智囊 / 詭道・蒍賈・師叔
楚大飢,庸人率群蠻叛楚。麇人帥百濮聚於選,將伐楚。於是申息之北門不啟。楚人謀徙於阪高。蒍賈曰:「不可,我能往,寇亦能往。不如伐庸。夫麇與百濮謂我飢不能師,故伐我也。若我出師,必懼而歸。百濮離居,將各走其邑,誰暇謀人?」及出師侵庸,及庸方城。庸人逐之,囚子揚窗。三宿而逸,曰:「庸師眾,群蠻聚焉,不如復大師,且起王卒,合而後進。」師叔曰:「不可,姑又與之遇以驕之,彼驕我怒,而後可克。先君蚡冒所以服陘隰也。」又與之遇,七遇皆北。庸人曰:「楚不足與戰矣!」遂不設備。楚子乘馹,會師於臨品,分為二隊以伐庸,群蠻從楚子盟,遂滅庸。〔評議〕楚以不徙而存,宋以南渡而削。我朝土木之變,徐武功倡言南遷,賴肅愍諸公不惑其言。不然,事未可知矣!
新字:楚大飢,庸人率群蠻叛楚。麇人帥百濮聚於選,将伐楚。於是申息之北門不啓。楚人謀徙於阪高。蒍賈曰:「不可,我能往,寇亦能往。不如伐庸。夫麇与百濮謂我飢不能師,故伐我也。若我出師,必懼而帰。百濮離居,将各走其邑,誰暇謀人?」及出師侵庸,及庸方城。庸人逐之,囚子揚窗。三宿而逸,曰:「庸師衆,群蠻聚焉,不如復大師,且起王卒,合而後進。」師叔曰:「不可,姑又与之遇以驕之,彼驕我怒,而後可克。先君蚡冒所以服陘隰也。」又与之遇,七遇皆北。庸人曰:「楚不足与戦矣!」遂不設備。楚子乗馹,会師於臨品,分為二隊以伐庸,群蠻従楚子盟,遂滅庸。〔評議〕楚以不徙而存,宋以南渡而削。我朝土木之変,徐武功倡言南遷,頼粛愍諸公不惑其言。不然,事未可知矣!
書き下し
楚、大いに飢う。庸人、群蠻を率いて楚に叛く。麇人、百濮を帥いて選に聚まり、將に楚を伐たんとす。是に於いて申、息の北門啟かず。楚人、阪高に徙らんことを謀る。蒍賈曰く、「不可なり。我、能く往かば、寇も亦た能く往く。庸を伐つに如かず。夫れ麇と百濮は、我が飢えて師する能わずと謂い、故に我を伐つなり。若し我、師を出ださば、必ず懼れて歸らん。百濮は居を離れ、將に各々其の邑に走らんとす。誰か人を謀るに暇あらん」と。師を出だして庸を侵すに及び、庸の方城に至る。庸人、之を逐い、子揚窗を囚う。三宿して逸る。曰く、「庸の師は眾く、群蠻聚まる。復た大師を起こし、且つ王卒を起こし、合して後に進むに如かず」と。師叔曰く、「不可なり。姑く又之に遇いて以て之を驕らしめよ。彼驕り我怒りて、而る後に克つべし。先君蚡冒の陘隰を服せし所以なり」と。又之に遇う。七たび遇いて皆な北ぐ。庸人曰く、「楚は與に戰うに足らず」と。遂に備えを設けず。楚子、馹に乘り、臨品に師を會し、分かちて二隊と為り、以て庸を伐つ。群蠻、楚子に從いて盟い、遂に庸を滅ぼす。〔評議〕楚は徙らざるを以て存し、宋は南渡を以て削らる。我が朝の土木の變、徐武功、南遷を倡言するも、肅愍諸公の其の言に惑わざるに賴る。然らざれば、事は未だ知るべからざるなり。
現代語訳
楚が大飢饉に見舞われました。庸の人々は多くの蛮族を率いて楚に背きました。麇の人々は百濮を率いて選に集まり、楚を討とうとしていました。そのため、申と息の北門は開かないほどでした。楚の人々は阪高に遷都しようと謀りました。蒍賈は言いました。「いけません。我々が行けるなら、敵も行けます。庸を討つほうがよい。そもそも麇と百濮は、我々が飢えて軍を出せないと思い、だから攻めてくるのです。もし我々が軍を出せば、必ず恐れて帰るでしょう。百濮は住居を離れていて、それぞれの故郷に走ろうとするでしょう。誰が他人を攻める余裕があるでしょうか」。軍を出して庸を攻め、庸の方城に至りました。庸の人々は追撃し、子揚窗を捕らえました。三日泊まって逃げ出し、言いました。「庸の軍は多く、蛮族が集まっています。もう一度大軍を起こし、さらに王の親兵を起こして、合流してから進むのがよい」。師叔は言いました。「いけません。しばらくまた彼らと戦って驕らせましょう。彼らが驕り、我々が怒って、その後に勝てます。先君の蚡冒が陘隰を服属させた方法です」。再び彼らと戦いました。七回戦って七回とも負けて退きました。庸の人々は言いました。「楚はもう戦うに足りない」。そして備えをしなくなりました。楚子は駅伝の馬車に乗り、臨品で軍を合流させ、二隊に分けて庸を討ちました。蛮族たちは楚子に従って盟約し、ついに庸を滅ぼしました。〔評議〕楚は遷都しなかったから存続し、宋は南渡したから衰えました。我が明朝の土木の変のとき、徐武功は南への遷都を唱えましたが、粛愍公于謙ら諸公がその言葉に惑わされなかったおかげで助かりました。そうでなければ、どうなったかわかりません。
