智囊 / 不戰・岳忠武
〔按〕楊么據洞庭,陸耕水戰,樓船十餘丈,官軍徒仰視,不得近。岳飛謀亦欲造大舟,湖南運判薛弼謂岳曰:「若是,非歲月不勝。且彼之所長,可避而不可鬥也。今大旱,河水落洪,若重購舟首,勿與戰,遂筏斷江路。藁其上流,使彼之長坐廢。而精騎直搗其壘,則彼壞在目前矣。」岳從之,遂平么。人知岳侯神算,平么於八日之間,而不知計出薛弼。從來名將名相,未有不資人以成功者。岳忠武善以少擊眾,嘗以八百人破群盜王善等五十萬眾於南薰門;以八千人破曹成十萬眾於桂嶺;其戰兀術於潁昌,則以背嵬八百,於朱仙鎮則以五百,皆破其眾十餘萬。凡有所舉,盡召諸統制與謀,謀定而後戰。故有戰無敗,猝遇敵,不動,敵人為之語曰:「撼山易,撼岳家軍難!」
新字:〔按〕楊么拠洞庭,陸耕水戦,楼船十余丈,官軍徒仰視,不得近。岳飛謀亦欲造大舟,湖南運判薛弼謂岳曰:「若是,非歳月不勝。且彼之所長,可避而不可鬥也。今大旱,河水落洪,若重購舟首,勿与戦,遂筏断江路。藁其上流,使彼之長坐廃。而精騎直搗其塁,則彼壊在目前矣。」岳従之,遂平么。人知岳侯神算,平么於八日之間,而不知計出薛弼。従来名将名相,未有不資人以成功者。岳忠武善以少撃衆,嘗以八百人破群盗王善等五十万衆於南薫門;以八千人破曹成十万衆於桂嶺;其戦兀術於潁昌,則以背嵬八百,於朱仙鎮則以五百,皆破其衆十余万。凡有所舉,尽召諸統制与謀,謀定而後戦。故有戦無敗,猝遇敵,不動,敵人為之語曰:「撼山易,撼岳家軍難!」
書き下し
〔按〕楊么は洞庭に拠り、陸に耕し水に戦う。楼船は十余丈、官軍は徒だ仰ぎ視るのみにして、近づくを得ず。岳飛の謀もまた大舟を造らんと欲す。湖南運判の薛弼、岳に謂いて曰く、「もし是くのごとくんば、歳月に非ざれば勝たず。かつ彼の長ずる所は、避くべくして闘うべからざるなり。今大旱にして、河水は落ち洪まる。もし重く舟首を購い、与に戦うことなく、遂に筏もて江路を断ち、その上流に藁して、彼の長をして坐に廃せしめ、而して精騎直ちにその塁を搗かば、則ち彼の壊るるは目前にあらん。」と。岳はこれに従い、遂に么を平らぐ。人は岳侯の神算にして、么を八日の間に平らぐるを知るも、計の薛弼より出ずるを知らず。従来、名将名相、人に資りて以て功を成さざる者あらず。岳忠武は善く少を以て衆を撃つ。嘗て八百人を以て群盗王善ら五十万の衆を南薫門に破り、八千人を以て曹成十万の衆を桂嶺に破り、その兀朮と潁昌に戦うや、則ち背嵬八百を以てし、朱仙鎮においては則ち五百を以てし、皆その衆十余万を破る。凡そ挙ぐる所あれば、尽く諸統制を召して謀に与らしめ、謀定まりて而る後に戦う。故に戦いありて敗れなし。猝かに敵に遇いても動かず。敵人これが為に語りて曰く、「山を撼かすは易く、岳家軍を撼かすは難し。」と。
現代語訳
〔按〕楊么は洞庭湖に拠り、陸では耕作し水上では戦った。楼船は十丈あまりもあり、官軍はただ仰ぎ見るばかりで近づけなかった。岳飛の計画もまた大きな船を造るというものだった。湖南運判の薛弼は岳飛に言った。「そのようにすれば、年月がかかって勝てません。それに敵の得意なものは、避けるべきで、戦うべきではありません。今は大旱で、川の水が減って流れが細くなっています。もし重い賞を懸けて船首を買い取り、敵と戦わず、筏で江の道を断ち、その上流に藁を流して、敵の得意を座したまま使えなくし、精鋭の騎兵でまっすぐにその砦を突けば、敵が崩れるのは目前です。」岳飛はこれに従い、とうとう楊么を平らげた。人々は岳侯の神算で八日のうちに楊么を平らげたことは知っているが、その計が薛弼から出たことは知らない。昔から名将名相で、人の力を借りずに功を成した者はいない。岳忠武はよく少数で多数を撃った。かつて八百人で群盗の王善ら五十万の衆を南薫門で破り、八千人で曹成の十万の衆を桂嶺で破り、兀朮と潁昌で戦ったときは背嵬軍八百で、朱仙鎮では五百で、いずれも敵の十万あまりを破った。何か事を起こすときは、いつも諸統制を召して計画に加わらせ、策が定まってから戦った。だから戦って敗れることがなかった。不意に敵に出会っても動じなかった。敵は岳家軍を評して言った。「山を揺るがすのはやさしいが、岳家軍を揺るがすのは難しい。」
解説
この章句が説くこと
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