智囊 / 不戰・李愬
賊吳房、郎山戍晏然無知者,祐等坎墉先登,眾從之,殺門者開關,留持柝,傳夜自如。黎明雪止,愬入駐元濟外宅,蔡吏驚曰:「城陷矣!」元濟尚不信,曰:「是洄曲子弟來索褚衣耳。」及聞號令,曰:「常侍傳語。」始驚,曰:「何常侍得至此。」率左右登牙城。田進誠進兵薄之,愬計元濟且望救於董重質,乃訪其家慰安之,使無怖,以書召重質,重質以單騎白衣降。進誠火南門,元濟請罪,梯而下,檻送京師。
新字:賊呉房、郎山戍晏然無知者,祐等坎墉先登,衆従之,殺門者開関,留持柝,伝夜自如。黎明雪止,愬入駐元済外宅,蔡吏驚曰:「城陥矣!」元済尚不信,曰:「是洄曲子弟来索褚衣耳。」及聞号令,曰:「常侍伝語。」始驚,曰:「何常侍得至此。」率左右登牙城。田進誠進兵薄之,愬計元済且望救於董重質,乃訪其家慰安之,使無怖,以書召重質,重質以単騎白衣降。進誠火南門,元済請罪,梯而下,檻送京師。
書き下し
賊の呉房、郎山の戍は晏然として知る者なし。祐ら墉を坎りて先登し、衆はこれに従い、門者を殺して関を開く。持柝を留めしめ、夜を伝うること自如たり。黎明、雪止み、愬は入りて元済の外宅に駐す。蔡の吏は驚きて曰く、「城陥ちたり。」と。元済は尚信ぜず、曰く、「これは洄曲の子弟が褚衣を索めに来たるのみ。」と。号令を聞くに及び、曰く、「常侍の伝語なり。」と。始めて驚き、曰く、「何ぞ常侍の此に至るを得たるか。」と。左右を率いて牙城に登る。田進誠は兵を進めてこれに薄る。愬は元済が董重質に救いを望まんことを計り、乃ちその家を訪ねて慰安し、怖るるなからしめ、書を以て重質を召す。重質は単騎白衣にて降る。進誠は南門に火をかけ、元済は罪を請い、梯もて下り、檻して京師に送らる。
現代語訳
賊の呉房と郎山の守備兵は何も知らずにのんびりしていた。李祐らは城壁に穴を掘って先に登り、兵たちはそれに続いて、門番を殺して閂を開けた。拍子木を持つ夜警はそのまま残させ、夜の合図を以前どおりに続けさせた。夜明けに雪が止み、李愬は入城して呉元済の外邸に駐屯した。蔡の役人は驚いて言った。「城が陥ちました。」呉元済はなお信じず、言った。「それは洄曲の若い連中が冬着を求めに来ただけだ。」号令の声を聞いて、言った。「常侍の伝言だ。」と言い、初めて驚いて言った。「どうして常侍がここまで来られたのか。」呉元済は側近を率いて牙城に登った。田進誠は兵を進めてこれに迫った。李愬は呉元済が董重質の救援を望むだろうと見て、董重質の家を訪ねて慰め安心させ、書状で董重質を召した。董重質は単騎、白衣で降った。田進誠が南門に火を放つと、呉元済は罪を請い、梯子で降り、檻に入れられて京師に送られた。
解説
この章句が説くこと
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