智囊 / 制勝・馬隆
晉泰始中,涼州刺吏楊欣失羌戎之和,馬隆陳其必敗。俄而欣敗後,河西斷絕。帝每有西顧之憂,臨朝歎曰:「誰能為我討此虜,通涼州者。」隆進曰:「陛下若能任臣,臣能平之。」帝曰:「必能滅賊,何為不任,顧卿方略何如耳?」隆曰:「陛下任臣,當聽臣自任,臣請募勇士三千人,無問所從來。率之鼓行而西,稟陛下威德,丑虜不足滅也。」乃以隆為武威太守。公卿僉謂不宜橫設賞募,帝不聽,隆募限要引弩三十六鈞、弓四鈞,立標簡試,自旦至申,得三千五百人,隆曰:「足矣。」因請自至武庫選仗,並給三年軍資,隆隨西渡溫水,虜樹機能等眾萬許,乘險遏隆,或設伏以絕隆後。隆依「八陣圖」作偏箱車,地廣則為鹿角車營,路狹則為木屋施於車上,且戰且前,弓矢所及,應弦而倒。奇謀間發,出敵不意,轉戰千里,河西遂通。
新字:晋泰始中,涼州刺吏楊欣失羌戎之和,馬隆陳其必敗。俄而欣敗後,河西断絶。帝毎有西顧之憂,臨朝嘆曰:「誰能為我討此虜,通涼州者。」隆進曰:「陛下若能任臣,臣能平之。」帝曰:「必能滅賊,何為不任,顧卿方略何如耳?」隆曰:「陛下任臣,当聴臣自任,臣請募勇士三千人,無問所従来。率之鼓行而西,稟陛下威徳,丑虜不足滅也。」乃以隆為武威太守。公卿僉謂不宜横設賞募,帝不聴,隆募限要引弩三十六鈞、弓四鈞,立標簡試,自旦至申,得三千五百人,隆曰:「足矣。」因請自至武庫選仗,並給三年軍資,隆随西渡温水,虜樹機能等衆万許,乗険遏隆,或設伏以絶隆後。隆依「八陣図」作偏箱車,地広則為鹿角車営,路狭則為木屋施於車上,且戦且前,弓矢所及,応弦而倒。奇謀間発,出敵不意,転戦千里,河西遂通。
書き下し
晉の泰始中、涼州刺史楊欣、羌戎の和を失い、馬隆、其の必ず敗れんことを陳ぶ。俄にして欣敗れて後、河西斷絕す。帝、每に西顧の憂い有り。朝に臨みて歎じて曰く、「誰か能く我が為に此の虜を討ち、涼州に通ずる者ぞ」と。隆進みて曰く、「陛下若し能く臣に任ぜば、臣能く之を平げん」と。帝曰く、「必ず能く賊を滅ぼさば、何為れぞ任ぜざらん。顧うに卿の方略は何如のみ」と。隆曰く、「陛下、臣に任ずるに、當に臣の自ら任ずるに聽すべし。臣請う、勇士三千人を募り、從る所を問う無からんことを。之を率いて鼓行して西し、陛下の威德を稟くれば、丑虜は滅ぼすに足らず」と。乃ち隆を以て武威太守と為す。公卿僉な宜しく橫に賞募を設くべからずと謂うも、帝聽かず。隆の募るに限りは、弩の三十六鈞、弓の四鈞を要引し得る者とし、標を立てて簡試す。旦より申に至り、三千五百人を得たり。隆曰く、「足れり」と。因りて自ら武庫に至りて仗を選び、並びに三年の軍資を給せられんことを請う。隆、隨って西のかた溫水を渡る。虜の樹機能ら、眾は萬許、險に乘じて隆を遏め、或いは伏を設けて以て隆の後を絕つ。隆、「八陣圖」に依りて偏箱車を作り、地廣ければ則ち鹿角の車營を為し、路狹ければ則ち木屋を車の上に施し、且つ戰い且つ前む。弓矢の及ぶ所、弦に應じて倒る。奇謀間々發し、敵の意表に出で、轉戰すること千里、河西遂に通ず。
現代語訳
晋の泰始年間、涼州刺史の楊欣が異民族との和を失い、馬隆は必ず敗れると予言しました。まもなく楊欣が敗れ、河西地方との連絡が断たれました。武帝は西方のことをいつも憂えていました。朝廷に臨んで嘆いて言いました。「誰か私のためにこの賊を討ち、涼州への道を通じる者はいないか」。馬隆が進み出て言いました。「陛下がもし私に任せてくださるなら、私が平定いたします」。帝は言いました。「必ず賊を滅ぼせるなら、どうして任せないことがあろうか。ただ、そなたの計略はどのようなものか」。馬隆は答えました。「陛下が私にお任せになるなら、私の思うままにさせてください。勇士三千人を募り、素性は問わないことを願います。彼らを率いて太鼓を鳴らして西へ進み、陛下の威徳を受ければ、あの卑しい賊は滅ぼすまでもありません」。こうして馬隆は武威太守となりました。公卿たちはみな、勝手に賞を設けて募集すべきでないと言いましたが、帝は聞き入れませんでした。