智囊 / 制勝・劉江
翌日倭賊二千餘人,乘海鰌直逼堝下登岸,魚貫而行,如入無人之境,江被發舉旗鳴炮,伏兵盡起,為兩翼而進,賊大敗,橫屍草莽,餘眾奔櫻桃園空堡中。官兵環而攻之,將士欲入堡剿殺,江不許,故開西壁以縱之,俾兩翼夾擊,生擒數百,斬首千餘級,有遁入鰌者,悉為隆所縛,無一人得免。師還,諸將請曰:「明公見敵,意思安閒。及臨陣披鎧而戰,追賊入堡,不殺而縱之,何也?」江曰:「寇遠來必飢且勞,我以逸待勞,以飽待飢,固兵家治力之法耳。賊始魚貫而來,成長蛇陣,故作真武陣以鎮服之。賊既入堡,有死之心,我師攻之,寧無傷乎?故縱之出路而後掩擊,即圍城必缺之意耳。此皆在兵法,諸君未察乎?」
新字:翌日倭賊二千余人,乗海鰌直逼堝下登岸,魚貫而行,如入無人之境,江被発舉旗鳴炮,伏兵尽起,為両翼而進,賊大敗,横屍草莽,余衆奔桜桃園空堡中。官兵環而攻之,将士欲入堡剿殺,江不許,故開西壁以縦之,俾両翼夾撃,生擒数百,斬首千余級,有遁入鰌者,悉為隆所縛,無一人得免。師還,諸将請曰:「明公見敵,意思安閒。及臨陣披鎧而戦,追賊入堡,不殺而縦之,何也?」江曰:「寇遠来必飢且労,我以逸待労,以飽待飢,固兵家治力之法耳。賊始魚貫而来,成長蛇陣,故作真武陣以鎮服之。賊既入堡,有死之心,我師攻之,寧無傷乎?故縦之出路而後掩撃,即囲城必欠之意耳。此皆在兵法,諸君未察乎?」
書き下し
翌日、倭賊二千餘人、海鰌に乘じて直ちに堝下に逼り岸に登り、魚貫して行くこと、無人の境に入るが如し。江、被髪して旗を舉げ炮を鳴らせば、伏兵盡く起こり、兩翼と為りて進み、賊大いに敗れ、屍を草莽に橫たえ、餘眾は櫻桃園の空堡の中に奔る。官兵環りて之を攻む。將士、堡に入りて剿殺せんと欲するも、江許さず。故らに西壁を開きて以て之を縱ち、兩翼をして夾撃せしむ。生擒すること數百、斬首すること千餘級。鰌に遁入する者有るも、悉く隆に縛らる。一人も免るるを得る無し。師還り、諸將請いて曰く、「明公、敵を見て意思安閒たり。陣に臨み鎧を披て戰うに及びて、賊を追いて堡に入るも、殺さずして之を縱つは、何ぞや」と。江曰く、「寇遠來すれば必ず飢え且つ勞す。我は逸を以て勞を待ち、飽を以て飢を待つ。固より兵家の力を治むる法のみ。賊、始め魚貫して來り、長蛇の陣を成す。故に真武の陣を作りて以て之を鎮服す。賊既に堡に入りては死の心有り。我が師之を攻めば、寧ぞ傷つくこと無からんや。故に之を縱ちて出路せしめ、而る後に掩撃す。即ち圍城に必ず缺く意のみ。此れ皆な兵法に在り。諸君未だ察せざるか」と。
現代語訳
翌日、倭寇二千人余りが海鰌と呼ぶ船に乗って望海堝のすぐ下に迫り、上陸して、一列になって進みました。まるで人のいない土地に入るようでした。劉江は髪を振り乱して旗を挙げ、砲を鳴らしました。伏兵はいっせいに起こり、左右の翼となって進み、賊は大敗して草むらに屍を横たえ、残りは櫻桃園の空き砦に逃げ込みました。官軍はこれを取り囲んで攻めました。将兵は砦に突入して皆殺しにしようとしましたが、劉江は許しませんでした。わざと西側の壁を開けて逃げ道をつくり、左右の翼で挟み撃ちにさせました。生け捕りにしたのは数百人、首を斬ったのは千人余り。船に逃げ込んだ者も、みな姜隆に縛られ、一人も逃れられませんでした。軍が帰還すると、諸将が尋ねました。「将軍は敵を見ても落ち着いていらっしゃいました。いざ陣に臨んで鎧を着て戦われ、賊を追って砦に入ったのに、殺さずに逃がしたのはなぜですか」。劉江は答えました。「敵が遠くから来れば、必ず飢え疲れている。我らは余力をもって疲れた敵を待ち、満腹で飢えた敵を待つ。もともと兵法の力を養う方法だ。賊は初め一列に並んで来て、長い蛇の陣を成していた。だから真武の陣を作って押さえ込んだ。賊が砦に入れば、死ぬ覚悟を決める。我が軍が攻めれば、損害が出ないはずがない。だからわざと逃げ道を開けて外へ出し、その後で襲ったのだ。包囲するときは必ず一方を欠くという意味だ。これは皆兵法に書いてある。諸君はまだ気づかないのか」。
解説
この章句が説くこと
