智囊 / 制勝・吳成器
休寧吳成器由吏員為餘姚主簿時,胡梅林用兵之際,聞倭至紹興,欲擇能事者往探。縣令已遣丞,丞懼,不欲行。吳大言曰:「探一信便畏縮,況交鋒耶?」丞以告令,令壯其言,薦於院,胡公召見,問:「吳簿能探賊乎?」曰:「能。」公曰:「若果能往,當以某部二千人畀汝,聽汝指揮。」吳曰:「不須如許,但容某自選擇,乃可從之。」吳於教場立格,選得五百人,帥之往。見所過山村俱束裝謀遁,吳諭之:「無畏,大兵隨後至矣。但爾曹須從我戒。」眾唯唯聽命。吳指山間草積,謂曰:「爾若遁,此皆非汝有,今與汝約,以炮聲為號,為我舉火焚之,我為爾殺賊。」眾許諾,夜半行至陶家畈,探知倭船十三隻泊河下,群倭擄掠既飽,聚飲村中,摟婦人而臥。乃分遣五百人殲其守船者,徙其舟,連舉大炮,山民如約,皆舉火,倭於夢中聞炮聲,驚起,則火光燭天,疑大兵至,爭竄至河下,已失舟,方彷徨尋覓,吳率眾呼噪而至,斬獲數百級,倭自此絕不敢犯紹興。胡公上其功,隨升紹興府判,後升僉事。〔評〕如此吏員,恐科甲中亦不易得也。
新字:休寧呉成器由吏員為余姚主簿時,胡梅林用兵之際,聞倭至紹興,欲択能事者往探。県令已遣丞,丞懼,不欲行。呉大言曰:「探一信便畏縮,況交鋒耶?」丞以告令,令壮其言,薦於院,胡公召見,問:「呉簿能探賊乎?」曰:「能。」公曰:「若果能往,当以某部二千人畀汝,聴汝指揮。」呉曰:「不須如許,但容某自選択,乃可従之。」呉於教場立格,選得五百人,帥之往。見所過山村倶束装謀遁,呉諭之:「無畏,大兵随後至矣。但爾曹須従我戒。」衆唯唯聴命。呉指山間草積,謂曰:「爾若遁,此皆非汝有,今与汝約,以炮声為号,為我舉火焚之,我為爾殺賊。」衆許諾,夜半行至陶家畈,探知倭船十三隻泊河下,群倭擄掠既飽,聚飲村中,摟婦人而臥。乃分遣五百人殲其守船者,徙其舟,連舉大炮,山民如約,皆舉火,倭於夢中聞炮声,驚起,則火光燭天,疑大兵至,争竄至河下,已失舟,方彷徨尋覓,呉率衆呼噪而至,斬獲数百級,倭自此絶不敢犯紹興。胡公上其功,随升紹興府判,後升僉事。〔評〕如此吏員,恐科甲中亦不易得也。
書き下し
休寧の吳成器、吏員より餘姚の主簿と為る時、胡梅林、兵を用うるの際、倭の紹興に至るを聞き、事を能くする者を擇びて往き探らしめんと欲す。縣令、已に丞を遣わすも、丞は懼れて行くを欲せず。吳、大言して曰く、「一信を探るに便ち畏縮す。況んや鋒を交うるをや」と。丞、以て令に告ぐ。令、其の言を壯とし、院に薦む。胡公、召見して問う、「吳簿、能く賊を探るか」と。曰く、「能くす」と。公曰く、「若し果たして能く往かば、當に某部の二千人を以て汝に畀え、汝の指揮に聽かしむべし」と。吳曰く、「許くの如きを須いず。但だ某が自ら選擇するを容さば、乃ち從うべし」と。吳、教場に格を立て、五百人を選び得て、之を帥いて往く。過ぐる所の山村を見るに、俱に裝を束ねて遁れんことを謀る。吳、之に諭す、「畏るる無かれ。大兵、隨いて後に至らん。但し爾曹は須く我が戒に從うべし」と。眾、唯々として命を聽く。吳、山間の草積を指して謂いて曰く、「爾若し遁れなば、此れ皆な汝の有に非ず。今、汝と約す。炮聲を以て號と為し、我が為に火を舉げて之を焚け。我、爾が為に賊を殺さん」と。眾、許諾す。夜半、陶家畈に行き至り、倭船十三隻が河下に泊するを探知す。群倭は擄掠既に飽き、村中に聚飲し、婦人を摟きて臥す。乃ち五百人を分遣して其の船を守る者を殲し、其の舟を徙し、連りに大炮を舉ぐ。山民、約の如く、皆な火を舉ぐ。倭、夢中に炮聲を聞き、驚き起つに、則ち火光天を燭らす。大兵至るかと疑い、爭いて河下に竄るに、已に舟を失い、方に彷徨して尋ね覓む。吳、眾を率いて呼噪して至り、斬獲すること數百級、倭は此れより絕えて敢えて紹興を犯さず。胡公、其の功を上し、隨いて紹興府判に升り、後に僉事に升る。〔評〕此くの如き吏員、恐らくは科甲の中にも亦た得易からざらん。
現代語訳
