智囊 / 制勝・鄭子元・李晟
桓王怒鄭不朝,以諸侯伐之。王為中軍,虢公林父將右軍,蔡人、衛人屬焉;周公黑肩將左軍,陳人屬焉。鄭子元請為左拒,以當蔡人、衛人,為右拒,以當陳人,曰:「陳亂,民莫有鬥心,若先犯之,必奔。王卒顧之,必亂。蔡、衛不支,固將先奔,既而萃於王卒,可以集事。」從之,曼伯為右拒,祭仲為左拒,原繁、高渠彌以中軍奉鄭伯,為魚麗之陣,先偏後伍,伍乘彌縫。戰於繻葛,命二拒曰:「動而鼓!」蔡、衛、陳皆奔,王卒亂,鄭師合以攻之,王卒大敗。吐蕃尚結贊兵逾隴岐,李晟選兵三千,使王佖伏汧陽旁,誡之曰:「蕃軍過城下,勿擊首尾,首尾縱敗,中軍力全,但候其前軍已過,見五方旗、武豹衣,則其中軍也,突其不意,可建奇功。」佖如晟節度,遇結贊,即出奮擊,賊皆披靡。佖軍不識結贊,故結贊僅而免。〔述評〕犯王不祥,而三國非鄭敵,故先動其左右以搖之;尚結贊勁而狡,小挫未可得志,故專力於中軍,出不意以突之。若鄢陵之戰,苗賁皇言於晉侯曰:「楚之良,在於中軍王族,請分良以擊其左右,而以三軍萃於王卒,必大敗之。」此又因晉、楚力敵而然。故曰:「知彼知己,兵法何常之有?」
新字:桓王怒鄭不朝,以諸侯伐之。王為中軍,虢公林父将右軍,蔡人、衛人属焉;周公黒肩将左軍,陳人属焉。鄭子元請為左拒,以当蔡人、衛人,為右拒,以当陳人,曰:「陳乱,民莫有鬥心,若先犯之,必奔。王卒顧之,必乱。蔡、衛不支,固将先奔,既而萃於王卒,可以集事。」従之,曼伯為右拒,祭仲為左拒,原繁、高渠弥以中軍奉鄭伯,為魚麗之陣,先偏後伍,伍乗弥縫。戦於繻葛,命二拒曰:「動而鼓!」蔡、衛、陳皆奔,王卒乱,鄭師合以攻之,王卒大敗。吐蕃尚結賛兵逾隴岐,李晟選兵三千,使王佖伏汧陽旁,誡之曰:「蕃軍過城下,勿撃首尾,首尾縦敗,中軍力全,但候其前軍已過,見五方旗、武豹衣,則其中軍也,突其不意,可建奇功。」佖如晟節度,遇結賛,即出奮撃,賊皆披靡。佖軍不識結賛,故結賛僅而免。〔述評〕犯王不祥,而三国非鄭敵,故先動其左右以揺之;尚結賛勁而狡,小挫未可得志,故専力於中軍,出不意以突之。若鄢陵之戦,苗賁皇言於晋侯曰:「楚之良,在於中軍王族,請分良以撃其左右,而以三軍萃於王卒,必大敗之。」此又因晋、楚力敵而然。故曰:「知彼知己,兵法何常之有?」
書き下し
桓王、鄭の朝せざるを怒り、諸侯を以て之を伐つ。王は中軍と為り、虢公林父は右軍を将い、蔡人・衛人之に属す。周公黒肩は左軍を将い、陳人之に属す。鄭の子元、請いて左拒と為り、以て蔡人・衛人に当たり、右拒と為り、以て陳人に当たらんと曰う、「陳は乱れ、民に闘心有る莫し。若し先ず之を犯さば、必ず奔らん。王卒之を顧みれば、必ず乱れん。蔡・衛支えざれば、固より将に先ず奔らんとす。既にして王卒に萃まらば、以て事を集むべし」と。之に従う。曼伯は右拒と為り、祭仲は左拒と為り、原繁・高渠弥は中軍を以て鄭伯を奉じ、魚麗の陣を為す。先に偏、後に伍、伍乗は弥縫す。繻葛に戦い、二拒に命じて曰く、「動きて鼓せよ」と。蔡・衛・陳皆奔り、王卒乱れ、鄭師合して以て之を攻め、王卒大いに敗る。吐蕃の尚結賛、兵もて隴岐を逾ゆ。李晟、兵三千を選び、王佖をして汧陽の旁に伏せしめ、之を誡めて曰く、「蕃軍の城下を過ぐるとき、首尾を撃つ勿かれ。