孔子家語 / 六本
荊公子行年十五,而攝荊相事。孔子聞之,使人往觀其為政焉。使者反曰:「視其朝清凈而少事。其堂上有五老焉,其廊下有二十壯士焉。」孔子曰:「合二十五人之智,以治天下,其固免矣。況荊乎?」
新字:荊公子行年十五,而摂荊相事。孔子聞之,使人往観其為政焉。使者反曰:「視其朝清浄而少事。其堂上有五老焉,其廊下有二十壮士焉。」孔子曰:「合二十五人之智,以治天下,其固免矣。況荊乎?」
書き下し
荊の公子、行年十五にして、荊の相事を摂る。孔子之れを聞き、人をして往きて其の政を為すを観しむ。使者反りて曰わく、「其の朝を視るに清浄にして事少なし。其の堂上に五老有り、其の廊下に二十壮士有り。」孔子曰わく、「二十五人の智を合わせて、以て天下を治むれば、其れ固より免れん。況んや荊においてをや。」
現代語訳
荊(楚)の公子は、まだ十五歳でありながら荊の宰相の職務を代行していた。孔子はこれを聞き、人をやってその政治のありさまを視察させた。使者は戻ってきて「朝廷を見ると清らかで事務が少なく整っていました。堂上には五人の長老がおり、廊下には二十人の壮士が控えていました」と報告した。孔子は言った。「二十五人の知恵を合わせて天下を治めれば、失敗を免れるのは当然だ。まして一国の荊においてはなおさらだろう。」
解説
十五歳という若さで宰相の職務を代行した公子の政治を、孔子が高く評価した逸話です。若い公子自身の才知だけでなく、堂上に控える五人の長老と廊下に控える二十人の壮士という合計二十五人の知恵と力を結集する体制が整っていたことを、孔子は評価の根拠としています。ここには、指導者一人の能力だけに頼るのではなく、経験豊かな長老の知恵と実行力のある人材を適切に配置し、集団の総合力で政治を行うことの重要性が示されています。若さや経験不足を、優れた人材の登用と組織づくりによって補うという考え方は、現代のリーダーシップ論にも通じる普遍的な教訓です。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
荊公子人材登用組織政治孔子
関連する章句
-
『講孟余話』離婁下 第十七章此の章深く賢を蔽ふを悪む。賢を蔽ふとは、身大臣執政と成りて、下に賢者あるを知りながら抜用せざるの類を云ふ。賢を見て挙ぐること能はず、挙げて先にすること能はざるの義なり。賢を蔽ふすら孟子は深く悪んで不祥の実とす。況んや賢を嫉みて是れを陥るる如きは、孟子是れを如何とか云はん。然れども人私心を挟んで事を処する時は、忠勤の人にても或は己が愛憎を以てし、或は意見の異同を以て、賢を蔽ひ賢を陥るること、古今往々あることなり。慎むべし、戒むべし。
-
『慎思録』巻之六君たり吏たる者、卑賤の人に対して、厳威過ぎて高ければ、則ち勢分相隔絶して、下に在る者、其の情を尽くすことを得ずして、下情達せず、其の利害を詳らかにすること能はず。苟も温顔にして言を受くれば、則ち下情通ず。大率政を為すの道は、下情を通ずるを以て善と為す。
-
『講孟余話』滕文公上 第四章「堯の時に当りて」云々。堯の天下を治むるの次序、先づ舜を挙げて政治の大体を謀議す。次に益・禹を用ひて民の為に害を除き、稷を用ひて民を養ひ、契を用ひて民を教ふ、是れ其の大体なり。噫、亦至れり尽せり。後の政を為す者、大体を立てずして瑣事末節に汲々たる、何ぞ能く成就する所あらんや。況や人を挙用することを勉めとせず、労して功なき者往々皆然り。又司徒の職を論ずる所、万古人道是れに尽く、所謂五教なり。「放勲曰く」の語、万古教道是れに尽く、所謂寛に在るなり。玩味して一字にても疎かに読むべからず。
-
