智囊 / 詭道・康茂才
陳友諒既陷太平,據上流,遣人約張士誠同侵建康。或勸上自將擊之,上曰:「敵知我出,以偏師綴我,而大軍順流,直趨建康,半日可達,吾步騎急回,百里趨戰,兵法所忌。」乃召康茂才,謂曰:「二寇相合,為患必深,若先破友諒,則東寇膽落矣,汝能速之使來乎?」茂才曰:「家有老閽者,舊嘗事友諒,今往必信。」遂令閽者齎書,乘小舸徑至偽漢軍中,許以內應。友諒果信之,甚喜,問康公,曰:「今何在?」曰:「見守江東橋。」又問:「橋何如?」曰:「木橋也。」賜食遣還,囑曰:「吾即至,至則呼老康為號。」閽者還告,上曰:「虜落吾觳中矣。」乃使人撤木橋,易以鐵石,一宵而成。
新字:陳友諒既陥太平,拠上流,遣人約張士誠同侵建康。或勧上自将撃之,上曰:「敵知我出,以偏師綴我,而大軍順流,直趨建康,半日可達,吾歩騎急回,百里趨戦,兵法所忌。」乃召康茂才,謂曰:「二寇相合,為患必深,若先破友諒,則東寇胆落矣,汝能速之使来乎?」茂才曰:「家有老閽者,旧嘗事友諒,今往必信。」遂令閽者齎書,乗小舸径至偽漢軍中,許以内応。友諒果信之,甚喜,問康公,曰:「今何在?」曰:「見守江東橋。」又問:「橋何如?」曰:「木橋也。」賜食遣還,囑曰:「吾即至,至則呼老康為号。」閽者還告,上曰:「虜落吾觳中矣。」乃使人撤木橋,易以鉄石,一宵而成。
書き下し
陳友諒既に太平を陥れ、上流に拠り、人を遣わして張士誠と約し、同じく建康を侵さんとす。或るひと上に自ら将として撃たんことを勧む。上曰く、「敵、我の出づるを知れば、偏師を以て我を綴め、而して大軍は流れに順い、直ちに建康に趨かん。半日にして達すべし。吾が歩騎急ぎ回り、百里を趨りて戦うは、兵法の忌む所なり」と。乃ち康茂才を召して、謂いて曰く、「二寇相合すれば、患いたるや必ず深し。若し先ず友諒を破れば、則ち東寇は胆落ちん。汝、能く速やかにこれを使て来たらしめんか」と。茂才曰く、「家に老閽者有り、旧と嘗て友諒に事う。今往かば必ず信ぜられん」と。遂に閽者をして書を齎らし、小舸に乗りて径ちに偽漢の軍中に至り、内応を許さしむ。友諒果たしてこれを信じ、甚だ喜び、康公を問う。曰く、「今何くにか在る」と。曰く、「江東橋を守るを見る」と。又問う、「橋は何如」と。曰く、「木橋なり」と。食を賜いて遣わし還し、嘱して曰く、「吾即ち至らん。至らば則ち老康を呼びて号と為さん」と。閽者還りて告ぐ。上曰く、「虜、吾が觳中に落ちたり」と。乃ち人をして木橋を撤し、易うるに鉄石を以てせしめ、一宵にして成る。
現代語訳
陳友諒は太平を陥落させ、長江の上流に拠って、使者を送って張士誠と約束し、共に建康を攻めようとした。ある者が上(朱元璋)に自ら出陣して迎え撃つよう勧めた。上は「敵はわが軍が出陣したのを知れば、別働隊でわれらをここに釘づけにし、大軍は流れに乗って直接建康に向かうだろう。半日で着く。わが歩兵と騎兵が急いで引き返し、百里を駆けて戦うのは、兵法が忌むところだ」と言った。そこで康茂才を呼び、「二つの敵が合流すれば、災いは必ず深くなる。もし先に陳友諒を破れば、東の敵は肝をつぶすだろう。おまえは陳友諒を早く来させられるか」と言った。茂才は「家に年老いた門番がおり、昔陳友諒に仕えておりました。今行かせれば必ず信用されます」と答えた。そこで門番に書状を持たせ、小舟で偽の漢の軍中に直接行かせ、内応を約束させた。陳友諒はそれを信じて大いに喜び、「康公は今どこにいるか」と尋ねた。門番は「江東橋を守っております」と答えた。さらに「橋はどんなだ」と尋ねると、「木の橋です」と答えた。食事をふるまって帰し、「私はすぐに行く。着いたら『老康』と呼んで合図にしよう」と言い含めた。門番が帰って告げると、上は「敵はわが罠に落ちた」と言った。そこで人に命じて木の橋を取り壊し、鉄と石に作り替えさせ、一晩で完成した。
解説
この章句が説くこと
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