智囊 / 制勝・劉錡
劉錡赴官東京。至渦口,方食,忽暴風拔坐帳。錡曰:「此賊兆也,主暴兵。」即下令兼程而進。聞金人敗盟南下,已陷東京,錡與將佐捨舟陸行,急趨至順昌。知府陳規見錡問計。錡詢知城中有米萬斛,乃議斂兵入城,為守禦計。諸將謂金不可敵,請以精銳遮老稚順流還江南。錡曰:「東京雖失,幸全軍至此,有城可守,奈何棄之?敢言去者,斬!」置家寺中,積薪於門,戒守者曰:「脫有不利,即焚吾家!」乃分命諸將守諸門,明斥堠,募土人為間諜。於是軍士皆奮。時守備一無可恃。錡督取車輪轅埋城上,又撤民戶扉,周匝蔽之。凡六日,粗畢,而金兵已至城下矣。初錡傅城築羊馬垣,穴垣為門,至是蔽垣為陣,金人縱矢,皆自垣端軼著於城,或止中垣上。錡用破敵弓,翼以神臂、強弩,自城上或垣門射敵,無不中者。
新字:劉錡赴官東京。至渦口,方食,忽暴風抜坐帳。錡曰:「此賊兆也,主暴兵。」即下令兼程而進。聞金人敗盟南下,已陥東京,錡与将佐捨舟陸行,急趨至順昌。知府陳規見錡問計。錡詢知城中有米万斛,乃議斂兵入城,為守禦計。諸将謂金不可敵,請以精鋭遮老稚順流還江南。錡曰:「東京雖失,幸全軍至此,有城可守,奈何棄之?敢言去者,斬!」置家寺中,積薪於門,戒守者曰:「脱有不利,即焚吾家!」乃分命諸将守諸門,明斥堠,募土人為間諜。於是軍士皆奮。時守備一無可恃。錡督取車輪轅埋城上,又撤民戸扉,周匝蔽之。凡六日,粗畢,而金兵已至城下矣。初錡傅城築羊馬垣,穴垣為門,至是蔽垣為陣,金人縦矢,皆自垣端軼著於城,或止中垣上。錡用破敵弓,翼以神臂、強弩,自城上或垣門射敵,無不中者。
書き下し
劉錡、東京に官に赴く。渦口に至り、方に食らうとき、忽ち暴風が坐帳を抜く。錡曰く、「此れ賊の兆なり、暴兵を主る」と。即ち下令して兼程して進む。金人が盟に敗れて南下し、已に東京を陥すを聞く。錡は将佐と舟を捨てて陸行し、急ぎ趨りて順昌に至る。知府陳規、錡を見て計を問う。錡、城中に米万斛有るを詢知し、乃ち議して兵を斂めて城に入り、守禦の計を為す。諸将、金は敵すべからずと謂い、精鋭を以て老稚を遮りて流れに順いて江南に還らんことを請う。錡曰く、「東京は失うと雖も、幸いに軍を全うして此に至り、守るべき城有り。奈何ぞ之を棄てんや。敢えて去ると言う者は斬る」と。家を寺中に置き、薪を門に積み、守る者を戒めて曰く、「脱し不利なる有らば、即ち吾が家を焚け」と。乃ち諸将に分命して諸門を守らしめ、斥堠を明らかにし、土人を募りて間諜と為す。是に於いて軍士皆奮う。時に守備は一も恃むべきもの無し。錡、車輪・轅を取りて城上に埋め、又民戸の扉を撤して、周匝して之を蔽うを督す。凡そ六日にして、粗ぼ畢わる。而して金兵は已に城下に至れり。初め錡は城に傅きて羊馬垣を築き、垣に穴して門と為す。是に至りて垣を蔽いて陣と為し、金人矢を縦つに、皆垣の端より軼ぎて城に著き、或いは止まりて垣の上に中る。錡、破敵弓を用い、翼くるに神臂・強弩を以てし、城上、或いは垣門より敵を射るに、中たらざる無し。
現代語訳
劉錡は東京(開封)の官に赴任する途中でした。渦口に来て食事をしていると、突然暴風が座っていた天幕を吹き飛ばしました。錡は言いました。「これは賊が来る兆しだ。急な戦に当たる」。すぐに命令を下し、昼夜兼行で進みました。金人が盟約を破って南下し、すでに東京を落としたと聞きました。錡は部下の将と船を捨てて陸路を取り、急いで順昌に着きました。知府の陳規は錡に会って対策を尋ねました。錡は城中に米が一万石あると聞き出し、そこで兵を収めて城に入り、防御の計画を立てることにしました。諸将は金軍には敵わないと言い、精鋭で老人や子供を守りながら、流れに乗って江南へ帰ることを願い出ました。錡は言いました。「東京は失ったが、幸い軍を無事に保ったままここに来て、守れる城がある。なぜこれを捨てるのか。あえて去ると言う者は斬る」。家族を寺に置き、薪を門に積んで、守る者に戒めました。「もし戦況が不利になったら、すぐに私の家を焼け」。そこで諸将に分担を命じて各門を守らせ、見張りを明確にし、土地の人々を募って密偵としました。これで兵士は皆奮い立ちました。当時、守りの備えは何一つ頼れる物がありませんでした。錡は車輪や轅を取って城の上に埋め、さらに民家の戸板を外して周囲を覆わせました。およそ六日でほぼ終えましたが、金軍はもう城下に到着していました。もともと錡は城に沿って羊馬垣(城外の低い土塁)を築き、垣に穴を開けて門としていました。ここに至って垣を覆って陣とし、金軍が矢を放っても、矢は垣の端を越えて城に当たるか、垣の上に当たるだけでした。錡は破敵弓を用い、神臂弓と強弩で補い、城上や垣の門から敵を射ると、当たらないものはありませんでした。
解説
この章句が説くこと
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