智囊 / 小慧・竇義
扶風竇義年十五,諸姑累朝國戚,其伯工部尚書,於嘉令坊有廟院。張敬立任安州歸,安州土出絲履,敬立齎十數緉,散諸甥姪。咸競取之,義獨不取。俄而所剩之一緉又稍大,義再拜而受,遂於市鬻之,得錢半斤密貯之。
新字:扶風竇義年十五,諸姑累朝国戚,其伯工部尚書,於嘉令坊有廟院。張敬立任安州帰,安州土出糸履,敬立齎十数緉,散諸甥姪。咸競取之,義独不取。俄而所剰之一緉又稍大,義再拝而受,遂於市鬻之,得銭半斤密貯之。
書き下し
扶風の竇義は年十五、諸姑は累朝の国戚、其の伯は工部尚書にして、嘉令坊に廟院有り。張敬立は安州に任じて帰り、安州の土は絲履を出だす、敬立は十数緉を齎し、諸の甥姪に散ず。咸な競いて之を取るも、義は独り取らず。俄にして剰す所の一緉は又た稍や大なり、義は再拝して受け、遂に市に於いて之を鬻ぎ、銭半斤を得て密かに之を貯う。
現代語訳
扶風の竇義は十五歳であった。叔母たちは歴代の王朝の外戚に連なり、伯父は工部尚書で、嘉令坊に廟院を持っていた。張敬立は安州の任を終えて帰る際、安州の土地は絹の履物を産するので、十数足を持ち帰って、甥や姪たちに分け与えた。みな競って取ったが、竇義だけは取らなかった。しばらくして、残った一足は少し大きかった。竇義は二度拝礼してそれを受け取り、そのまま市で売り、銭半斤を得て、ひそかにしまっておいた。
解説
竇義の長い物語の導入部です。周りが競って取る場で、一歩引いて残りものを待つ姿勢と、受け取った品を元手に変える動きの早さが描かれます。他人と同じ土俵で取り合わず、遅れて残ったものを選ぶことで、争いを避けつつ元手を得ました。しかも、それを使わずに貯めておくという自制もあります。若い人材の見どころは、才気よりこうした待つ力と、小さな資本を確実に積む姿勢にあるのかもしれません。管理職は、目先の取り分を争わず、長期の成長のために動ける部下を見逃さないよう目を配りたいところです。なお、この段は物語の序で、事の全容は次の段以降に続くため、評価はまだ途中のものです。
この章句が説くこと
糸履銭半斤竇義人材登用判断元手
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