解説
この章句が説くこと
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史記 高祖本紀漢王項羽を数めて曰く、「始め項羽と倶に命を懐王に受く、曰く先づ入りて関中を定むる者は之を王とせんと、項羽約に負き、我を蜀漢に王とす、罪の一なり。項羽卿子冠軍を矯殺して自ら尊ぶ、罪の二なり。項羽已に趙を救ひ、当に還りて報ずべきに、而して擅に諸侯の兵を劫かして関に入る、罪の三なり。懐王約すらく秦に入りて暴掠する無かれと、項羽秦の宮室を焼き、始皇帝の冢を掘り、私に其の財物を収む、罪の四なり。又彊ひて秦の降王子嬰を殺す、罪の五なり。詐りて秦の子弟を新安に阬にすること二十万、其の将を王とす、罪の六なり。項羽皆諸将を善地に王とし、而して故主を徙逐し、臣下をして争ひて叛逆せしむ、罪の七なり。項羽義帝を彭城より出だし逐ひ、自ら之に都し、韓王の地を奪ひ、梁・楚に并せ王とし、多く自ら予ふ、罪の八なり。項羽人をして陰かに義帝を江南に弑せしむ、罪の九なり。夫れ人臣と為りて其の主を弑し、已に降るを殺し、政を為すこと平らかならず、約を主りて信ならず、天下の容れざる所、大逆無道なり、罪の十なり。吾義兵を以て諸侯に従ひて残賊を誅す、刑余の罪人をして項羽を撃殺せしめん、何ぞ苦しみて乃ち公と挑戦せんや。」と。項羽大いに怒り、伏弩もて漢王を射中つ。漢王匈(むね)を傷つく、乃ち足を捫(な)でて曰く、「虜吾が指に中つ。」と。漢王創を病みて臥す、張良彊ひて漢王に起ちて行きて軍を労はんことを請ひ、以て士卒を安んじ、楚をして漢に勝ちに乗ぜしむる毋からしむ。漢王出でて軍を行(めぐ)る、病甚だし、因りて馳せて成皋に入る。病愈え、西して関に入り、櫟陽に至り、父老を存問し、置酒し、故の塞王欣の頭を櫟陽の市に梟す。留まること四日、復た軍に如き、広武に軍す。関中の兵益々出づ。此の時に当たりて、彭越兵を将ゐて梁の地に居り、往来して楚の兵を苦しめ、其の糧食を絶つ。田横往きて之に従ふ。項羽数(しばしば)彭越等を撃つ、斉王信又進みて楚を撃つ。項羽恐れ、乃ち漢王と約し、天下を中分し、鴻溝を割きて西なる者を漢と為し、鴻溝よりして東なる者を楚と為す。
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史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
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孟子・離婁章句下孟子曰く、「罪無くして士を殺さば、則ち大夫以て去る可し。罪無くして民を戮せば、則ち士以て徙る可し。」
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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『春秋左氏伝』襄公十八年 太子、剣を抜きて鞅を断つ十二月戊戌、秦周に及びて雍門の萩を伐つ。范鞅雍門に門す。其の御追喜、戈を以って犬を門中に殺す。孟莊子其の橁を斬りて、以って公の琴と為す。己亥、雍門及び西郭・南郭を焚く。劉難・士弱、諸侯の師を率ゐて、申池の竹木を焚く。壬寅、東郭・北郭を焚く。范鞅揚門に門す。州綽東閭に門す。左驂迫りて、東門の中に還り、枚を以って闔を數ふ。齊侯駕して、將に郵棠に走らんとす。大子と郭榮と馬を扣へて曰く、「師速やかにして疾し、略するなり。將に退かんとす。君何ぞ懼れん。且つ社稷の主は、以って輕んずべからず。輕んずれば則ち眾を失ふ。君必ず之を待て」と。將に之を犯さんとす。大子劍を抽きて鞅を斷つ。乃ち止む。甲辰、東のかた侵して濰に及び、南のかた沂に及ぶ。
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