智囊 / 不戰・韓世忠・程昱
廣西賊曹成擁眾在郴、邵,世忠既平閩寇,旋師永嘉,若將就休息者。忽由處信徑至豫章,連營江濱數十里,群賊不虞其至,大驚,世忠遣人招之,成遂降,得戰士八萬。程昱守鄄城,兵僅七百人。操聞袁紹在黎陽將南渡,欲以兵三千益之,昱不肯,曰:「袁紹擁十萬眾,自以所向無前,今見昱兵少,必不來攻。若益以兵,則必攻,攻則必克。」紹果以昱兵少,不肯攻,操謂賈詡曰:「程昱之膽,過於賁、育。」〔評〕七百與三千,均非十萬敵也;而益兵之名,足以招寇。昱之見勝於曹公遠矣!
新字:広西賊曹成擁衆在郴、邵,世忠既平閩寇,旋師永嘉,若将就休息者。忽由処信径至予章,連営江浜数十里,群賊不虞其至,大驚,世忠遣人招之,成遂降,得戦士八万。程昱守鄄城,兵僅七百人。操聞袁紹在黎陽将南渡,欲以兵三千益之,昱不肯,曰:「袁紹擁十万衆,自以所向無前,今見昱兵少,必不来攻。若益以兵,則必攻,攻則必克。」紹果以昱兵少,不肯攻,操謂賈詡曰:「程昱之胆,過於賁、育。」〔評〕七百与三千,均非十万敵也;而益兵之名,足以招寇。昱之見勝於曹公遠矣!
書き下し
広西の賊曹成は衆を擁して郴、邵に在り。世忠は既に閩寇を平らげ、師を永嘉に旋らし、まさに休息に就かんとするが若し。忽ち処、信を由りて径ちに豫章に至り、営を江浜に連ぬること数十里。群賊はその至るを虞らず、大いに驚く。世忠は人を遣わしてこれを招き、成は遂に降り、戦士八万を得たり。程昱は鄄城を守り、兵は僅かに七百人。操は袁紹が黎陽に在りて将に南に渡らんとするを聞き、兵三千を以てこれに益さんと欲す。昱は肯んぜず、曰く、「袁紹は十万の衆を擁し、自ら向かう所前なしと以う。今、昱の兵少なきを見れば、必ず来たり攻めず。もし益すに兵を以てすれば、則ち必ず攻め、攻むれば則ち必ず克たん。」と。紹は果たして昱の兵少なきを以て、肯えて攻めず。操は賈詡に謂いて曰く、「程昱の胆は、賁、育に過ぐ。」と。〔評〕七百と三千とは、均しく十万の敵に非ず。而して兵を益すの名は、以て寇を招くに足る。昱の見は曹公に勝ること遠し。
現代語訳
広西の賊の曹成は、衆を擁して郴州、邵州にいた。韓世忠は閩の賊を平らげて、軍を永嘉に引き返し、いかにも休息に入ろうとするかのようであった。突然、処州、信州を経由してまっすぐ豫章に至り、陣営を江の岸に数十里連ねた。賊たちはその到着を予想しておらず、大いに驚いた。韓世忠は人を遣わして招き、曹成はついに降り、戦士八万を得た。程昱は鄄城を守り、兵はわずか七百人であった。曹操は袁紹が黎陽にいてまもなく南へ渡ろうとしていると聞き、兵三千を増やそうとした。程昱は承知せず、言った。「袁紹は十万の兵を擁し、自分は向かうところ敵なしと思っています。いま私の兵が少ないのを見れば、必ず攻めてこないでしょう。もし兵を増やせば、必ず攻め、攻めれば必ず落とされます。」袁紹は果たして程昱の兵が少ないので攻めなかった。曹操は賈詡に言った。「程昱の胆力は、孟賁や夏育にも勝る。」〔評〕七百と三千では、どちらも十万の敵には及ばない。それでも兵を増やしたという事実は、敵を招き寄せるに足りる。程昱の見識は曹公をはるかに上回る。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
史記 韓長孺列伝安国病みて免ぜらるること数月、蹇愈ゆ。上復た安国を以て中尉と為す。歳余にして、徙りて衛尉と為る。車騎将軍衛青匈奴を撃ち、上谷より出で、胡を蘢城に破る。将軍李広匈奴の得る所と為り、復た之を失ふ。公孫敖大いに卒を亡ふ。皆斬に当たり、贖ひて庶人と為る。明年、匈奴大いに辺に入り、遼西の太守を殺し、及び鴈門に入り、殺略する所数千人。車騎将軍衛青之を撃ち、鴈門より出づ。衛尉安国材官将軍と為り、漁陽に屯す。安国生虜を捕へ、匈奴遠く去ると言ふ。即ち上書して言ふ、方に田作の時なり、請ふ且く軍屯を罷めんと。軍屯を罷むること月余、匈奴大いに上谷・漁陽に入る。安国の壁乃ち七百余人有り。出でて与に戦ふも、勝たず、復た壁に入る。匈奴千余人及び畜産を虜略して去る。天子之を聞きて、怒り、使をして安国を責譲せしむ。安国を徙して益々東にし、右北平に屯せしむ。是の時匈奴の虜言ふ、当に東方に入るべしと。
