智囊 / 經務・汪立信・文天祥
北人南侵,文天祥上疏,言:「朝廷姑息牽制之意多,奮發剛斷之意少,乞斬師孟釁鼓,以作將士之氣。」且言:「宋懲五季之亂,削藩鎮,建邑郡,一時雖足以矯尾大之弊,然國以變弱,故敵至一州則一州破,至一縣則一縣殘,中原陸沉,痛悔何及?今宜分天下為四鎮,建都督統御於其中,以廣西益湖廣,而建閫於長沙;以廣東益江西,而建閫於隆興;以福建益江東,而建閫於番陽;以淮西益淮東,而建閫於揚州。責長沙取鄂,隆興取蘄、黃,番陽取江東,揚州取兩淮。使其地大力眾,足以抗敵,約日齊奮,有進無退,日夜以圖之,彼備多力分,疲於奔命。而吾民之豪傑者,又伺間出於其中。如此,則敵不難卻也!」〔馮評〕靖康有李綱不用,而用黃潛善、江伯彥;咸淳有汪立信不用,而用賈似道;德祐有文天祥不用,而用陳宜中。然則宋不衰於金,自衰也;不亡於元,自亡也!
新字:北人南侵,文天祥上疏,言:「朝廷姑息牽制之意多,奮発剛断之意少,乞斬師孟釁鼓,以作将士之気。」且言:「宋懲五季之乱,削藩鎮,建邑郡,一時雖足以矯尾大之弊,然国以変弱,故敵至一州則一州破,至一県則一県残,中原陸沈,痛悔何及?今宜分天下為四鎮,建都督統御於其中,以広西益湖広,而建閫於長沙;以広東益江西,而建閫於隆興;以福建益江東,而建閫於番陽;以淮西益淮東,而建閫於揚州。責長沙取鄂,隆興取蘄、黄,番陽取江東,揚州取両淮。使其地大力衆,足以抗敵,約日斉奮,有進無退,日夜以図之,彼備多力分,疲於奔命。而吾民之豪傑者,又伺間出於其中。如此,則敵不難却也!」〔馮評〕靖康有李綱不用,而用黄潜善、江伯彦;咸淳有汪立信不用,而用賈似道;徳祐有文天祥不用,而用陳宜中。然則宋不衰於金,自衰也;不亡於元,自亡也!
書き下し
北人南侵し、文天祥疏を上りて言う、「朝廷は姑息牽制の意多く、奮発剛断の意少なし。乞う、師孟を斬りて鼓に釁り、以て将士の気を作せ」と。且つ言う、「宋は五季の乱に懲り、藩鎮を削り、邑郡を建て、一時は以て尾大の弊を矯むるに足ると雖も、然れども国は変を以て弱まり、故に敵一州に至れば則ち一州破れ、一県に至れば則ち一県残われ、中原陸沈す。痛悔何ぞ及ばん。今宜しく天下を分かちて四鎮と為し、都督を建てて其の中に統御せしむべし。広西を以て湖広に益し、閫を長沙に建つ。広東を以て江西に益し、閫を隆興に建つ。福建を以て江東に益し、閫を番陽に建つ。淮西を以て淮東に益し、閫を揚州に建つ。長沙には鄂を取らしめ、隆興には蘄・黄を取らしめ、番陽には江東を取らしめ、揚州には両淮を取らしむ。其の地をして大きく力をして衆からしめ、以て敵に抗するに足らしめ、日を約して斉しく奮い、進む有りて退く無く、日夜之を図らしめば、彼は備え多く力分かれ、奔命に疲れん。而して吾が民の豪傑なる者、又た間を伺いて其の中より出でん。此の如くんば、則ち敵を却くること難からず」と。〔馮評〕靖康に李綱有るも用いず、而して黄潜善・江伯彦を用う。咸淳に汪立信有るも用いず、而して賈似道を用う。徳祐に文天祥有るも用いず、而して陳宜中を用う。然れば則ち宋は金に衰えず、自ら衰うるなり。元に亡びず、自ら亡ぶるなり。
現代語訳
北方の軍が南に攻め入ったとき、文天祥は上奏して言った。「朝廷は目先の安逸と相互の牽制を重んじる気持ちが強く、奮い立って断を下す気持ちが乏しい。どうか師孟を斬り、その血を太鼓に塗って将兵の士気を高めてください」と。さらに言った。「宋は五代の乱に懲りて節度使の力を削り、郡県を置きました。一時は上が大きく下が小さいという弊を正せましたが、国は変事に弱くなり、敵が一州に来れば一州が破れ、一県に来れば一県が荒らされ、中原は沈みました。悔やんでも間に合いません。今は天下を四つの鎮に分け、都督を置いて統括させるべきです。広西を湖広に加えて長沙に本営を置き、広東を江西に加えて隆興に、福建を江東に加えて番陽に、淮西を淮東に加えて揚州に置きます。長沙には鄂を、隆興には蘄・黄を、番陽には江東を、揚州には両淮を取らせます。各鎮の地を広く力を大きくして敵に対抗させ、日を決めて一斉に奮い立ち、進むのみで退かず、日夜策を練らせれば、敵は備えが増えて力が分散し、奔走して疲れるでしょう。そのうえ我が民の豪傑も機をうかがって中から立ち上がります。こうすれば敵を退けるのは難しくありません」と。〔馮夢龍の評〕靖康には李綱がいたのに用いず、黄潜善・江伯彦を用いた。咸淳には汪立信がいたのに用いず、賈似道を用いた。徳祐には文天祥がいたのに用いず、陳宜中を用いた。ならば宋は金によって衰えたのではなく自ら衰え、元によって滅んだのではなく自ら滅んだのである。
解説
この章句が説くこと
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