休寧の呉成器が、下級役人から余姚の主簿になったときのことです。胡梅林が兵を動かしていた頃、倭寇が紹興に来たと聞き、物事をうまくこなせる者を選んで偵察に行かせようとしました。県令はすでに県丞を派遣しましたが、県丞は恐れて行きたがりませんでした。呉成器は大声で言いました。「情報を一つ探るだけで縮み上がるのに、まして刃を交えることなどできるものか」。県丞はこれを県令に告げました。県令はその言葉を頼もしいと思い、胡梅林のいる役所に推薦しました。胡公は呼び出して尋ねました。「呉主簿、賊を探れるか」。「できます」。胡公は言いました。「もし本当に行けるなら、某部隊の二千人をそなたに与え、指揮に従わせよう」。呉成器は答えました。「そんなには要りません。ただ私が自分で選ぶことをお許しいただければ、それで行けます」。呉成器は教練場で基準を立て、五百人を選んで、率いて出発しました。通り過ぎる山村では、みな荷物をまとめて逃げようとしていました。呉成器は村人に言い聞かせました。「恐れるな。大軍が後から来る。ただしおまえたちは私の戒めに従え」。人々は「はい」と従いました。呉成器は山あいの草の山を指して言いました。「おまえたちがもし逃げれば、これはみなおまえたちのものではなくなる。今おまえたちと約束する。砲声を合図に、私のために火をつけて焼け。私はおまえたちのために賊を殺そう」。人々は承知しました。夜半に陶家畈に着き、倭寇の船十三隻が河岸に泊まっているのを探り当てました。倭寇は略奪に飽き、村の中に集まって酒を飲み、女を抱いて寝ていました。そこで五百人を分けて船を守る者を皆殺しにし、船を移し、続けざまに大砲を撃たせました。山の民は約束どおり、皆が火をつけました。倭寇は夢の中で砲声を聞き、驚いて起きてみると、火の光が天を照らしています。大軍が来たのかと疑い、争って河岸に逃げましたが、すでに船はなく、あてもなくさまよい探していました。呉成器は兵を率いて鬨の声を上げて駆けつけ、数百の首を斬り捕らえ、倭寇はこれ以来決して紹興を侵しませんでした。胡公は功績を上奏し、呉成器は紹興府判に昇進し、のちに僉事に昇りました。〔評〕このような下級役人は、科挙出身者の中でもなかなか得難いでしょう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『春秋左氏伝』文公三年 秦、西戎に覇たり春、莊叔諸侯の師に會して沈を伐つ、其の楚に服するを以ってなり。沈潰ゆ。凡そ民、其の上を逃るるを潰と曰ひ、上に在るを逃と曰ふ。衛侯陳に如く、晉の成を拜するなり。夏四月、乙亥、王叔文公卒す。來りて赴ぐ。弔すること同盟の如くす、禮なり。秦伯晉を伐つ。河を濟りて舟を焚き、王官及び郊を取る。晉人出でず。遂に茅津より濟り、殽の尸を封じて還る。遂に西戎に霸たり、孟明を用ゐればなり。君子是を以って知る、秦の穆公の君為るや、人を舉ぐることの周きなり、人に與することの壹なるなり。孟明の臣為るや、其の解(おこた)らざるなり、能く懼れて思ふなり。子桑の忠なるや、其の人を知るなり、能く善を舉ぐるなり。《詩》に曰く、「于(ここ)に以って蘩を采る、沼に于てし沚に于てす。于に以って之を用ゐる、公侯の事なり」と。秦の穆之れ有り。「夙夜解らず、以って一人に事ふ」と。孟明之れ有り。「厥の孫謀を詒(のこ)し、以って子を燕翼す」と。子桑之れ有り。秋、宋に螽雨る、隊ちて死するなり。楚の師江を圍む。晉の先僕楚を伐ちて以って江を救ふ。冬、晉江の故を以って周に告ぐ。王叔桓公・晉の陽處父、楚を伐ちて、以って江を救ふ。方城に門し、息の公子朱に遇ひて還る。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『春秋左氏伝』昭公二十八年 唯だ善の在る所之に縣を與ふと雖も、亦た可ならずや。昔武王商に克ち、光(おほ)いに天下を有つ。其の兄弟の國なる者十有五人、姬姓の國なる者四十人、皆親を舉ぐるなり。夫れ舉ぐるに他無し、唯だ善の在る所なり、親疏一なり。詩に曰く、『唯れ此の文王、帝其の心を度(はか)り、其の德音を莫(さだ)む。其の德克く明らかに、克く明らかに克く類し、克く長じ克く君たり。此の大國に王として、克く順ひ克く比す。文王に比(およ)びて、其の德悔い靡し。既に帝の祉を受け、孫子に施す』と。心能く義を制するを度と曰ひ、德正しくして應和するを莫と曰ひ、四方に照臨するを明と曰ひ、勤施して私無きを類と曰ひ、教誨して倦まざるを長と曰ひ、賞慶刑威あるを君と曰ひ、慈和にして遍く服するを順と曰ひ、善を擇びて之に從ふを比と曰ひ、天地を經緯するを文と曰ふ。九德愆(あやま)たず、事を作して悔い無し。故に天祿を襲(う)け、子孫之に賴る。主の舉ぐるや、文德に近し。及ぶ所其れ遠からんかな」と。賈辛將に其の縣に適かんとし、魏子に見ゆ。魏子曰く、「辛來たれ。昔叔向鄭に適く。