-
『甲陽軍鑑』品第十三又武略なうして不叶敵三所あり、先づ一番に大敵二番にみかたの大将より敵の大将覚ゑなうして大身なるに、武略然るべし、其子細はおほへの人が覚えなき人に対々にもすれば、前の覚ゑを無にして敵方へ名をとらする、まして負くれば勿体なし、此理をもつて武略尤もなり、三番に强敵は殊更みかたへ行て聞き度事なれば、是れによつての武略なり、武略には見たる斗りも首尾とこのはず、きいたばかりもあやうし、其品々に心つけること肝要なり、扨てこそ上杉家の本間·井又をは近国迄響きわたり、信玄公十六歳にて聞き給ひ、両人を絵にかきくも我内の者ともに拝せんと被仰ける由々、甘利備守度々雑談申され候、就中此次ぎからして能くよみわけ給へ、
-
『甲陽軍鑑』品第十三殊更此程我々両人小田原へよき者を指越し承候へば、北条家には何のさたもなく上杉則政公御旗を出されば、めつぽうに究まりたり、其意趣は氏縄が子氏康当年二十二歳に罷成るが、武辺のこと一円心がけず、たど歌斗りよみて罷在り、扨は男色二置するなにとのめばな立ちごと述定。男女のおいやけを大盛代々年では武辺仕さうなる侍なく候処に、当家の家老衆北条家をこともなのめにおぞみ給ふこと、一段聞へぬ儀なり、又本間江州·井又左近両人武略をよく仕たるとのこと、彼両人上杉家へ帰参申度とて皆偽りの作りごとゝ聞へ候縦へ能く仕ても武略は大敵にこそ用る者にて候へ、上杉家の被官よりはらいさき者に何の機遣にて武略なさるべき、当家の各おかしきことを申され候、
-
『鬼谷子』捭闔篇離合に守る有り、先ず其の志に從う。即ち之を捭かんと欲せば、周きを貴び、即ち之を闔じんと欲せば、密なるを貴ぶ。周密の貴きは㣲なり、而して道と相い追う。捭く者は、其の情を料るなり、闔ずる者は、其の誠を結ぶなり。皆な其の權𢖍の輕重を見て、乃ち之が度數を爲す。聖人因りて之が慮を爲す。其の權𢖍度數に中らざれば、聖人因りて自ら之が慮を爲す。
-
『智囊』詭道・韓世忠金人、劉豫と兵を合わせ、道を分かちて入侵す。時に韓世忠は鎮江に駐し、統制解元をして高郵を守り、金の歩卒を候たしむ。自ら騎兵を提げて大儀に駐し、敵騎に当たる。会々魏良臣を遣わして金に使いせしむ。世忠、炊爨を撤し、良臣を紿きて曰く、「詔有りて移屯して江を守る」と。良臣去るや、世忠即ち馬に上り、軍中に令して曰く、「吾が鞭の向かう所を視よ」と。是に於いて軍を引いて大儀に次し、五陣を勒し、伏を設くること二十余所、鼓を聞かば即ち起こるを約す。良臣、金に至る。孛堇、世忠の師の退くを聞き、即ち兵を引いて江口に至り、大儀を距つること五里。副将撻孛也、鉄騎を擁して五陣の東を過ぐ。世忠、小麾を伝えて鼓を鳴らせば、伏兵四方より起こり、旗の色は金人の旗と雑じり出で、金軍乱る。我が軍迭いに進み、背嵬軍各々長斧を持ち、上は人の胸を揕き、下は馬の足を砍る。敵は甲を披て泥淖に陥り、世忠、勁騎を麾きて之を蹂み、人馬俱に斃る。遂に撻孛也を擒にす。
-
『智囊』不戰・析公・王德用晋、楚は繞角に遇う。欒武子は戦うことを欲せず。析公曰く、「楚の師は軽窕にして、震蕩し易し。もし多く鼓し鈞声し、夜を以てこれを軍すれば、楚の師は必ず遁れん。」と。晋人はこれに従い、楚の師は宵に遁る。王徳用は定州路総管と為り、日々士卒を訓練し、久しくして、士は殊に用うべし。たまたま契丹の諜者来たり覘う者あり、あるいは請う、捕らえて殺さんと。徳用曰く、「ただこれを舍け。吾は正に其の実を以て還り告げんことを欲す。百戦百勝は、不戦を以て勝つに如かず。」と。明日、故に大閲し、士は皆踴躍して奮わんことを思う。乃ち陽に令を下す、「糗糧を具えよ、吾が旗鼓の問う所に聴け。」と。覘者は帰りて告げ、謂う、「漢兵は且に大いに入らんとす。」と。遂に来たりて和を議す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る