智囊 / 詭道・韓世忠
金人與劉豫合兵,分道入侵。時韓世忠駐鎮江,俾統制解元守高郵,候金步卒。親提騎兵駐大儀,當敵騎。會遣魏良臣使金。世忠撤炊爨,紿良臣曰:「有詔移屯守江。」良臣去,世忠即上馬,令軍中曰:「視吾鞭所向。」於是引軍次大儀,勒五陣,設伏二十餘所,約聞鼓即起。良臣至金,孛堇聞世忠師退,即引兵至江口,距大儀五里,副將撻孛也擁鐵騎,過五陣東,世忠傳小麾鳴鼓,伏兵四起,旗色與金人旗雜出,金軍亂,我軍迭進,背嵬軍各持長斧,上揕人胸,下砍馬足,敵披甲陷泥淖,世忠麾勁騎蹂之,人馬俱斃,遂擒撻孛也。
新字:金人与劉予合兵,分道入侵。時韓世忠駐鎮江,俾統制解元守高郵,候金歩卒。親提騎兵駐大儀,当敵騎。会遣魏良臣使金。世忠撤炊爨,紿良臣曰:「有詔移屯守江。」良臣去,世忠即上馬,令軍中曰:「視吾鞭所向。」於是引軍次大儀,勒五陣,設伏二十余所,約聞鼓即起。良臣至金,孛堇聞世忠師退,即引兵至江口,距大儀五里,副将撻孛也擁鉄騎,過五陣東,世忠伝小麾鳴鼓,伏兵四起,旗色与金人旗雑出,金軍乱,我軍迭進,背嵬軍各持長斧,上揕人胸,下砍馬足,敵披甲陥泥淖,世忠麾勁騎蹂之,人馬倶斃,遂擒撻孛也。
書き下し
金人、劉豫と兵を合わせ、道を分かちて入侵す。時に韓世忠は鎮江に駐し、統制解元をして高郵を守り、金の歩卒を候たしむ。自ら騎兵を提げて大儀に駐し、敵騎に当たる。会々魏良臣を遣わして金に使いせしむ。世忠、炊爨を撤し、良臣を紿きて曰く、「詔有りて移屯して江を守る」と。良臣去るや、世忠即ち馬に上り、軍中に令して曰く、「吾が鞭の向かう所を視よ」と。是に於いて軍を引いて大儀に次し、五陣を勒し、伏を設くること二十余所、鼓を聞かば即ち起こるを約す。良臣、金に至る。孛堇、世忠の師の退くを聞き、即ち兵を引いて江口に至り、大儀を距つること五里。副将撻孛也、鉄騎を擁して五陣の東を過ぐ。世忠、小麾を伝えて鼓を鳴らせば、伏兵四方より起こり、旗の色は金人の旗と雑じり出で、金軍乱る。我が軍迭いに進み、背嵬軍各々長斧を持ち、上は人の胸を揕き、下は馬の足を砍る。敵は甲を披て泥淖に陥り、世忠、勁騎を麾きて之を蹂み、人馬俱に斃る。遂に撻孛也を擒にす。
現代語訳
金軍は劉豫の軍と合流し、道を分けて南へ侵入してきた。このとき韓世忠は鎮江に駐屯しており、統制の解元に高郵を守らせて金の歩兵に備えさせ、自分は騎兵を率いて大儀に駐屯し、敵の騎兵に当たった。ちょうど魏良臣が金への使者として遣わされることになった。世忠は炊事の竈を撤去し、良臣を欺いて言った。「詔があり、陣を移して長江を守ることになった。」良臣が去ると、世忠はすぐに馬に乗り、軍中に命じた。「わが鞭の向く方を見ていよ。」そこで軍を引いて大儀に陣取り、五つの陣を整え、二十か所あまりに伏兵を置き、太鼓を聞いたら一斉に起つと約束させた。良臣が金に着くと、将の孛堇は世忠の軍が退いたと聞き、すぐに兵を率いて江口に至り、大儀から五里の所まで来た。副将の撻孛也が鉄騎を率いて五つの陣の東を通りかかった。世忠が小旗を伝えて太鼓を鳴らすと、伏兵が四方から起こり、旗の色が金の旗と入り混じって、金軍は乱れた。わが軍は交代で進み、背嵬軍の兵はそれぞれ長い斧を持ち、上は人の胸を突き、下は馬の足を斬った。敵は鎧を着たまま泥の沼に陥り、世忠が精鋭の騎兵を動かしてこれを踏みにじり、人も馬もみな倒れた。こうして撻孛也を生け捕りにした。
解説
この章句が説くこと
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