馬隆が募集した条件は、弩では三十六鈞、弓では四鈞を引ける者とし、標的を立てて試験することでした。朝から夕方までに三千五百人を得ると、馬隆は言いました。「十分だ」。さらに自ら武器庫に行って武器を選び、三年分の軍資を支給してほしいと願いました。馬隆が西へ進んで温水を渡ると、賊の樹機能らは一万ほどの兵で険しい地形に拠って馬隆を阻み、また伏兵を設けて後ろを断とうとしました。馬隆は「八陣図」に基づいて偏箱車を作り、土地が広ければ鹿角の車営を作り、道が狭ければ木の小屋を車の上に載せ、戦いながら前進しました。弓矢の届く範囲では、弦の音とともに敵が倒れました。奇策がときどき出て、敵の意表を突き、千里を転戦して、河西はついに通じました。
解説
この章句が説くこと
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史記 淮陰侯列伝因りて王に問ひて曰く、「今東郷して権を天下に争ふは、豈に項王に非ずや」と。漢王曰く、「然り」と。曰く、「大王自ら料るに勇悍仁彊、項王に孰与れぞ」と。漢王黙然たること良久しくして、曰く、「如かざるなり」と。信再拝して賀して曰く、「惟だ信も亦大王如かずと為すなり。然れども臣嘗て之に事ふ。請ふ項王の人と為りを言はん。項王喑噁叱咤すれば、千人皆廃す。然れども賢将に任属すること能はず。此れ特だ匹夫の勇のみ。項王人を見るに恭敬慈愛、言語嘔嘔たり。人疾病有れば、涕泣して食飲を分かつ。人をして功有りて当に封爵すべき者あらしむるに至りては、印刓敝するも、忍びて予ふること能はず。此れ所謂婦人の仁なり。項王天下に覇として諸侯を臣とすと雖も、関中に居らずして彭城に都す。義帝の約に背くこと有りて、親愛を以て王とす。諸侯平かならず。諸侯の項王の義帝を遷逐して江南に置くを見るや、亦皆帰りて其の主を逐ひて自ら善地に王たり。項王の過ぐる所残滅せざる者無し。天下怨み多く、百姓親附せず、特だ威彊に劫かさるるのみ。名は覇と為すと雖も、実は天下の心を失ふ。故に曰く其の彊は弱め易しと。今大王誠に能く其の道に反し、天下の武勇に任ぜば、何の誅せざる所あらん。天下の城邑を以て功臣を封ぜば、何の服せざる所あらん。
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『智囊』經務・汪立信・文天祥北人南侵し、文天祥疏を上りて言う、「朝廷は姑息牽制の意多く、奮発剛断の意少なし。乞う、師孟を斬りて鼓に釁り、以て将士の気を作せ」と。且つ言う、「宋は五季の乱に懲り、藩鎮を削り、邑郡を建て、一時は以て尾大の弊を矯むるに足ると雖も、然れども国は変を以て弱まり、故に敵一州に至れば則ち一州破れ、一県に至れば則ち一県残われ、中原陸沈す。痛悔何ぞ及ばん。今宜しく天下を分かちて四鎮と為し、都督を建てて其の中に統御せしむべし。広西を以て湖広に益し、閫を長沙に建つ。広東を以て江西に益し、閫を隆興に建つ。福建を以て江東に益し、閫を番陽に建つ。淮西を以て淮東に益し、閫を揚州に建つ。長沙には鄂を取らしめ、隆興には蘄・黄を取らしめ、番陽には江東を取らしめ、揚州には両淮を取らしむ。其の地をして大きく力をして衆からしめ、以て敵に抗するに足らしめ、日を約して斉しく奮い、進む有りて退く無く、日夜之を図らしめば、彼は備え多く力分かれ、奔命に疲れん。而して吾が民の豪傑なる者、又た間を伺いて其の中より出でん。此の如くんば、則ち敵を却くること難からず」と。〔馮評〕靖康に李綱有るも用いず、而して黄潜善・江伯彦を用う。咸淳に汪立信有るも用いず、而して賈似道を用う。徳祐に文天祥有るも用いず、而して陳宜中を用う。然れば則ち宋は金に衰えず、自ら衰うるなり。元に亡びず、自ら亡ぶるなり。
