を率いて秦軍を撃ち破った。〔述評〕酈食其が斉を説き伏せたあとで、韓信が斉を襲撃し、ついに臨淄に至った。頡利可汗は兵が敗れて和睦を求めた。太宗は鴻臚卿の唐倹らを送って慰撫させた。頡利は表向きはへりくだって従順にしたが、内心は実のところ迷っていた。李靖は「頡利は敗れたとはいえ、その兵はまだ十万余りです。もし走って砂漠の北に渡ってしまえば、討つのは難しくなります。今、使者が彼のもとに着けば、敵は必ず気を緩めます。もし精鋭一万騎を選んで襲えば、戦わずに捕らえられます。唐倹らのことなど惜しむに足りません」と謀った。そして兵をまとめて夜に出発し、敵を大いに破った。この二つの事は、この話と同じである。
解説
この章句が説くこと
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