史記 孔子世家夏、衛の霊公卒し、孫輒を立つ、是れを衛の出公と為す。六月、趙鞅太子蒯聵を戚に内る。陽虎、太子をして絻せしめ、八人衰絰し、偽りて衛より迎ふる者として、哭して入り、遂に焉に居る。冬、蔡州来に遷る。是の歳魯の哀公三年にして、孔子年六十なり。斉衛を助けて戚を囲む、衛の太子蒯聵在るの故を以てなり。夏、魯の桓釐の廟燔く、南宮敬叔火を救ふ。孔子陳に在り、之を聞きて曰く、「災は必ず桓釐の廟に於てせんか」と。已にして果たして然り。秋、季桓子病み、輦して魯城を見、喟然として嘆じて曰く、「昔此の国幾ど興らんとす、吾罪を孔子に獲たるを以ての故に、興らざるなり」と。顧みて其の嗣康子に謂ひて曰く、「我即し死せば、若必ず魯に相たれ。魯に相たらば、必ず仲尼を召せ」と。後数日、桓子卒し、康子代はりて立つ。已に葬り、仲尼を召さんと欲す。公之魚曰く、「昔吾が先君之を用ひて終へず、終に諸侯の笑ひと為る。今又之を用ひ、終ふること能はずんば、是れ再び諸侯の笑ひと為らん」と。康子曰く、「則ち誰を召さば可ならん」と。曰く、「必ず冉求を召せ」と。是に於て使をして冉求を召さしむ。冉求将に行かんとす、孔子曰く、「魯人求を召す、之を小用するに非ず、将に之を大用せんとするなり」と。是の日、孔子曰く、「帰らんか帰らんか。吾が党の小子は狂簡、斐然として章を成す、吾之を裁する所以を知らず」と。子貢孔子の帰らんことを思ふを知り、冉求を送り、因りて誡めて曰く「即し用ひられなば、孔子を以て招と為せ」と云ふ。冉求既に去り、明年、孔子陳より蔡に遷る。蔡の昭公将に呉に如かんとす、呉之を召せばなり。前に昭公其の臣を欺きて州来に遷る、後に将に往かんとするに、大夫復た遷らんことを懼れ、公孫翩昭公を射殺す。楚蔡を侵す。秋、斉の景公卒す。明年、孔子蔡より葉に如く。葉公政を問ふ、孔子曰く、「政は遠きを来たし邇きを附くるに在り」と。他日、葉公孔子を子路に問ふ、子路対へず。
-
『徂徠先生答問書』卷下古の書に有之候太公望より以下孫子呉子韓信諸葛孔明李靖が類は、此方にても兵家者流には是等は師とし尊び候事に候。されども此人々も別に武道といふ事を被立候事は無之候。事の起り、吾国の俗説に文武二道と申詞有之候。是は中古より公家武家とて家別れ候より、公家の伝へ候芸を文道と覚え、武家の伝へ候芸を武道と名付候俗説迄の事に候。詩歌も弓馬も芸にて候を、文盲なるものゝ道と名付け申習はし候にて候。され共武官家を世々し候得ば、一種の風俗自然に出来り候。大抵勇を尚び死をいとはず、恥を知り信を重んじ、むさときたなく候事を男子のせざる事と立候習はし、源平の時分此通りに候。それより世久しく戦国になり候故、世皆軍中の法令を以て国を治め候。其後天下一統しても、何れも文盲にて古を稽へ文徳に返る事をしらず、太平の今に至るまで、官職も軍中の役割を其儘に用ひ、政治も軍中の法令を改めず候。是によりて武威を以てひしぎつけ、何事も簡易径直なる筋を貴び候事を武家の治めと立て、是吾邦に古より伝はり候武道に候などゝ文盲なるものゝ存候にて御座候。
-
『徂徠先生答問書』卷中又愚老ごときの年はや五十にも成候人の、身の内に疝気つかへも痰も有之。気血も弱成候人を、扁鵲に見せたり共廿歳計の頃の健さには返されぬ物に候。身の内に年久敷有之候病は、如何に療治仕候ても、のけられぬ物にて候。粗忽なる医者は、当分の見処に任せ、こと〴〵くに治せんと仕候故、病は愈不申、元気をそこなひ命を縮むる類多御座候。此道理を能々会得仕候得ば、祖宗の法は改めぬ物と古人の被申候は誠に名言と存候。治乱盛衰の道も御明らめなく、人情世態に熟練なく候て、当分の是非目前の利害を思召候分にては、国の古法を改め候事は不宜事の至極に候。