智囊 / 制勝・爾朱榮
葛榮舉兵向京師,眾百萬。相州刺史李神雋閉門自守。爾朱榮率精騎七千,馬皆有副,倍道兼行,東出滏口。葛榮列陣數十里,箕張而進。榮潛軍山谷為奇兵,分督將以上三人為一處,處有數百騎,令所在揚塵鼓噪,使賊不測多少,又以人馬逼戰,刀不如棒,密勒軍士,馬上各齎袖棒一枚,至戰時,慮廢騰逐,不聽斬級,使以棒棒之而已。號令嚴明,將士同奮,榮身自陷陣,出於敵後,表裡合擊,大破之,擒葛榮,餘眾率降。榮以賊徒既眾,若即分轄,恐其疑懼,乃普令各從所樂,親屬相隨,任所居止。於是群情喜悅,數十萬眾,一朝散盡。待出百里之外,乃始分道押領,隨便安置,咸得其宜。擢其渠帥,量才授用,新附者咸安。時人服其處分機速。
新字:葛栄舉兵向京師,衆百万。相州刺史李神雋閉門自守。爾朱栄率精騎七千,馬皆有副,倍道兼行,東出滏口。葛栄列陣数十里,箕張而進。栄潜軍山谷為奇兵,分督将以上三人為一処,処有数百騎,令所在揚塵鼓噪,使賊不測多少,又以人馬逼戦,刀不如棒,密勒軍士,馬上各齎袖棒一枚,至戦時,慮廃騰逐,不聴斬級,使以棒棒之而已。号令厳明,将士同奮,栄身自陥陣,出於敵後,表裡合撃,大破之,擒葛栄,余衆率降。栄以賊徒既衆,若即分轄,恐其疑懼,乃普令各従所楽,親属相随,任所居止。於是群情喜悦,数十万衆,一朝散尽。待出百里之外,乃始分道押領,随便安置,咸得其宜。擢其渠帥,量才授用,新附者咸安。時人服其処分機速。
書き下し
葛榮、兵を舉げて京師に向かう。眾は百萬。相州刺史李神雋、門を閉じて自ら守る。爾朱榮、精騎七千を率い、馬に皆副あり、道を倍して兼行し、東のかた滏口に出ず。葛榮、陣を列ぬること數十里、箕張して進む。榮、軍を山谷に潛ませて奇兵と為し、督將以上三人を分かちて一處と為し、處ごとに數百騎あり。所在をして塵を揚げ鼓噪せしめ、賊をして多少を測らざらしむ。又人馬を以て逼り戰うに、刀は棒に如かずとして、密かに軍士に勒し、馬上に各々袖棒一枚を齎さしむ。戰うに至る時、騰逐を廢せんことを慮り、斬級を聽さず、棒を以て之を棒うるのみならしむ。號令嚴明にして、將士同じく奮い、榮、身ずから陣に陷り、敵の後ろに出で、表裡より合撃して大いに之を破り、葛榮を擒にす。餘眾は率いて降る。榮、賊徒既に眾く、若し即ち分轄せば、恐らくは其の疑懼せんことを以て、乃ち普く各々樂しむ所に從い、親屬相い隨い、居止する所に任せしむ。是に於いて群情喜悅し、數十萬の眾、一朝にして散じ盡くす。百里の外に出づるを待ちて、乃ち始めて道を分かちて押領し、隨便に安置して、咸な其の宜しきを得たり。其の渠帥を擢んで、才を量りて授用し、新たに附く者は咸な安んず。時人、其の處分の機速に服す。
現代語訳
葛栄が兵を挙げて都に向かいました。その数は百万と号し、相州刺史の李神雋は城門を閉ざして自ら守るだけでした。爾朱栄は精鋭の騎兵七千を率い、どの兵も替え馬を連れ、通常の倍の速さで進軍して、東の滏口に出ました。葛栄は数十里にわたって陣を並べ、箕を広げたような形で進んできます。爾朱栄は軍を山あいの谷に潜ませて奇襲部隊とし、将校以上の三人を一組にして、組ごとに数百騎を持たせました。そして各所で砂塵を上げ、鬨の声を上げさせて、敵に兵の数を悟らせないようにしました。また、人馬が接近して戦うときは刀より棒のほうが扱いやすいと考え、ひそかに兵に命じて、馬上に袖に隠せる棒を一本ずつ持たせました。戦いのとき、首を取ることに気を取られて馬の駆け引きがおろそかになるのを恐れ、首級を斬ることを許さず、棒で打つだけにさせました。号令は厳しく明らかで、将兵は一つになって奮い立ち、爾朱栄自らも敵陣に突入して敵の背後に出て、前後から挟み撃ちにして大いに破り、葛栄を捕らえました。残る兵はこぞって降伏しました。爾朱栄は、賊徒が多いのでそのまま分けて管理しようとすると疑い恐れるだろうと考え、広く各人の望むままにさせ、親族と共に、好きな所に住むことを許しました。すると皆が喜び、数十万の群れが一朝にして散り散りになりました。彼らが百里の外に出るのを待って、はじめて道ごとに分けて引き連れ、事情に応じて落ち着かせたので、皆がそれぞれ適切に処遇されました。その頭目たちを抜擢し、才能を量って任用したので、新たに従った者たちは皆安心しました。当時の人々は、その処置の素早さに感服しました。
解説
この章句が説くこと
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