智囊 / 善言・李綱
李綱欲用張所。然所嘗論宰相黃潛善,綱頗難之。一日遇潛善,款語曰:「今當艱難之秋,負天下重責,而四方士大夫,號召未有來者。前議置河北宣撫司,獨一張所可用。又以狂妄有言得罪,如所之罪,孰謂不宜?第今日勢迫,不得不試用之,如用以為台諫,處要地,則不可;使之借官為招撫,冒死立功以贖過,似無嫌。」潛善欣然許之。
新字:李綱欲用張所。然所嘗論宰相黄潜善,綱頗難之。一日遇潜善,款語曰:「今当艱難之秋,負天下重責,而四方士大夫,号召未有来者。前議置河北宣撫司,独一張所可用。又以狂妄有言得罪,如所之罪,孰謂不宜?第今日勢迫,不得不試用之,如用以為台諫,処要地,則不可;使之借官為招撫,冒死立功以贖過,似無嫌。」潜善欣然許之。
書き下し
李綱、張所を用いんと欲す。然れども所は嘗て宰相黄潜善を論ず、綱頗る之を難しとす。一日潜善に遇い、款語して曰く、「今は当に艱難の秋にして、天下の重責を負うも、四方の士大夫、号召して未だ来る者有らず。前に河北宣撫司を置かんと議せしとき、独り一張所のみ用うべし。又た狂妄にして言有るを以て罪を得たり。所の罪の如きは、孰か宜しからずと謂わん。第だ今日勢い迫り、試みに之を用いざるを得ず。如し用いて以て台諫と為し、要地に処らしめば則ち不可なり。之をして官を借りて招撫と為し、死を冒して功を立てて以て過ちを贖わしむるは、嫌無きに似たり」と。潜善欣然として之を許す。
現代語訳
李綱は張所を用いたいと考えた。しかし張所はかつて宰相の黄潜善を批判したことがあり、李綱はこれをたいへん難しいと思っていた。ある日、潜善に会い、打ち解けて言った。「今は困難な時期で、天下の重い責任を背負っておりますが、各地の士大夫を呼び寄せても、まだ来る者がありません。先に河北宣撫司を置こうと議したとき、用いるべき者は張所一人だけでした。その張所は、でたらめな発言をして罪を得ました。所の罪については、誰も当然だと言うでしょう。ただ今日は情勢が差し迫っており、試しに用いないわけにはいきません。もし台諫に任じて要職に置くのなら、それはいけません。官名を借りて招撫の任に就かせ、死を覚悟して功を立てさせ、それで過ちを償わせるのなら、差し障りはなさそうです」。潜善は喜んで承諾した。
解説
この章句が説くこと
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