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史記 張丞相列伝年十歳なり。高祖、即(も)し万歳の後に全からざらんことを憂ふ。趙堯は年少くして、符璽御史為り。趙人方与公、御史大夫周昌に謂ひて曰く、「君の史趙堯は、年少しと雖も、然れども奇才なり。君必ず之を異とせよ。是れ且に君の位に代はらんとす」と。周昌笑ひて曰く、「堯は年少く、刀筆の吏のみ。何ぞ能く是に至らんや」と。居ること頃之(しばらく)して、趙堯、高祖に侍す。高祖独り心楽しまず、悲歌す。群臣、上の然る所以を知らず。趙堯進みて請ひ問ひて曰く、「陛下の楽しまざる所以は、趙王年少くして戚夫人と呂后と卻(げき)有るが為に非ずや。万歳の後に趙王自ら全うすること能はざらんことを備ふるにあらずや」と。高祖曰く、「然り。吾私かに之を憂ふれども、出づる所を知らず」と。堯曰く、「陛下独り宜しく趙王の為に貴彊の相を置くべし。呂后・太子・群臣の素より敬憚する所に及べば乃ち可なり」と。高祖曰く、「然り。吾之を念ひて是くの如くせんと欲す。而れども群臣誰か可なる者ぞ」と。堯曰く、「御史大夫周昌、其の人堅忍質直にして、且つ呂后・太子及び大臣より皆素より之を敬憚す。独り昌のみ可なり」と。高祖曰く、「善し」と。是に於て乃ち周昌を召して、謂ひて曰く、「吾固く公を煩はさんと欲す。公彊ひて我が為に趙王に相たれ」と。周昌泣きて曰く、「臣初めて起ちて陛下に従ふ。陛下独り柰何ぞ中道にして之を諸侯に棄つるや」と。高祖曰く、「吾極めて其の左遷なるを知る。然れども吾私かに趙王を憂ふ。念ふに公に非ずんば可なる者無し。公已むを得ず彊ひて行け」と。是に於て御史大夫周昌を徙して趙の相と為す。既に行きて之を久しくして、高祖御史大夫の印を持ちて之を弄びて曰く、「誰か以て御史大夫と為すべき者ぞ」と。趙堯を孰視して曰く、「以て堯に易ふる無し」と。遂に趙堯を拝して御史大夫と為す。堯も亦前に軍功の食邑有り。御史大夫を以て従ひて陳豨を撃ちて功有るに及び、封ぜられて江邑侯と為る。高祖崩じ、呂太后、使をして趙王を召さしむ。其の相周昌、王をして疾と称して行かざらしむ。
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『春秋左氏伝』襄公三十一年 美錦を学ばしめず子皮尹何をして邑を為めしめんと欲す。子產曰く、「少し。未だ可否を知らず」と。子皮曰く、「愿なり。吾之を愛す。吾に叛かざるなり。夫をして往きて學ばしめば、夫も亦た愈〻治を知らん」と。子產曰く、「不可なり。人の人を愛するは、之を利せんことを求むるなり。今吾子人を愛するに則ち政を以てす。猶ほ未だ刀を操ること能はずして割かしむるがごときなり。其の傷つくること實に多からん。子の人を愛する、之を傷つくるのみ。其れ誰か敢へて愛を子に求めん。子の鄭國に於けるや、棟なり。棟折れ榱崩るれば、僑將に厭されんとす。敢へて言を盡くさざらんや。子に美錦有らば、人をして製するを學ばしめず。大官大邑は、身の庇ふ所なり。而るに學者をして製せしむ。其の美錦為るや、亦た多からずや。僑聞く、學びて而る後に政に入ると。未だ政を以て學ぶ者を聞かざるなり。若し果たして此を行はば、必ず害する所有らん。譬へば田獵の如し。射御貫るれば、則ち能く禽を獲。若し未だ嘗て車に登りて射御せずんば、則ち敗績厭覆を是れ懼れん。何の暇ありてか獲るを思はん」と。子皮曰く、「善いかな。虎不敏なり。吾聞く、君子は大なる者遠き者を知るに務め、小人は小なる者近き者を知るに務むと。我は小人なり。衣服の吾が身に附在するは、我知りて之を慎む。大官大邑は、身を庇ふ所以なり。我遠ざけて之を慢る。子の言微かりせば、吾知らざりしなり。他日、我曰へり、『子は鄭國を為め、我は吾が家を為めて、以て庇はば其れ可なり』と。今にして後に足らざるを知る。今より請ふ、吾が家と雖も子に聽きて行はん」と。子產曰く、「人心の同じからざるは、其の面の如し。吾豈に敢へて子の面吾が面の如しと謂はんや。抑〻心に危ふしと謂ふ所は、亦た以て告ぐるなり」と。子皮以て忠と為す。故に政を委ぬ。子產是を以て能く鄭國を為む。
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