智囊 / 不戰・李愬
初,秀琳降,愬單騎抵柵下與語,親釋縛,署以為將。秀琳為愬策曰:「必破賊,非李祐無以成功者。」祐,賊健將也,守興橋柵,其戰常易官軍。愬候祐護獲於野,遣史用誠以壯士三百伏其旁,見羸卒若將燔聚者,祐果輕出,用誠擒而還。諸將素苦祐,請殺之,愬不聽,以為客將,間召祐及李忠義,屏人語至夜艾。忠義亦賊將,軍中多諫此二人不可近。愬待益厚。乃募死士三千為突將,自教之。會雨,自五月至七月不止,軍中以為不殺祐之罰,將吏雜然不解,愬力不能獨完祐,乃持以泣,曰:「天不欲平賊乎?何見奪者眾耶?」則械而送之朝,表言:「必殺祐,無與共謀蔡者。」詔釋以還愬,愬乃令佩劍出入帳下,署六院兵馬使,祐奉檄嗚咽。諸將乃不敢言,由是始定襲蔡之謀矣。〔述評〕不械送祐,則謗者不息。此與司馬懿祁山請戰奉詔而止同一機軸,皆成言先入,度其必不迕而後行之者也。辛毗持節而蜀師老,李祐還幕而吳寇平,雖將之善,君亦與焉。
新字:初,秀琳降,愬単騎抵柵下与語,親釈縛,署以為将。秀琳為愬策曰:「必破賊,非李祐無以成功者。」祐,賊健将也,守興橋柵,其戦常易官軍。愬候祐護獲於野,遣史用誠以壮士三百伏其旁,見羸卒若将燔聚者,祐果軽出,用誠擒而還。諸将素苦祐,請殺之,愬不聴,以為客将,間召祐及李忠義,屏人語至夜艾。忠義亦賊将,軍中多諫此二人不可近。愬待益厚。乃募死士三千為突将,自教之。会雨,自五月至七月不止,軍中以為不殺祐之罰,将吏雑然不解,愬力不能独完祐,乃持以泣,曰:「天不欲平賊乎?何見奪者衆耶?」則械而送之朝,表言:「必殺祐,無与共謀蔡者。」詔釈以還愬,愬乃令佩剣出入帳下,署六院兵馬使,祐奉檄嗚咽。諸将乃不敢言,由是始定襲蔡之謀矣。〔述評〕不械送祐,則謗者不息。此与司馬懿祁山請戦奉詔而止同一機軸,皆成言先入,度其必不迕而後行之者也。辛毗持節而蜀師老,李祐還幕而呉寇平,雖将之善,君亦与焉。
書き下し
初め、秀琳の降るや、愬は単騎にて柵下に抵りて与に語り、親ら縛を釈き、署して以て将と為す。秀琳は愬の為に策して曰く、「必ず賊を破らんとせば、李祐に非ざれば以て功を成す者なし。」と。祐は賊の健将なり、興橋の柵を守り、その戦いは常に官軍を易る。愬は祐の野に獲を護るを候い、史用誠をして壮士三百を以てその旁に伏せしむ。羸卒の燔聚せんとするが若き者を見て、祐は果たして軽く出で、用誠は擒えて還る。諸将は素より祐に苦しめられ、これを殺さんことを請うも、愬は聴かず、以て客将と為し、間に祐及び李忠義を召し、人を屏けて語ること夜艾に至る。忠義もまた賊将なり。軍中多く此の二人は近づくべからずと諫む。愬の待つこと益々厚し。乃ち死士三千を募りて突将と為し、自らこれを教う。たまたま雨ふり、五月より七月に至るまで止まず。軍中は以て祐を殺さざるの罰と為し、将吏雑然として解せず。愬は力もて独り祐を完うすること能わず、乃ち持して泣き、曰く、「天は賊を平らぐるを欲せざるか。何ぞ奪わるる者の衆きや。」と。則ち械して朝に送り、表して言う、「必ず祐を殺さば、与に共に蔡を謀る者なし。」と。詔して釈して以て愬に還す。愬は乃ち令して剣を佩びて帳下に出入せしめ、六院兵馬使に署す。祐は檄を奉じて嗚咽す。諸将は乃ち敢えて言わず。ここより始めて蔡を襲うの謀定まる。〔述評〕祐を械送せざれば、則ち謗る者息まず。これ司馬懿の祁山に戦いを請い、詔を奉じて止まるると同じ一機軸なり。皆成言を先に入れ、その必ず迕わざるを度りて而る後にこれを行う者なり。辛毗は節を持して蜀師老い、李祐は幕に還りて呉寇平らぐ。将の善きなりと雖も、君もまたこれに与かる。
現代語訳
はじめ、呉秀琳が降ったとき、李愬は単騎で柵の下に赴いて話をし、自ら縛を解いて、将に任じた。呉秀琳は李愬のために策を述べた。「必ず賊を破ろうとするなら、李祐でなければ功を成せる者はいません。」李祐は賊の勇将で、興橋の柵を守り、戦うたびに官軍を侮っていた。李愬は李祐が野で収穫を守っているのを待ち、史用誠に壮士三百人を率いてその傍に伏せさせた。痩せた兵が草を集めて焼こうとしているのを見せると、李祐は案の定軽く出てきて、史用誠は捕らえて帰った。諸将はもともと李祐に苦しめられていたので、斬ることを願ったが、李愬は聞かず、客将に任じて、折々に李祐と李忠義を呼び、人払いして夜更けまで語った。李忠義もまた賊の将である。軍中では多く、この二人は近づけてはならないと諫めた。李愬はますます厚く待遇した。そこで決死の兵三千を募って突撃の将とし、自ら教練した。あいにく雨が降り、五月から七月まで止まなかった。軍中ではこれを李祐を殺さなかった罰だとし、将も役人もみな納得しなかった。李愬は独りで李祐を守り通せず、そこで李祐を抱えて泣き、言った。「天は賊を平らげることを望まないのか。どうして奪われるものがこんなに多いのか。」そして枷をかけて朝廷に送り、上表して言った。「必ず李祐を殺すなら、ともに蔡を謀る者はなくなります。」詔が下って許され、李愬のもとに戻された。李愬は剣を帯びて幕舎に出入りさせ、六院兵馬使に任じた。李祐は命令書を受けて嗚咽した。諸将はもはや何も言わなかった。ここで初めて蔡を襲う計画が定まった。〔述評〕李祐を枷にかけて送らなければ、誹る者の口は止まなかった。これは司馬懿が祁山で戦いを請い、詔を奉じて止まったのと同じ仕掛けである。どちらもあらかじめ言葉を朝廷に入れ、必ず逆らわれないと見込んでから行う者である。辛毗が節を持って現れたので蜀の軍は疲れ、李祐が幕に戻ったので呉の賊は平らげられた。将の善さもあるが、君主もまたこれに関わっている。
解説
この章句が説くこと
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