智囊 / 制勝・陸遜・陸抗
昭烈率眾伐吳,自巫峽至夷陵,連營七百餘里,而先遣吳班將數千人,平地立營以挑戰。吳諸將皆欲擊之,陸遜不許,曰:「此必有譎。」堅壁良久,昭烈知計不行,乃引伏兵從谷中出,凡八千人,遜謂諸將曰:「所以不聽擊班者,正為此也。今而後吾知所以破之矣!」乃敕於暮夜,人各持茅一把,每間一營,輒攻一營,同時火舉,首尾不能相救,於是四十餘營,一戰俱破。〔述評〕魏文帝聞昭烈樹柵連營狀,謂群臣曰:「備不知兵,必破矣。豈有七百里連營,而可以拒敵者乎?包原隰險阻以營軍者,必為敵擒,此兵忌也!」後七日,而孫權捷書至,以昭烈之老於行間,而識不及曹丕,何也?豈所謂「老將至而髦及之」乎?昭烈之伐吳,苻堅之寇晉,皆傾國之兵也。然昭烈之謀狡,故宜靜以待之;苻堅之氣驕,故宜急以挫之。狡謀窮則敵困,驕氣挫敗敵衰,所以雖眾無所用之也。
新字:昭烈率衆伐呉,自巫峡至夷陵,連営七百余里,而先遣呉班将数千人,平地立営以挑戦。呉諸将皆欲撃之,陸遜不許,曰:「此必有譎。」堅壁良久,昭烈知計不行,乃引伏兵従谷中出,凡八千人,遜謂諸将曰:「所以不聴撃班者,正為此也。今而後吾知所以破之矣!」乃勅於暮夜,人各持茅一把,毎間一営,輒攻一営,同時火舉,首尾不能相救,於是四十余営,一戦倶破。〔述評〕魏文帝聞昭烈樹柵連営状,謂群臣曰:「備不知兵,必破矣。豈有七百里連営,而可以拒敵者乎?包原隰険阻以営軍者,必為敵擒,此兵忌也!」後七日,而孫権捷書至,以昭烈之老於行間,而識不及曹丕,何也?豈所謂「老将至而髦及之」乎?昭烈之伐呉,苻堅之寇晋,皆傾国之兵也。然昭烈之謀狡,故宜静以待之;苻堅之気驕,故宜急以挫之。狡謀窮則敵困,驕気挫敗敵衰,所以雖衆無所用之也。
書き下し
昭烈衆を率いて呉を伐ち、巫峡より夷陵に至るまで、営を連ぬること七百余里。而して先ず呉班を遣わし、数千人を将いて、平地に営を立てて以て戦いを挑ましむ。呉の諸将皆之を撃たんと欲す。陸遜許さずして曰く、「此れ必ず譎有り」と。壁を堅くすること良に久し。昭烈計の行われざるを知り、乃ち伏兵を引いて谷中より出す。凡そ八千人。遜諸将に謂いて曰く、「班を撃つを聴かざりし所以は、正に此が為なり。今よりのち吾之を破る所以を知れり」と。乃ち暮夜に敕して、人ごとに茅一把を持たしめ、一営を間つるごとに、輒ち一営を攻め、同時に火を挙げ、首尾相救うこと能わず。是に於いて四十余営、一戦に倶に破る。〔述評〕魏の文帝、昭烈の柵を樹て営を連ぬる状を聞き、群臣に謂いて曰く、「備は兵を知らず、必ず破れん。豈に七百里に営を連ねて、以て敵を拒ぐべき者有らんや。原隰険阻を包みて以て軍を営する者は、必ず敵の擒となる。此れ兵の忌なり」と。後七日にして、孫権の捷書至る。昭烈の行間に老いたるを以て、識の曹丕に及ばざるは何ぞや。豈に所謂「老将至りて髦之に及ぶ」ものか。昭烈の呉を伐つと、苻堅の晋を寇するとは、皆国を傾くるの兵なり。然れども昭烈の謀は狡なり、故に宜しく静かにして以て之を待つべし。苻堅の気は驕れり、故に宜しく急にして以て之を挫くべし。狡謀窮まれば則ち敵困しみ、驕気挫敗すれば敵衰う。衆と雖も用うる所無き所以なり。
現代語訳
昭烈帝(劉備)は大軍を率いて呉を討ち、巫峡から夷陵まで七百里あまりにわたって陣営をつなげました。まず呉班に数千人を預け、平地に陣を築いて戦いを挑ませました。呉の諸将は皆これを撃とうとしましたが、陸遜は許さず、「これには必ず策がある」と言いました。長いこと守りを固めていると、昭烈帝は計が通じないと知り、伏兵を谷から出しました。総勢八千人です。陸遜は諸将に言いました。「呉班を撃つことを許さなかったのは、まさにこのためです。これで破る方法が分かりました」。そこで夜、一人に茅を一束ずつ持たせ、陣営を一つ置きに一つずつ攻め、同時に火を放たせました。前後が互いに救えなくなり、四十あまりの陣営が一戦ですべて破られました。〔述評〕魏の文帝は、昭烈帝が柵を立てて陣を連ねたと聞いて、群臣に言いました。「劉備は兵法を知らない。必ず敗れる。七百里にわたって陣を連ねて敵を防げるわけがない。低地や湿地、険阻な所を含めて陣を築く者は、必ず敵に捕らわれる。これは兵法の禁忌だ」。七日後、孫権の勝利の知らせが届きました。昭烈帝は戦場で老練なはずなのに、見識が曹丕に及ばなかったのはなぜでしょう。いわゆる「老将が来る頃には、若者が追いつく」ということでしょうか。昭烈帝の呉討伐と、苻堅の晋への侵攻は、どちらも国を傾けるほどの大軍でした。しかし昭烈帝は謀略に長けていたので、静かに待つのがよく、苻堅は気が驕っていたので、すばやく挫くのがよい。謀略が尽きれば敵は困り、驕りが挫かれれば敵は衰えます。兵が多くても役に立たなくなるゆえんです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孟子・盡心章句下齊饑う。陳臻曰く、「國人皆以えらく、夫子將に復た棠を發くことを為さんとす、と。殆ど復びす可からざるか。」孟子曰く、「是れ馮婦を為すなり。晉人に馮婦という者有り。善く虎を搏つ。卒に善士と為る。則ち野に之く。衆虎を逐う有り。虎、嵎を負う。之に敢て攖(せまる)る莫し。馮婦を望見し、趨りて之を迎う。馮婦、臂を攘(はらう)いて車を下る。衆皆之を悅びしも、其の士為る者は之を笑えり。」
