智囊 / 制勝・李繼隆
淳化中,李繼捧為定難軍節度使,陰與弟繼遷謀叛。朝廷遣李繼隆率兵討之。繼隆夜入綏州,欲徑襲夏州。或謂夏州賊帥所在,我兵少,恐不能克,不若先據石堡以觀賊勢。繼隆曰:「不然,我兵既少,若徑入夏州,出其不意,彼亦未能料我眾寡;若先據石堡,眾寡一露,豈能復進?」乃引兵馳入撫寧縣,繼捧猶未覺。遂進攻夏州,繼捧狼狽出迎,擒之以歸。
新字:淳化中,李継捧為定難軍節度使,陰与弟継遷謀叛。朝廷遣李継隆率兵討之。継隆夜入綏州,欲径襲夏州。或謂夏州賊帥所在,我兵少,恐不能克,不若先拠石堡以観賊勢。継隆曰:「不然,我兵既少,若径入夏州,出其不意,彼亦未能料我衆寡;若先拠石堡,衆寡一露,豈能復進?」乃引兵馳入撫寧県,継捧猶未覚。遂進攻夏州,継捧狼狽出迎,擒之以帰。
書き下し
淳化中、李繼捧、定難軍節度使と為り、陰かに弟の繼遷と叛を謀る。朝廷、李繼隆を遣わし、兵を率いて之を討たしむ。繼隆、夜に綏州に入り、徑ちに夏州を襲わんと欲す。或るひと謂う、「夏州は賊帥の在る所、我が兵は少なく、恐らくは克つ能わず。先ず石堡に據りて以て賊の勢いを觀るに若かず」と。繼隆曰く、「然らず。我が兵既に少なし。若し徑ちに夏州に入らば、其の不意に出で、彼も亦た未だ我が眾寡を料る能わず。若し先ず石堡に據らば、眾寡一たび露われば、豈に能く復た進まんや」と。乃ち兵を引いて馳せ撫寧縣に入る。繼捧は猶お未だ覺らず。遂に進みて夏州を攻め、繼捧、狼狽して出で迎え、之を擒にして歸る。
現代語訳
淳化年間、李継捧は定難軍節度使となり、ひそかに弟の継遷と謀反を企てました。朝廷は李継隆を派遣し、兵を率いて討たせました。李継隆は夜に綏州に入り、そのまま夏州を襲おうとしました。ある人が言いました。「夏州は賊の首領がいる所で、我が軍は少なく、勝てないかもしれません。まず石堡に拠って、賊の勢いを見るほうがよいでしょう」。李継隆は言いました。「そうではない。我が軍は少ない。もしそのまま夏州に入れば、敵の不意を突くことになり、敵も我が軍の多少をまだ見積もれない。もし先に石堡に拠れば、兵の多少が一度露わになったら、どうして再び進めようか」。そして兵を率いて馳せ、撫寧県に入りました。李継捧はまだ気づいていませんでした。そのまま進んで夏州を攻めると、李継捧はあわてふためいて出迎え、捕らえて連れ帰りました。
解説
この章句が説くこと
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