智囊 / 制勝・馬燧
馬燧既敗田悅,會救至,悅復振。悅壁洹水,淄青軍其左,恒冀軍其右。燧進屯鄴,請益兵。詔河陽李芃以兵會,次於漳。悅遣將王光進以兵守漳之長橋,築月壘以扼軍路。燧於下流以鐵鎖維車數百絕河,載土囊遏水而渡。悅知燧食乏,堅壁不戰。燧令士齎十日糧,進營倉口,與悅夾洹而軍,造三橋,逾洹日挑戰。悅不出,陰伏萬人,欲以掩燧。燧令諸軍夜半食,雞鳴時鳴鼓角,而潛師並洹。趨魏州,下令曰:「須賊至,止為陣。」留百騎持火匿橋旁,待悅眾盡渡,乃焚橋。燧行十餘里,悅果率眾逾橋。乘風縱火,鼓噪而前。燧令兵士無動,除蓁莽廣百步,勇士五千人先為陣以待悅。比悅至,火止,氣少衰。燧將兵奮擊,大敗之。悅還走,而三橋已焚矣。悅眾赴水死者不可勝計。
新字:馬燧既敗田悦,会救至,悦復振。悦壁洹水,淄青軍其左,恒冀軍其右。燧進屯鄴,請益兵。詔河陽李芃以兵会,次於漳。悦遣将王光進以兵守漳之長橋,築月塁以扼軍路。燧於下流以鉄鎖維車数百絶河,載土嚢遏水而渡。悦知燧食乏,堅壁不戦。燧令士齎十日糧,進営倉口,与悦夾洹而軍,造三橋,逾洹日挑戦。悦不出,陰伏万人,欲以掩燧。燧令諸軍夜半食,鶏鳴時鳴鼓角,而潜師並洹。趨魏州,下令曰:「須賊至,止為陣。」留百騎持火匿橋旁,待悦衆尽渡,乃焚橋。燧行十余里,悦果率衆逾橋。乗風縦火,鼓噪而前。燧令兵士無動,除蓁莽広百歩,勇士五千人先為陣以待悦。比悦至,火止,気少衰。燧将兵奮撃,大敗之。悦還走,而三橋已焚矣。悦衆赴水死者不可勝計。
書き下し
馬燧既に田悦を敗り、会々救い至りて、悦復た振う。悦、洹水に壁し、淄青の軍は其の左にあり、恒冀の軍は其の右にあり。燧進みて鄴に屯し、兵を益さんことを請う。詔して河陽の李芃を以て兵もて会せしめ、漳に次す。悦、将王光進を遣わして兵を以て漳の長橋を守らしめ、月壘を築きて以て軍路を扼す。燧、下流に於いて鉄鎖を以て車数百を維ぎて河を絶ち、土嚢を載せて水を遏めて渡る。悦、燧が食乏しきを知り、壁を堅くして戦わず。燧、士をして十日の糧を齎さしめ、進みて倉口に営し、悦と洹を夾みて軍し、三橋を造り、洹を逾えて日々に戦いを挑む。悦出でず、陰かに万人を伏せ、以て燧を掩わんと欲す。燧、諸軍に令して夜半に食らわしめ、雞鳴の時に鼓角を鳴らし、潜かに師もて洹に並う。魏州に趨き、下令して曰く、「賊の至るを須ちて、止まりて陣を為せ」と。百騎を留めて火を持して橋傍に匿れしめ、悦の衆の尽く渡るを待ちて、乃ち橋を焚く。燧行くこと十余里、悦果たして衆を率いて橋を逾ゆ。風に乗じて火を縦ち、鼓噪して前む。燧、兵士に令して動く無からしめ、蓁莽を除くこと広さ百歩、勇士五千人をして先ず陣を為して以て悦を待たしむ。悦の至るに比び、火止み、気少し衰う。燧、兵を将いて奮撃し、大いに之を敗る。悦還り走るも、三橋は已に焚けたり。悦の衆、水に赴きて死する者、勝げて計うべからず。
現代語訳
馬燧がすでに田悦を破ったあと、ちょうど救援軍が到着して、田悦は再び勢いを取り戻しました。田悦は洹水に陣を築き、淄青の軍はその左に、恒冀の軍はその右にいました。馬燧は進んで鄴に駐屯し、兵の増援を願い出ました。詔により河陽の李芃が兵を率いて合流し、漳水の近くに宿営しました。田悦は部将の王光進に兵を率いさせ、漳水の長い橋を守らせ、半月形の砦を築いて軍の道をふさぎました。馬燧は下流で、鉄の鎖で車数百台をつなげて川をせき止め、土嚢を載せて水を止めて渡りました。田悦は馬燧の食糧が乏しいことを知り、陣を固めて戦いませんでした。馬燧は兵に十日分の食糧を持たせ、進んで倉口に陣を張り、田悦と洹水をはさんで布陣し、三つの橋を造って、洹水を越えて毎日戦いを挑みました。田悦は出てこず、ひそかに一万人を伏せて、馬燧を急襲しようとしました。馬燧は諸軍に命じて夜半に食事をとらせ、鶏鳴の時に太鼓や角笛を鳴らし、ひそかに軍を洹水沿いに進めました。魏州に向かい、命令しました。「賊が来るのを待って、止まって陣を作れ」。百騎を残して火を持たせ橋のそばに隠れさせ、田悦の軍がすべて渡るのを待って橋を焼きました。馬燧は十里あまり進み、田悦は果たして軍を率いて橋を越えて来ました。風に乗じて火を放ち、鬨の声を上げて前進しました。馬燧は兵士に動くなと命じ、草むらを百歩の幅で取り除き、勇士五千人にまず陣を作って田悦を待たせました。田悦が着く頃には、火が止まり、勢いが少し衰えていました。馬燧は兵を率いて奮撃し、大いに破りました。田悦は引き返して逃げましたが、三つの橋はすでに焼けていました。田悦の兵で水に飛び込んで死んだ者は数え切れませんでした。
解説
この章句が説くこと
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