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『智囊』威克・張詠・柳仲途張詠、未だ第せざる時、嘗て蕩陰に遊ぶ。県令は餽るに束帛と万銭を以てす。詠は即ち之を負いて帰る。或るひと謂う、「此れより去らば夜に遇わん。坡沢は深奥にして、人煙は疏闊なり。徒伴の偕に行くを俟つべし」と。詠曰く、「秋暮れぬ。親は老いて未だ衣を授けず」と。但だ一短剣を捽みて去る。行くこと三十余里、止だ一孤店あり、唯だ一翁と二子のみ。夜始めて分かち、其の子は呼びて曰く、「雞已に鳴けり。秀才は去るべし」と。詠は答えず、即ち戸を推す。詠は先に牀を以て左扉を拒ぎ、手を以て右扉を拒ぐ。其の子は既に呼びて応ぜざれば、即ち闥を排す。詠は忽ち退き立つ。其の子は身を閃かして入る。詠は其の首を斬りて之を斃す。少時にして次子又た至り、前の如くし、復た之を殺す。詠は剣を持ちて翁を視るに、翁は方に火を燎きて痒を爬く。復た其の首を断つ。老幼数人、並びに室に命を終え、乃ち火を縦つ。行くこと二十余里にして始めて曉け、後より来る者相い告げて曰く、「前の店、失火し、挙家焚かれたり」と。事は亦た奇なり、因りて之を附す。
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『春秋左氏伝』襄公二十七年 信を以て人を召す叔向曰く、「何ぞ害あらん。匹夫一たび不信を為すも、猶ほ不可なり。單く其の死に斃る。若し諸侯の卿を合して、以て不信を為さば、必ず捷たざらん。言を食む者は病まず。子の患ひに非ざるなり。夫れ信を以て人を召して、僭を以て之を濟さば、必ず之に與する莫からん。安んぞ能く我を害せん。且つ吾宋に因りて以て病を守らば、則ち夫れ能く死を致さん。宋と死を致さば、楚に倍すと雖も可なり。子何をか懼れん。又是に及ばず。曰く、『兵を弭めて以て諸侯を召し、兵を稱げて以て我を害す』と。吾が庸ゐること多し。患ふる所に非ざるなり」と。季武子、叔孫に謂はしむるに公の命を以てして曰く、「邾・滕に視へよ」と。既にして齊人邾を請ひ、宋人滕を請ふ。皆盟に與らず。叔孫曰く、「邾・滕は人の私なり。我は列國なり。何の故に之に視へん。宋・衛は吾が匹なり」と。乃ち盟ふ。故に其の族を書せざるは、命に違ふを言ふなり。晉・楚先を爭ふ。晉人曰く、「晉は固より諸侯の盟主為り。未だ晉に先んずる者有らず」と。楚人曰く、「子晉・楚は匹なりと言ふ。若し晉常に先んぜば、是れ楚弱きなり。
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史記 刺客列伝千金の資幣物を持ちて、厚く秦王の寵臣中庶子蒙嘉に遺る。嘉為に先づ秦王に言ひて曰く、「燕王誠に大王の威を振怖し、敢て兵を挙げて以て軍吏に逆らはず、願はくは国を挙げて内臣と為り、諸侯の列に比し、貢職を給すること郡県の如くにして、先王の宗廟を奉守するを得んと。恐懼して敢て自ら陳べず、謹んで樊於期の頭を斬り、及び燕の督亢の地図を献じ、函封し、燕王庭に拝送し、使をして以て大王に聞せしむ。唯だ大王之に命ぜよ」と。秦王之を聞き、大いに喜び、乃ち朝服し、九賓を設け、燕の使者に咸陽宮に見ゆ。荊軻、樊於期の頭の函を奉じ、而して秦舞陽地図の柙を奉じ、次を以て進む。陛に至り、秦舞陽色変じ振恐す。群臣之を怪しむ。荊軻顧みて舞陽を笑ひ、前みて謝して曰く、「北蕃蛮夷の鄙人、未だ嘗て天子に見えず。故に振慴す。願はくは大王少しく之を仮借し、使を前に畢ふるを得しめよ」と。秦王軻に謂ひて曰く、「舞陽の持つ所の地図を取れ」と。軻既に図を取りて之を奏す。秦王図を発く。図窮まりて匕首見る。因りて左手に秦王の袖を把り、而して右手に匕首を持ちて之を揕す。未だ身に至らず。秦王驚き、自ら引きて起つ。袖絶ゆ。剣を抜かんとするも、剣長く、其の室を操る。時に惶急し、剣堅く、故に立ちどころに抜くべからず。荊軻秦王を逐ふ。秦王柱を環りて走る。群臣皆愕き、卒かに意はざるに起こり、尽く其の度を失ふ。而して秦の法、群臣の殿上に侍する者は尺寸の兵を持つを得ず。諸郎中の兵を執るもの皆殿下に陳なり、詔召有るに非ずんば上るを得ず。急なる時に方り、下の兵を召すに及ばず。故を以て荊軻乃ち秦王を逐ふ。而して卒かに惶急し、以て軻を撃つ無く、而して手を以て共に之を搏つ。是の時侍医夏無且、其の奉ずる所の薬嚢を以て荊軻に提つ。秦王方に柱を環りて走り、卒かに惶急して、為す所を知らず。左右乃ち曰く、「王剣を負へ」と。