首尾縦い敗るるも、中軍の力は全し。但だ其の前軍の已に過ぐるを候ち、五方の旗・武豹の衣を見ば、則ち其の中軍なり。其の不意を突かば、奇功を建つべし」と。佖、晟の節度の如くし、結賛に遇うや、即ち出でて奮撃し、賊皆披靡す。佖の軍は結賛を識らず、故に結賛は僅かに免る。〔述評〕王を犯すは不祥にして、三国は鄭の敵に非ず、故に先ず其の左右を動かして以て之を揺るがす。尚結賛は勁にして狡なり、小挫は未だ志を得べからず、故に専ら力を中軍に注ぎ、不意に出でて以て之を突く。鄢陵の戦いの若きは、苗賁皇、晋侯に言う、「楚の良は、中軍の王族に在り。請う、良を分かちて以て其の左右を撃ち、而して三軍を以て王卒に萃めば、必ず大いに之を敗らん」と。此れ又晋・楚の力敵するに因りて然るなり。故に曰く、「彼を知り己を知る、兵法何ぞ常有らんや」と。
現代語訳
桓王は、鄭が朝廷に参内しないのを怒り、諸侯を率いて鄭を討ちました。王は中軍となり、虢公林父は右軍を率い、蔡人・衛人がこれに属しました。周公黒肩は左軍を率い、陳人がこれに属しました。鄭の子元は、左の備えとして蔡・衛に当たり、右の備えとして陳に当たりたいと願い出て言いました。「陳は乱れていて、民に戦う心がない。先に陳を攻めれば、必ず逃げる。王の兵はそれを見て、必ず乱れる。蔡・衛は支えきれずに、まず逃げるだろう。その後で王の兵に集中すれば、事は成る」。この案に従いました。曼伯が右の備えとなり、祭仲が左の備えとなり、原繁・高渠弥は中軍で鄭伯を奉じ、魚麗の陣を作りました。先に戦車を並べ、後に歩兵を置き、戦車と歩兵の間を隙間なく埋める陣形です。繻葛で戦い、二つの備えに命じました。「動いたら太鼓を打て」。蔡・衛・陳はみな逃げ、王の兵は乱れ、鄭軍は合流して攻め、王の兵は大敗しました。吐蕃の尚結賛が兵を率いて隴岐を越えて来ました。李晟は兵三千を選び、王佖を汧陽のそばに伏せさせ、戒めて言いました。「吐蕃軍が城下を通るとき、先頭や後尾を撃ってはならない。先頭や後尾が敗れても、中軍の力は残る。ただ、前軍がすでに過ぎるのを待って、五色の旗や豹の模様の衣を見たら、それが中軍だ。不意を突けば、大きな手柄を立てられる」。王佖は李晟の指図どおりにし、尚結賛に遭うと、すぐに出て奮撃し、賊は皆崩れました。王佖の軍は尚結賛の顔を知らなかったので、尚結賛はかろうじて逃れました。〔述評〕王に刃向かうのは不吉で、三国は鄭の敵ではありません。だから先にその左右を動かして揺さぶりました。尚結賛は強くてずる賢く、小さな勝ちでは志を遂げられません。だからもっぱら力を中軍に注ぎ、不意に出て突きました。鄢陵の戦いでは、苗賁皇が晋侯に言いました。「楚の精鋭は、中軍の王族にいる。精鋭を分けて左右を撃ち、そのうえで三軍を王の兵に集めれば、必ず大いに破れる」。これは晋と楚の力が拮抗していたからそうしたのです。だから「敵を知り己を知る、兵法に決まった形などない」と言うのです。
解説
この章句が説くこと
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