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『長短経』論士諺に曰く「浴するは必ずしも江海ならず、之を垢を去るに要む。馬は必ずしも騏驥ならず、之を善く走るに要む。士は必ずしも賢ならざるなり、之を道を知るに要む。女は必ずしも貴種ならず、之を貞好に要む」と。何を以て之を明らかにせん。淳于髠、斉の宣王に謂いて曰く「古者は馬を好む、王も亦た馬を好む。古者は味を好む、王も亦た味を好む。古者は色を好む、王も亦た色を好む。古者は士を好む、王独り好まず」と。王曰く「国に士無きのみ。有らば則ち寡人も亦た之を悦ばん」と。髠曰く「古に驊騮有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は馬を好むなり。古に豹象の胎有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は味を好むなり。古に毛嬙・西施有り、今は之れ有る無し。王は衆より選ぶ、王は色を好むなり。王、必ず堯舜禹湯の士を待ちて而る後に之を好まば、則ち堯舜禹湯の士も、亦た王を好まざらん」と。
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『長短経』任長管仲曰く「昇降揖譲、進退閑習なるは、臣は隰朋に如かず。請う、立てて以て大行と為せ。土を闢き粟を聚め、地の利を尽くすは、臣は甯戚に如かず。請う、立てて以て司田と為せ。平原広牧、車は轍を結ばず、士は踵を旋らさず、之を鼓して三軍の士、死を視ること帰するが如きは、臣は王子城父に如かず。請う、立てて以て大司馬と為せ。獄を決し中を折り、不辜を殺さず、不罪を誣いざるは、臣は賓胥無に如かず。請う、立てて以て大理と為せ。君の顔色を犯し、諫を進めて必ず忠、死亡を避けず、富貴に撓まざるは、臣は東郭牙に如かず。請う、立てて以て大諫と為せ。君若し国を治め兵を強くせんと欲せば、則ち五子なる者存す。若し覇王たらんと欲せば、則ち夷吾此に在り」と。
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史記 項羽本紀項梁嘗て櫟陽(やくよう)の逮有り、乃ち蘄(き)の獄掾(ごくえん)曹咎に請ひて書もて櫟陽の獄掾司馬欣に抵(いた)さしめ、故を以て事已むを得たり。項梁人を殺し、籍と仇を呉中に避く。呉中の賢士大夫皆項梁の下に出づ。呉中に大繇役及び喪有る毎に、項梁常に主辦を為し、陰かに兵法を以て賓客及び子弟を部勒し、是を以て其の能を知る。秦の始皇帝会稽に游び、浙江を渡る、梁と籍と倶に観る。籍曰く、「彼取りて代はるべきなり。」と。梁其の口を掩ひて、曰く、「妄言する毋かれ、族せられん。」と。梁此を以て籍を奇とす。籍は長八尺余、力は能く鼎を扛(あ)げ、才気人に過ぎ、呉中の子弟と雖も皆已に籍を憚る。秦の二世元年七月、陳渉等大沢中に起こる。其の九月、会稽の守通、梁に謂ひて曰く、「江西皆反す、此れ亦天の秦を亡ぼすの時なり。吾聞く、先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制する所と為ると。吾兵を発し、公及び桓楚をして将たらしめんと欲す。」と。是の時桓楚亡げて沢中に在り。梁曰く、「桓楚亡げ、人其の処を知る莫し、独り籍のみ之を知るのみ。」と。梁乃ち出で、籍を誡めて剣を持して外に居りて待たしむ。梁復た入り、守と坐して、曰く、「請ふ籍を召し、命を受けて桓楚を召さしめん。」と。守曰く、「諾。」と。梁籍を召して入らしむ。須臾にして、梁籍に眴(めくば)せして曰く、「行ふべし。」と。是に於て籍遂に剣を抜きて守の頭を斬る。項梁守の頭を持ち、其の印綬を佩ぶ。門下大いに驚き、擾乱す、籍の撃殺する所数十百人。一府中皆慴伏し、敢へて起つ莫し。梁乃ち故より知る所の豪吏を召し、諭すに起こす所の大事を以てし、遂に呉中の兵を挙ぐ。人をして下県を収めしめ、精兵八千人を得たり。梁呉中の豪傑を部署して校尉・候・司馬と為す。一人の用ゐらるるを得ざる有り、自ら梁に言ふ。梁曰く、「前時某の喪に公をして某の事を主らしむるも、辦ずる能はず、此を以て公を任用せず。」と。衆乃ち皆伏す。是に於て梁は会稽の守と為り、籍は裨将と為りて、下県を徇ふ。
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