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史記 項羽本紀今関に入りて、財物取る所無く、婦女幸する所無し、此れ其の志小に在らず。吾人をして其の気を望ましむるに、皆龍虎を為し、五采を成す、此れ天子の気なり。急ぎ撃ちて失ふ勿かれ。」と。楚の左尹項伯は、項羽の季父なり、素より留侯張良に善し。張良是の時沛公に従ふ、項伯乃ち夜馳せて沛公の軍に之き、私かに張良に見え、具に告ぐるに事を以てし、張良を呼びて与に倶に去らんと欲す。曰く、「倶に死する毋かれ。」と。張良曰く、「臣韓王の為に沛公を送る、沛公今事急有り、亡げ去るは不義なり、語らざるべからず。」と。良乃ち入りて、具に沛公に告ぐ。沛公大いに驚きて、曰く、「之を為すこと柰何(いかん)。」と。張良曰く、「誰か大王の為に此の計を為せし者ぞ。」と。曰く、「鯫生(そうせい)我に説きて曰く『関を距(ふせ)ぎ、諸侯を内(い)るる毋くんば、秦の地尽く王たるべし』と。故に之を聴く。」と。良曰く、「大王の士卒を料るに以て項王に当たるに足るか。」と。沛公默然として、曰く、「固より如かず、且つ之を為すこと柰何。」と。張良曰く、「請ふ往きて項伯に謂ひ、沛公敢へて項王に背かざるを言はん。」と。沛公曰く、「君安んぞ項伯と故有る。」と。張良曰く、「秦の時臣と游ぶ、項伯人を殺す、臣之を活かす。今事急有り、故に幸ひに来りて良に告ぐ。」と。沛公曰く、「君と孰れか少長なる。」と。良曰く、「臣より長なり。」と。沛公曰く、「君我が為に呼び入れよ、吾兄として之に事ふるを得ん。」と。張良出でて、項伯を要(むか)ふ。項伯即ち入りて沛公に見ゆ。沛公巵酒を奉じて寿を為し、約して婚姻を為し、曰く、「吾関に入りて、秋豪も敢へて近づく所有らず、吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。将を遣はして関を守らしむる所以の者は、他盗の出入と非常とに備ふるなり。日夜将軍の至るを望む、豈に敢へて反かんや。願はくは伯具に臣の敢へて徳に倍(そむ)かざるを言へ。」と。項伯許諾す。沛公に謂ひて曰く、「旦日蚤く自ら来りて項王に謝せざるべからず。」と。沛公曰く、「諾。」と。是に於て項伯復た夜去り、軍中に至り、具に沛公の言を以て項王に報ず。
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『春秋左氏伝』襄公九年 宋の大火と天道九年春、宋災あり。樂喜、司城と為り、以て政を為す。伯氏をして里を司らしむ。火の未だ至らざる所は、小屋を徹し、大屋を塗り、畚挶(ほんきょく)を陳ね、綆缶(かうふ)を具へ、水器を備へ、輕重を量り、水潦を蓄へ、土塗を積み、丈城を巡り、守備を繕ひ、火道を表す。華臣をして正徒を具へしめ、隧正に令して郊保を納れ、火所に奔らしむ。華閱をして右官を討めしめ、官ごとに其の司を庀(をさ)めしむ。向戌をして左を討めしむること、亦た之の如し。樂遄をして刑器を庀めしむること、亦た之の如し。皇鄖をして校正に命じて馬を出さしめ、工正に車を出さしめ、甲兵を備へ、武守を庀めしむ。西鉏吾をして府守を庀めしめ、司宮・巷伯に令して宮を儆めしむ。二師、四鄉の正に令して敬んで享せしむ。祝宗、馬を四墉に用ゐ、盤庚を西門の外に祀る。晉侯、士弱に問ひて曰く、「吾之を聞く、宋災あり、是に於てか天道有るを知ると。何の故ぞ」と。對へて曰く、「古の火正は、或いは心に食し、或いは咮(ちう)に食し、以て火を出內す。是の故に咮を鶉火と為し、心を大火と為す。陶唐氏の火正閼伯(あつはく)、商丘に居りて大火を祀り、而して火もて時を紀す。相土之に因る。故に商は大火を主とす。商人、其の禍敗の釁(きざし)を閱するに、必ず火に始まる。是を以て日に其の天道有るを知るなり」と。公曰く、「必すべきか」と。對へて曰く、「道に在り。國亂れて象無ければ、知るべからざるなり」と。
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