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孫子・九地篇是の故に散地には則ち戦うこと無かれ、軽地には則ち止まること無かれ、争地には則ち攻むること無かれ、交地には則ち絶つこと無かれ、衢地には則ち交を合わせ、重地には則ち掠め、圮地には則ち行き、囲地には則ち謀り、死地には則ち戦う。
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『韓非子』說林下二十三夫れ一臣を殺して一国を存す、其れ吉と言はざるは何ぞや。且つ死者知無くんば、則ち臣を以て鼓に釁るも益無きなり。死者知有らば、臣将に戦ひに当たるの時、臣鼓をして鳴らざらしめん」と。荊人因りて殺さざるなり。知伯将に仇由を伐たんとして道難くして通ぜず、乃ち大鐘を鋳て仇由の君に遺る。仇由の君大いに説び、道を除きて将に之を内れんとす。赤章曼枝曰く、「不可なり。此れ小の大に事ふる所以なり、而るに今や大以て来る、卒必ず之に随はん、内るべからざるなり」と。仇由の君聴かず、遂に之を内る。赤章曼枝因りて轂を断ちて駆り、斉に至り、七月にして仇由亡ぶ。越已に呉に勝ち、又卒を荊に索めて晋を攻めんとす。左史倚相、荊王に謂ひて曰く、「夫れ越は呉を破りて、豪士死し、鋭卒尽き、大甲傷つく。今又卒を索めて以て晋を攻むるは、我に病まざるを示すなり。師を起こして与に呉を分かつに如かず」と。荊王曰く、「善し」と。因りて師を起こして越に従ふ。越王怒り、将に之を撃たんとす。大夫種曰く、「不可なり。吾が豪士尽き、大甲傷つく。我与に戦はば、必ず克たず。之に賂ふに如かず」と。乃ち露山の陰五百里を割きて以て之に賂ふ。荊、陳を伐ち、呉之を救ふ。軍間三十里。雨ふること十日、夜星あり。左史倚相、子期に謂ひて曰く、「雨ふること十日、甲輯まりて兵聚まる。呉人必ず至らん、之に備ふるに如かず」と。乃ち陳を為す。陳未だ成らざるに呉人至り、荊の陳を見て反る。左史曰く、「呉は反覆六十里、其の君子必ず休み、小人必ず食はん。我三十里を行きて之を撃たば、必ず敗るべきなり」と。乃ち之に従ひ、遂に呉の軍を破る。韓・趙相与に難を為す。韓子、兵を魏に索めて曰く、「願はくは師を借りて以て趙を伐たん」と。魏の文侯曰く、「寡人は趙と兄弟なり、以て従ふべからず」と。趙も又兵を索めて以て韓を攻めんとす。文侯曰く、「寡人は韓と兄弟なり、敢へて従はず」と。二国、兵を得ずして、怒りて反る。
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孟子・萬章章句下齊の宣王、卿を問う。孟子曰く、「王何の卿を之れ問うや。」王曰く、「卿同じからざるか。」曰く、「同じからず。貴戚の卿有り、異姓の卿有り。」王曰く、「貴戚の卿を請い問う。」曰く、「君に大過有れば則ち諫め、之を反覆して聽かざれば、則ち位を易う。」王勃然として色を變ず。曰く、「王異むこと勿れ。王、臣に問う、臣敢て正を以て對えずんばあらず。」王色定まり、然る後異姓の卿を請い問う。曰く、「君に過ち有れば則ち諫め、之を反覆して聽かざれば、則ち去る。」
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孟子・公孫丑章句下孟子、齊に卿為り。出でて滕に弔す。王、蓋の大夫王驩をして輔行為らしむ。王驩、朝暮に見ゆ。齊滕の路を反し、未だ嘗て之と行事を言わざるなり。公孫丑曰く、「齊卿の位は、小と為さず。齊滕の路は、近しと為さず。之を反して未だ嘗て與に行事を言わざるは、何ぞや。」曰く、「夫れ既に之を治むる或り。予何をか言わんや。」
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孫子・九地篇孫子曰く、凡そ用兵の法は、散地有り、軽地有り、争地有り、交地有り、衢地有り、重地有り、圮地有り、囲地有り、死地有り。
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